足利家から織田家の家臣へ
1571年、三好三人衆と石山本願寺が挙兵したことに対し、光秀は信長、義昭と共に摂津に布陣しました。
このあたりから、光秀の事績は明確になってきます。
同年9月には有名な比叡山焼き討ちを行います。
このとき、光秀は焼き討ちに反対し、信長の怒りを買った……などとドラマ等では演出されることがあります。
しかし、残されている文献によると、むしろ実行部隊の中心人物だったようです。
1572年、近江滋賀(志賀)郡5万石を与えられ、坂本城の築城を始めます。
この頃、足利家から織田家に編入されたと見る向きもありますが、光秀が義昭に対し、暇乞いをしたところ、断られています。
しかし、1572年10月、義昭の要請により武田信玄が西へ軍を進めると、それに呼応して1573年2月足利義昭が信長に対し挙兵。
浅井氏や朝倉氏も呼応し、いわゆる信長包囲網が作られます。
このとき光秀は織田家の軍勢に組み入れられ、出陣しています。
信玄の急死や朝倉氏の撤退もあり、信長包囲網は壊滅。
一時は和睦も図られたもののうまくいかず、義昭は同年7月に宇治槇島城にて再度挙兵するものの、鎮圧され、最後は河内に追放。
ここに室町幕府が滅ぶことになります。
この年にルイス・フロイスから安土城に次ぐ城と絶賛された坂本城も完成します。
織田家中で初めての城持ち大名となったわけですね。
京都時代
1573年から1575年頃まで、光秀は村井貞勝とともに京都の奉行を務めています。
1573年、信長は朝廷に対し、元号を変えよと要求。
元亀から天正へと改元されます。
さらには、朝廷より従三位の地位を授けられますが、官位が低いと激怒、正倉院に入り、秘蔵の香木蘭奢待を切り取るなどという前例のないことをいくつも行っています。
これらは、後の本能寺の変・朝廷黒幕説が語られる際に取り上げられる事績です。
なお、1573年には浅井、朝倉両家が滅ぼされています。
通説では、翌年正月の祝いの席で、浅井長政と朝倉義景のドクロが金箔で塗られ、信長はそれを盃にして酒を飲んだとされています。
光秀が朝倉氏につかえていた説を取るドラマなどでは、その姿を見て、光秀が怯えたとも、信長に怒りを感じるという演出がされることがあります。
これが怨恨説を取る人には証拠のひとつとされています。
しかし、『信長公記』によると、ドクロには漆が塗られて黒くなったところに、金箔が散りばめられていたそうで、それを盃にしたということはないようです。
また、そのような処置は古代中国では敵への敬意を表すものだったようで、織田家中に誰もその行為に対して非難したものはいないようです。
1575年、朝廷より従五位下と惟任の姓が与えられ、日向守と呼ばれるようになります。
同年、丹波攻めを命じられ、作戦開始。
一時期は越前の一向一揆とも戦った模様です。
この年、武田家に大打撃を与える長篠の戦いがありますが、光秀が参加したかどうかは史料によりバラバラで真祖は不明です。
後に武田家を滅ぼした後の祝宴で、光秀が「我々も骨を折った甲斐があった」と発言したことに「おまえが何をしたというのか!」と激怒。
欄干に頭を打ちつけられたという説がありますが、それはこの戦いに参加していなかったからかもしれません。
このエピソードは本能寺の変、怨恨説に必ず取り上げられるエピソードです。
しかし、信長を語る上で最も信頼される史料は「信長公記」ですが、これは信長の右筆だった太田牛一が書いたものなので、信長のことをあまり悪く書いていません。
太田牛一は秀吉にも仕えていました。
となると、光秀のことを好意的に書くことは難しかった可能性が高く、つまり、金ヶ崎の退き口、比叡山焼き討ち、長篠の戦いなどで光秀は活躍していたのに、意図的に書かれなかったのではないでしょうか?
デタラメを書くのは気が引けるので、書かないことでぼやかしたのではないかと推測されます。
一方、丹波攻めの方は赤井(荻野)直正が守る黒井城を包囲していましたが、赤井直正の縁戚である波多野秀治の裏切りにより敗走し、一時立て直しが必要となります。
ちなみに元ボクサーで俳優の赤井英和は、この赤井直正の末裔と言われています。
妻の死と丹波平定まで
1576年、石山本願寺を攻めるものの、一時、敵に包囲され危うくなることもありました。
そのとき、信長が自ら兵を率い、負傷してまで光秀を助けたとされています。
この年、過労からか光秀は病となり、しばらく休養します。
信長からの使者を初め、多くの者が見舞いに訪れたとされています。
また、光秀の正室、熙子も看病疲れからか病となり、こちらは11月に坂本城にて死去したとされています。
明智家の菩提寺である西教寺には、そう記された古文書が残されています。
光秀の正室は生年が明らかでないのですが、1530年頃の生まれというのが有力で、この説を取るなら46歳前後で死去したことになります。
ただ、光秀の正室は本能寺の変後、坂本城の攻防戦で死んだという資料もあります。
ですが、この戦いの際には光秀の娘らが坂本城にいたとされているので、そちらと混同しているのではないかと言われています。
1577年、信長に反旗を翻した松永久秀を攻めるため、細川藤孝、筒井順慶らと信貴山城を攻めます。
後に信長の嫡男信忠を指揮官とする大軍が到着し、信貴山城は陥落。
この後、再び丹波攻めに向かいます。
1578年、亀山(亀岡)城を陥落させ、ここを丹波平定の拠点とします。
また、この年、秀吉の援軍として播磨の城攻めに協力、さらには謀反を起こした荒木村重を攻めています。
