「明智光秀の生涯まとめ【後半】比叡山焼き討ち・本能寺の変・最期を定説と奇説で徹底解説」

明智光秀関係
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その1」では、明智光秀の謎多き前半生――出生から金ヶ崎の退き口まで――を追いました。

この「その2」では、光秀が織田家中で頭角を現してから、本能寺の変を起こし、山崎の戦いで敗れて最期を迎えるまでの後半生を詳しくまとめます。

光秀の名を歴史に刻んだ「本能寺の変」の動機については謎が多く、専門家の間でも議論が続いています。定説と奇説を交えながら、その実像に迫ります。

足利家から織田家の家臣へ――1571年

1571年、三好三人衆と石山本願寺が挙兵したことに対し、光秀は信長・義昭とともに摂津に布陣しました。このあたりから、光秀の事績は史料で明確に追えるようになってきます。

同年9月には有名な比叡山焼き討ちを行います。

光秀は焼き討ちに反対したのか?

ドラマや小説では「光秀は焼き討ちに反対し、信長の怒りを買った」と描かれることが多いです。しかし残されている文献によると、光秀はむしろ実行部隊の中心人物だったようです。

比叡山延暦寺は当時、浅井・朝倉氏と結んで信長に対抗しており、信長は宗教勢力の政治介入を断ち切るために焼き討ちを決断したとされています。光秀がここで信長の意向に従い積極的に動いたことは、その後の重用につながったとも考えられます。

📌 雑学:比叡山焼き討ちで亡くなった人数は数千人とも数万人とも言われています。僧侶だけでなく、山内に住んでいた女性や子供も含まれていたとされており、当時の貴族の日記にも衝撃が記されています。

坂本城の築城と城持ち大名へ

1572年、光秀は近江滋賀(志賀)郡5万石を与えられ、坂本城の築城を開始します。坂本城はルイス・フロイスから「安土城に次ぐ城」と絶賛された名城で、1573年に完成します。

これにより光秀は織田家中で初めての城持ち大名となりました。足軽衆から始まった光秀の出世は、このとき大きな節目を迎えます。

この頃、足利家から織田家に正式に編入されたと見る向きもありますが、光秀が義昭に暇乞いをしたところ断られているという記録もあり、義昭との関係は複雑でした。

室町幕府の滅亡――1573年

1572年10月、義昭の要請により武田信玄が西へ軍を進めると、それに呼応して1573年2月に足利義昭が信長に対し挙兵。浅井氏や朝倉氏も呼応し、いわゆる信長包囲網が形成されます。

このとき光秀は織田家の軍勢に組み入れられ出陣しています。信玄の急死や朝倉氏の撤退もあり包囲網は崩壊。一時は和睦も図られましたがうまくいかず、義昭は同年7月に宇治槇島城にて再度挙兵するも鎮圧され、河内に追放されます。ここに室町幕府は滅亡しました。

同年、浅井・朝倉両家も滅ぼされています。通説では翌年正月の祝いの席で浅井長政と朝倉義景のドクロが金箔で塗られ、信長がそれを盃にして酒を飲んだとされていますが、『信長公記』によると実際には漆で黒く塗った上に金箔を散らしたものであり、盃にしたということはないようです。また古代中国ではこのような行為は敵への敬意を表すものでもあり、当時の織田家中に非難した者はいなかったと伝わっています。

京都奉行と朝廷工作――光秀の外交的役割

1573年から1575年頃まで、光秀は村井貞勝とともに京都の奉行を務めています。これは単なる行政職ではなく、朝廷・公家・寺社との折衝という外交的な役割でもありました。

1573年、信長は朝廷に対し元号を変えるよう要求。元亀から天正へと改元されます。さらに朝廷より従三位の地位を授けられますが、信長は官位が低いと激怒し、正倉院に入って秘蔵の香木蘭奢待を切り取るなど前例のない行動をいくつも取っています。

