本能寺の変に関する異説いろいろ 光秀は忠臣だった?

明智光秀関係
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はじめに

日本史上、邪馬台国比定地と並ぶほど論議となる本能寺の変。
状況証拠は多々あるものの、動機については未だ謎が多いです。
犯人にしても光秀単独説から家康や秀吉や朝廷が黒幕だったという説まで様々です。
有名なエピソードはあちこちで語り尽くされているので、ここではあまり知られていない他のエピソードを記します。

信長の遺体が見つからなかったのは爆死したから?

本能寺の変で命を落とした織田信長。
しかし、遺体は明智軍が血眼になって探しても見つかりませんでした。
近くの寺の僧侶、清玉上人が織田家の縁者であったため、こっそり遺骨を収拾したという説もあります。
しかし、単に黒焦げになっていて見分けがつかなかったというのが有力です。
興味深いのは爆死説です。
当時、本能寺は鉄砲取引がされていた場所であり、鉄砲があるなら当然火薬も蓄えられています。
寺が炎上したなら火薬が爆発もしたはずであり、遺体はバラバラになったと。
この説を最初に唱えたのは、作家の八切止夫氏と言われています。

四国説

信長の四国に対する戦略の変更が本能寺の変を招いたのではないかという四国説があります。
四国は当初、長宗我部家切り取り次第、と信長は約束していましたが、突然路線変更し、長曾我部家には土佐一国のみを与えるとし、阿波には三好家の一族を入れると言い出しました。
ちなみに三好家を支援していたのが秀吉で、後に関白の地位を継ぐが殺される甥の秀次を養子として、三好家と血縁関係を結んでいます。
一方、長宗我部家との外交折衝を担っていたのが明智光秀で、光秀の重臣斎藤利三の義理の妹は長宗我部元親の正室であるという間柄でした。
光秀としては面目丸つぶれであり、斎藤利三としても怒り心頭であったと思われます。
織田軍の四国侵攻予定が6月3日であり、本能寺の変はその前日に起こっています。
なお、四国侵攻軍の司令官は織田信孝で丹羽長秀が補佐についていましたが、光秀の娘婿である津田信澄(信長の甥でもある)もこの軍に加わっており、本能寺の変の直後、信澄は光秀の仲間とみなされ、彼らに殺されています。

斎藤利三暴発説

愛宕山で連歌の会が行われたのは5月28日ですが、翌日の29日は土砂降りの雨だったと記録されています。
そのため、光秀は下山に手間取り、亀岡城に戻る前に、先発隊が出陣していた可能性があります。
当時の暦では5月30日と31日はありません。
6月2日は29日の2日後ということになります。
また、光秀の軍12,000人が京都に進軍したとすれば、先頭が本能寺についた頃には、最後尾はまだ桂川のあたりにいることになるという研究があります。
当時の貴族の日記によると、光秀軍が本能寺を囲んだのが午前4時頃で、本能寺が炎上したのが午前7時すぎ、光秀が現場に現れたのは午前9時すぎだったと記されています。
つまり、光秀自身は中国方面へ向かう前の挨拶を信長にするつもりでしたが、先述した四国政策の件で斎藤利三は信長に恨みを持っていたので、斎藤利三が暴発して信長を倒してしまい、光秀は仕方なく、天下取りに向かう羽目になったのではないかという説です。
変のあとの光秀の行動が、知将とされる光秀にしてはバタバタしているのは、そのためかもしれません。

信長は茶器を見たかった?

信長は突然、少数の伴だけを連れて本能寺に入っているわけですが、本能寺の変の直前に茶会を開いてもいます。
というのは、この茶会に博多の商人、島井宗室が参加していますが、彼の持っていた名物と呼ばれる茶器の噂を信長は聞いていて、それを見たかったとも買い取りたかったとも言われています。
この先にある九州攻めのことを考えて、博多の商人とよしみを通じておきたいという狙いもあったとされていますが、少数の伴だけを連れて急いで本能寺に駆けつけた理由は案外、こんなことにあったのかもしれません。
信長から見れば、自分の領地の中を移動しただけで、危険な場所に行ったという自覚はなかったのでしょう。
ちなみに、この島井宗室は本能寺の変が起こった当日、本能寺から名品の掛け軸を持って逃げたという噂があります。

堺の商人黒幕説

信長が本能寺において、島井宗室を招いて茶会を行った日、堺の町では徳川家康を招いて茶会が行われていました。
中心メンバーは津田宗及や千利休です。
彼らは当時、信長に対し、鉄砲などを売りつけることで稼いでいましたが、信長の版図が広がるにつれて、独占できなくなりつつありました。
特に博多の商人は要注意でした。
堺の商人、津田宗及は明智光秀と親しかったとされ、彼らが手を組んで光秀を実行犯として信長を襲わせ、今後は光秀と取引を……と考えたというわけです。
後に、利休が秀吉から謎の切腹を申し付けられるのも、このことが理由だという説があります。
ちなみに、異説として、博多の商人である島井宗室も仲間だったという見方もあります。
島井宗室が茶器によって、信長をおびき寄せる役を果たしたというわけですね。

光秀は家康を攻めると部下に伝えていた?

本庄惣右衛門という武士が残した覚書が発見されています。
本能寺攻めに参加した武士が晩年に親族向けに残した記録です。
それによると、自分たちは信長を攻めるなどとはまったく思っておらず、ちょうど家康が上洛していた時期だったので、家康を討つと思っていたという内容です。
家康が上洛していたのを下級武士が知っていたのか怪しく、この書状の信憑性を疑う声もあります。
しかし、この内容が本当だとすると、光秀は部下たちに家康を討ち取るとか、家康が留守中の三河を攻めると指示していた可能性があります。
信長の光秀に対する命令も、実は「秀吉の援軍に迎え」というものではなく、「三河を攻めよ」という内容だったと考えられます。
だから、光秀の軍が京都に入っても誰も疑問に思わず、すんなりと本能寺にたどりつけたというわけですね。
また、家康は本能寺の変の直後、堺から脱出した後、兵をまとめて戦闘態勢に入っていますが、実は光秀と手を組んでいて、援軍に出る予定だったという説もあります。
しかし、秀吉の大返しだけは想定外だったようで、光秀が先に討たれてしまったため、仕方なく、旧武田領などを攻めたとも言われています。

光秀忠臣説

本能寺自体は無防備でしたが、近くにある妙覚寺周辺には嫡男、信忠の部隊2000人がいました。
この部隊が実は朝廷に対して圧力をかける部隊だったという説があります。
信長は朝廷から3つの地位から好きなものを選べと言われていましたが、すべて断っていました。
また、朝廷の務めである暦の制定を、尾張でローカルに使われていた三島暦にさせた事件もありました。
このことから、朝廷側は信長に対してかなりの恐れをなしていたとされており、2000人の部隊はもしや朝廷を脅し、天皇に退位を迫るのではないかと考えてもおかしくありません。
恐れをなした朝廷が光秀を頼り、信長を倒させた可能性は十分あるかと思われます。

このように諸説がありすぎてまとまらないのが本能寺の変という事件です。
また、面白いネタが出てくれば随時追記します。


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