荒木村重の息子、村次の妻は光秀の娘であったため、説得に赴くなどもしたようです。
この娘は後に、三宅弥平次(明智秀満)に再度嫁いでいます。
1579年、ついに八上城および黒井城を攻略、丹波平定に成功。
さらには丹後の細川藤孝と協力し、丹後も平定。
信長からも称賛され、丹波一国を与えられ、近江滋賀郡と合わせ、34万石を支配する立場となります。
家老の斎藤利三を黒井城に、明智秀満を横山城を改築して新たに築かれた福知山城に入れ、丹波支配の地盤を固めました。
丹後の細川藤孝・忠興親子、大和の筒井順慶らを配下に組み入れる形になり、彼らの領土を含めると支配下の土地は240万石に及ぶとされています。
研究者によっては、この時代の光秀を「近畿管領」と呼んでいます。
八上城落城の際、降伏した波多野三兄弟の命を保証するため、自らの母かおばを人質に出したものの、彼らが信長に処刑されたため、光秀の母かおばも殺されたという言い伝えがあり、これが怨恨説の根拠のひとつとされていますが(『総見記』、『常山紀談』)、いずれも江戸時代の書物であり、信憑性は高くないと言われています。
『信長公記』では、落城寸前の八上城は明智軍の包囲によって、餓死者が多数出ている状態だったと書かれています。
わざわざこのような手段を光秀が取る必要はなかったと思われます。
1581年には有名な京都馬揃え(軍事パレード)を仕切ります。
この馬揃えには天皇も招待され、見学したと言われています。
朝廷への牽制であったとも、朝廷側が守護者としての信長を認めるための儀式だったとも言われています。
朝廷への牽制と考えると、本能寺の変・朝廷黒幕説につながります。
また、この年、『明智家法』なるものを作り、そのなかで「石ころ同然の身分から取り上げていただき……」という信長への感謝の心を書いています。
かつて、信長は本願寺の軍に包囲された光秀を自らが負傷してまで助けに行き、光秀は自分を取り上げてくれた信長に感謝しています。
主従の絆は強かったとも見られ、余計に本能寺の変の理由がわからなくなります。
本能寺の変とその後
1582年3月、武田氏を滅ぼす戦に後詰として出陣しますが、直接的に戦いには参加していません。
5月、安土での徳川家康の饗応役を突如解任され、羽柴秀吉の中国攻めに加勢するよう命令を受けます。
その後、有名な愛宕百韻と呼ばれる連歌会を行い、6月2日、信長が少数の供といた本能寺を攻め、信長を倒します。
このいわゆる「本能寺の変」については、あまりにも謎が多く、多くの説があるので、別記事とします。
本能寺の変後、光秀は京と近江を平定。
安土城も制圧し、朝廷にも銀500枚を送ったとされています。
このとき、光秀が征夷大将軍に命じられたという説もあります。
源氏であるとされる光秀ですから、ありえない話ではありません。
事実とすれば、木曽義仲と並ぶほど、短期間の就任となります。
光秀は細川親子や筒井順慶など自分の配下にあった武将たちに対し、味方になるよう書状を送りますが、結果的には断られています。
細川親子については、光秀の娘、玉(ガラシャ)と藤孝の息子、忠興が夫婦という間柄でもありました。
しかし、元々、光秀が細川藤孝の部下であったというのが事実だとすると、かつて部下だった人物の配下にいたことが許せなかったという考え方もできます。
もちろん、時勢を読んだというのもあるでしょうが……
1582年6月13日、摂津と山城の境である天王山の麓、山崎の地で、いわゆる中国大返しで軍を進めてきた羽柴秀吉と戦うことになります。
このときの兵士数については諸説ありますが、光秀の軍が1万から1万7000、秀吉の軍が2万から4万と言われています。
しかし、この山崎の地は川や沼、山にも囲まれた狭隘の地であり、大軍が展開しにくい地でした。
そのため、光秀側もしばらくは健闘するのですが、最終的には側面を突かれる形となり総崩れとなります。
光秀は勝竜寺城に退却しますが、大軍を収容できるような城ではなかったので、密かに脱出し、坂本城を目指します。
しかし、途中、小栗栖の竹藪の中で、落ち武者狩りをしていた百姓(中村長兵衛とも小栗栖の作右衛門とも、飯田一族という武士団だったという説も)によって、腰に槍を受けて負傷。
深手であったため、同行していた溝尾庄兵衛茂朝に介錯を頼み切腹します。
享年は55歳か67歳かと言われています。
首を知恩院に運んでくれと頼んだという説もありますが、溝尾茂朝(庄兵衛)も追手から逃げ切れず切腹し、近くに首を埋めたとされています。
また、京都の亀岡にある谷性寺には光秀の首塚があり、ここに溝尾茂朝が首を運んだという説もあります。
定説では首を発見した百姓が織田信孝の元へと届け、後に斎藤利三の首(または屍)とともに本能寺および、粟田口にてさらされたと言われています。
しかし、秀吉が首実検をした際には、3つの首が届けられ、いずれも夏だったこともあり腐敗していて、光秀と判別しがたいものだったと伝わっています。
秀吉はいち早く天下取りへ向けて、自らが信長のかたきを討ったと示さねばならなかったため、ひとつを光秀の首と断定しました。
このことから、光秀は実は生き延びていたのではないかという説があります。
美濃国に帰ったという説と、家康のブレーン南光坊天海こそが光秀だという説が有名です。
この説については、下記の記事を御覧ください。
※今後、新事実などわかり時代、随時加筆修正予定です。
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