これらは後の「本能寺の変・朝廷黒幕説」が語られる際に必ず取り上げられる事績です。朝廷が信長を脅威と感じ、光秀を通じて除こうとしたという説につながります。

1575年、光秀は朝廷より従五位下と惟任(これとう)の姓が与えられ、「惟任日向守」と呼ばれるようになります。

丹波攻め――苦戦と最終的な平定

1575年、光秀は丹波攻めを命じられます。しかし丹波は一筋縄ではいかない土地でした。

黒井城での大敗

赤井(荻野)直正が守る黒井城を包囲していましたが、赤井直正の縁戚である波多野秀治の裏切りにより敗走し、一時立て直しが必要となります。

この波多野秀治の裏切りは光秀の丹波攻めで最大の蹉跌であり、再起には数年を要しました。

📌 雑学:「頑固一徹」という言葉の語源とも言われる稲葉一鉄(稲葉良通)は赤井直正と親戚関係にあり、このあたりの西美濃・丹波の武将たちの人間関係は非常に複雑でした。また元ボクサー・俳優の赤井英和さんは、この赤井直正の末裔と言われています。

丹波平定の成功(1579年)

その後、光秀は着実に丹波を攻略していきます。1578年には亀山(亀岡)城を拠点とし、翌1579年についに八上城および黒井城を攻略、丹波平定に成功しました。

さらに丹後の細川藤孝と協力して丹後も平定。信長からも称賛され、丹波一国を与えられ、近江滋賀郡と合わせて34万石を支配する立場となります。

家老の斎藤利三を黒井城に、明智秀満を福知山城に入れ、丹波支配の地盤を固めました。丹後の細川藤孝・忠興親子、大和の筒井順慶らを配下に組み入れる形になり、彼らの領土を含めると支配下の土地は240万石に及ぶとも言われています。研究者によってはこの時代の光秀を「近畿管領」と呼ぶほどです。

母(おば)人質伝説の信憑性

八上城落城の際、降伏した波多野三兄弟の命を保証するために自らの母かおばを人質に出したものの、彼らが信長に処刑されたため光秀の母かおばも殺されたという言い伝えがあり、怨恨説の根拠のひとつとされています(『総見記』『常山紀談』)。

しかしいずれも江戸時代の書物であり、信憑性は高くないとされています。また『信長公記』には、落城寸前の八上城は明智軍の包囲によって餓死者が多数出ていたと記されており、わざわざ人質という手段を取る必要があったかどうかも疑問です。

「信長公記」に書かれなかった光秀の活躍

光秀の名声を語る上で見落とせない点があります。信長を語る最も信頼される史料『信長公記』は、信長の右筆・太田牛一が書いたものです。太田牛一は後に秀吉にも仕えており、光秀のことを好意的に書くことは難しかったと考えられます。

つまり、金ヶ崎の退き口、比叡山焼き討ち、長篠の戦いなどで光秀が実際に活躍していたとしても、意図的に書かれなかった可能性があります。デタラメを書くのは憚られるので、書かないことでぼかしたのではないかという見方です。

光秀の功績が後世に過小評価されてきた背景には、こうした史料上の偏りがあることを念頭に置く必要があります。

長篠の戦いへの参加問題

1575年の長篠の戦い(武田家に大打撃を与えた有名な合戦)について、光秀が参加したかどうかは史料によってバラバラで、真相は不明です。

後に武田家を滅ぼした後の祝宴で、光秀が「我々も骨を折った甲斐があった」と発言したことに対し、信長が「おまえが何をしたというのか!」と激怒し、欄干に頭を打ちつけたという説があります。これが怨恨説に必ず取り上げられるエピソードですが、長篠の戦いに参加していなかったことへの皮肉だったとも解釈されています。

正室・熙子の死――1576年

1576年、石山本願寺を攻める際、光秀は一時敵に包囲されて危機に陥ります。このとき信長が自ら兵を率い、負傷してまで光秀を助けたとされており、主従の絆の深さを示すエピソードとして語られています。

同年、過労からか光秀は病となり休養を余儀なくされます。信長からの使者を筆頭に多くの者が見舞いに訪れたとされています。

そしてこの年、光秀の正室・熙子(ひろこ)が坂本城にて死去します。明智家の菩提寺である西教寺にはそう記された古文書が残されています。

熙子は生年が明らかではありませんが、1530年頃の生まれとする説が有力で、享年は46歳前後だったことになります。朝倉氏に仕えていた貧しい頃、仲間をもてなすために自分の髪を売ったという逸話で知られる献身的な女性です。光秀が熙子をいかに大切にしていたかは複数の記録に残っており、その死が光秀の精神に与えた影響は小さくなかったと思われます。

📌 雑学:滋賀県大津市坂本にある西教寺は、光秀とゆかりの深い寺です。境内には光秀・熙子夫妻の墓があり、現在も光秀ファンが多く訪れます。坂本城跡も近くにあります。

近畿管領として――1577〜1581年

1577年、信長に反旗を翻した松永久秀を攻めるため、細川藤孝・筒井順慶らと信貴山城を攻めます。後に信長の嫡男・信忠を指揮官とする大軍が到着し、信貴山城は陥落。松永久秀は自害しました。

1578年には荒木村重の謀反にも対応しています。荒木村重の息子・村次の妻は光秀の娘だったため、光秀は説得に赴くなどもしたようです。この娘は後に三宅弥平次(明智秀満)に再嫁しています。

京都馬揃え(1581年)

1581年、光秀は有名な京都馬揃え(軍事パレード)を仕切ります。天皇も見学したと言われるこの大規模パレードは、信長の権威を内外に誇示する一大イベントでした。

朝廷への牽制だったとも、朝廷が守護者としての信長を認めるための儀式だったとも言われています。朝廷への牽制という解釈は「本能寺の変・朝廷黒幕説」につながります。

「明智家法」と信長への感謝

同年、光秀は『明智家法』なるものを制定します。その中で「石ころ同然の身分から取り上げていただき……」という信長への感謝の言葉が記されています。

信長は本願寺軍に包囲された光秀を自ら負傷してまで助けに行ったことがあり、光秀は自分を見出してくれた信長に深く感謝していました。主従の絆は決して薄いものではなかっただけに、余計に本能寺の変の動機がわからなくなります。

本能寺の変へ――謎の解任と愛宕百韻

1582年3月、武田氏を滅ぼす甲州征伐に後詰として出陣しますが、直接戦闘には参加していません。

饗応役の突然の解任

同年5月、光秀は安土城での徳川家康の饗応役(もてなし役)を突如解任され、羽柴秀吉の中国攻めに加勢するよう命じられます。

この解任の理由については諸説あります。

  • 饗応の手際が悪く信長に叱責された(怨恨説の根拠のひとつ)
  • そもそも急ぎ秀吉の援軍に向かわせる必要があり、解任は合理的判断だった
  • 意図的に光秀を失脚させようとする動きがあった

いずれにせよ、この解任が光秀の心中に何らかの影響を与えたことは否定できません。

愛宕百韻と「ときは今」の句

5月28日、光秀は愛宕山威徳院で愛宕百韻と呼ばれる連歌会を催します。このとき光秀が詠んだ発句が有名な「ときは今 天が下しる 五月かな」です。

「とき(時)は今」を「土岐氏の今こそ」と読み、天下取りの野望を詠んだものとする解釈が定番ですが、単に「時節は今(五月)、天下は今の季節のもと……」という季節の句という解釈もあります。

しかし連歌会の翌日から光秀は軍を動かし始めており、この時点では既に決意を固めていたと考えるのが自然です。

📌 雑学:愛宕山(京都市)は戦国武将たちが武運を祈った霊山です。現在も愛宕神社があり、参拝者が絶えません。光秀はここで「勝軍地蔵」のおみくじを3回引き、3回とも凶が出たという話もあります。

本能寺の変――1582年6月2日

6月2日未明、光秀は約1万3000の兵を率いて京都へ向かい、本能寺を包囲・攻撃します。信長はわずかな供回りとともに本能寺に滞在しており、抵抗も虚しく自害したとされています。

光秀はさらに二条御所も攻め、信長の嫡男・信忠も討ち取りました。

この「本能寺の変」の動機については、少なくとも60の説があると言われています。主な説を整理すると以下のとおりです。

  • 怨恨説:信長から度重なる屈辱を受け、恨みが積もった
  • 四国説:長宗我部家への信長の方針転換が引き金となった(斎藤利三・石谷家文書との関係)
  • 朝廷黒幕説:朝廷が信長を脅威と感じ、光秀を動かした
  • 足利義昭黒幕説:追放された元将軍が各地から光秀を動かした
  • 秀吉黒幕説:中国遠征中だった秀吉が光秀を利用した
  • 光秀単独説:外部の黒幕なく、光秀自身の決断で実行した

詳しくは関連記事をご覧ください。

本能寺の変について、一般的な説を整理してみました。
本能寺の変に関する異説いろいろ 光秀は忠臣だった?

本能寺の変後――短すぎた「天下」

本能寺の変後、光秀は京と近江を平定し、安土城も制圧。朝廷にも銀500枚を送ったとされています。

このとき光秀が征夷大将軍に任じられたという説もあります。源氏の血を引くとされる光秀であればあり得ない話ではなく、事実とすれば木曽義仲と並ぶほど短期間の就任となります。

なぜ誰も味方しなかったのか

光秀は細川藤孝・忠興親子、筒井順慶など自分の配下にあった武将たちに味方になるよう書状を送りますが、結果的には全員に断られています。

細川親子については、光秀の娘・玉(ガラシャ)と忠興が夫婦であり、断りにくい立場のはずでした。しかし元々光秀が細川藤孝の部下だったという説が事実であれば、かつての主君の配下につくことへの抵抗感があったとも考えられます。

また、信長を討った直後という状況では「次に誰が天下を取るか」を見極めたいという武将が多く、様子見をするのは当然の判断でもありました。

山崎の戦いと最期

1582年6月13日、摂津と山城の境にある天王山の麓・山崎で、いわゆる「中国大返し」で軍を急進させてきた羽柴秀吉と戦うことになります。

兵力は光秀軍が1万〜1万7000、秀吉軍が2万〜4万と言われています。数では不利な状況でした。

山崎の地は川・沼・山に囲まれた狭隘な地形であり、大軍が展開しにくい場所でした。そのため光秀側もしばらくは健闘しましたが、最終的には側面を突かれる形で総崩れとなります。

勝竜寺城への退却と脱出

光秀は勝竜寺城に退却しますが、大軍を収容できるような城ではなかったため、密かに脱出し坂本城を目指します。しかし途中、小栗栖の竹藪の中で落ち武者狩りをしていた者たちによって腰に槍を受けて負傷。深手だったため、同行していた溝尾庄兵衛茂朝に介錯を頼み切腹したとされています。

光秀を攻撃した人物については諸説あり、中村長兵衛とも小栗栖の作右衛門とも、飯田一族という武士団だったという説もあります。

首の行方と生存説

光秀は知恩院に首を運んでほしいと頼んだとも言われていますが、介錯した溝尾茂朝も追手から逃げ切れず切腹し、近くに首を埋めたとされています。京都・亀岡の谷性寺には光秀の首塚があり、溝尾がここに首を運んだという説もあります。

定説では首を発見した百姓が織田信孝の元へと届け、斎藤利三の首とともに本能寺・粟田口にてさらされたとされています。しかし、秀吉が首実検をした際には3つの首が届けられ、いずれも夏の腐敗が進んでいて光秀と判別しがたかったと伝わっています。秀吉はいち早く「信長の仇討ち」を示す必要があったため、ひとつを光秀の首と断定しました。

このことから光秀は実は生き延びていたのではないかという説が生まれています。美濃国に帰ったという説と、徳川家康のブレーン・南光坊天海こそが光秀だという説が有名です。

明智光秀生存説ふたつ 天海上人に転生? 美濃で隠遁?

📌 雑学:小栗栖の竹藪は現在も「明智藪」として京都市伏見区に残っており、石碑が建っています。光秀ゆかりの地を巡るファンが今も訪れる場所です。

まとめ――明智光秀とはどんな人物だったのか

光秀の後半生を振り返ると、あらためてその特異な存在感が浮かび上がります。

  • 比叡山焼き討ちという過酷な命令にも従い、実行部隊を率いた冷静な実行者
  • 坂本城・亀山城を築き、丹波・丹後を平定した有能な行政官・軍略家
  • 京都奉行として朝廷・公家と渡り合った外交の担い手
  • 熙子を大切にし、部下の娘を気にかけた人情の人
  • そして、日本史最大のミステリーを起こした謎の人物

信長への感謝を文書に残した翌年に謀反を起こすという矛盾は、今も解明されていません。だからこそ明智光秀は500年近く経った今も、多くの人を惹きつけ続けているのかもしれません。

前半生についてはその1、本能寺の変の動機の詳細についてはこちらの記事をあわせてご覧ください。

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