2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公として注目を集め、近年急速に再評価が進んでいる戦国武将・明智光秀。
「本能寺の変」で織田信長を討った人物として日本史に刻まれていますが、その前半生は謎だらけです。生まれた年すらはっきりせず、どこで何をしていたのかがわからない「空白の10年」があります。
この記事では、確実な史料と諸説を整理しながら、光秀の前半生――出生から金ヶ崎の退き口まで――をできるかぎり詳しく追います。
📌 この記事は「その1(前半生:出生〜金ヶ崎)」です。比叡山焼き討ち以降の後半生はその2をご覧ください。
簡単な経歴(一応の定説)
美濃の国出身。源氏である土岐氏の血を引くとされています。
初め、斎藤道三に仕えていましたが、道三が息子・義龍に敗れて死亡。道三に味方した明智一族は城を攻め落とされ、美濃から脱出することになります。
その後、越前の朝倉氏を頼り、足利将軍家と出会います。しかし朝倉氏に幕府再興の意思がないことを知り、織田信長の元へ。有能だったため信長に重用され、足利氏と二重に仕えるような形となりますが、後に足利氏と信長が対立したのを機に信長の家臣へ。
織田家の武将として初めて城持ち(坂本城)の大名に取り立てられるなど活躍。比叡山焼き討ちや丹波攻略にも関わり、近畿管領と呼んでも差し支えないほどの立場となりますが、有名な「本能寺の変」で信長を討ちます。
一時、天下を取るものの羽柴秀吉に敗れ、最後は小栗栖の竹藪で農民の槍を受けて切腹。本能寺の変から死去までの13日間を、俗に「明智の三日天下」と呼びます(実際には13日間)。
「本能寺の変」については動機からして謎だらけであり、その死についても落ち延びたという説があります。また前半生は謎に包まれており、出自からして諸説あります。
生まれ年について――55歳説と67歳説
光秀が亡くなった日は(落ち延びた説はあるものの)1582年6月13日とほぼ確定しています。しかし生まれた年は明らかではありません。
主な説は二つです。
- 『明智軍記』によると享年55歳→1528年生まれ
- 『当代記』によると享年67歳→1516年生まれ
ただし、どちらも江戸時代に入ってから作られた文書であり、特に『明智軍記』は軍記物語(創作が混じる)のため信憑性に疑問があります。
なぜ55歳説が有力とされるのか
『明智軍記』には光秀の辞世の句として「五十五年夢 覚来帰一元」という一文があり、これが55歳説の根拠とされています。
一方、宣教師の残した記録に「村井貞勝は織田家の年長者だ」という記述があります。村井貞勝は1520年頃の生まれとされており、それよりも年上の光秀について「年長者」と書かれていないことが不自然です。つまり光秀は村井より年下、すなわち1520年以降の生まれと推測されます。
また、信長の享年が49歳であり、織田家の有力武将もそれくらいの年代の人間が多かったことから、55歳説(1528年生まれ)の方が有力とされています。
📌 雑学:「三日天下」という言葉、実際には光秀は13日間天下を保っていました。「三日」は「わずかな日数」という意味の慣用的な表現で、後世に定着した誇張表現です。
その出自は?――謎だらけの前半生
一般的には、美濃国守護だった土岐氏(源氏)の一族とされています。今の岐阜県可児市瀬田に明智城址があり、そこの城主の子だったのではないかとされています。
当時の貴族が日記に光秀のことを「土岐の随分衆なり」と書いた一文があり、根拠のひとつとされています。また、愛宕百韻での有名な発句「ときは今、天が下しる五月かな」の「とき」は土岐氏のことを表し、光秀の天下取りの野望を詠んだものとされるのが定番の解釈です。
実は身分が低かった?
しかし問題もあります。父親の名前が光綱・光国・光隆などはっきりせず、土岐氏の一族ではあっても「かなり身分が低かった」という説が有力になっています。
別の史料には「光秀は細川藤孝の中間(ちゅうげん)だった」という記録があります。中間とは荷物持ちやお使い係のような身分のことです。細川家に仕えていたのは間違いないようですが、その地位は決して高くはなかったようです。
光秀自身も信長に対して「石ころ同然の身分から取り立ててくださった」と恩義に感謝していたという記録があります。
「随分」という言葉をどの程度と解釈するかが問題で、土岐源氏の血筋であることは確かでも、かなり傍流の低い身分だったというのが現在の有力説です。
出生地も諸説あり
出生地についても美濃の中で複数の説があるほか、近江出身だという説もあります。2020年には滋賀県立図書館で1672年記載の「江侍聞伝録」という文書が発見され、近江・多賀の佐目出身と書かれていたと報告されました。
系図についても、室町幕府に仕えた進士氏の出身という説や、若狭の刀鍛冶・冬広の息子という説もあります。
結局のところ、美濃土岐氏の一族に明智氏という存在があったのは確かです。その末裔として光秀が名乗ったのか、あるいは別の出自の人物が明智氏を名乗ったのか――謎は今も残っています。
斎藤道三との関係――信長の正室は光秀のいとこ?
斎藤道三の正室・小見の方は、光秀のおばとされています。
そのため、後に信長の正室となった道三の娘(一般に濃姫・帰蝶と呼ばれる)は、光秀のいとこという関係になります。光秀は若い頃に稲葉山城に出入りし、道三や娘とも面識があったとされています。
後に足利義昭の使者として細川藤孝とともに信長の元を訪問した際は、この血縁の伝手を利用したのではないかとも言われています。
道三か義龍か、どちらに味方したのか
しかし複雑な問題があります。美濃源氏・土岐氏の血を引くのであれば、主家である土岐氏を追い出した斎藤道三は「憎き敵」でもあります。
1556年の長良川の戦い(道三と息子・義龍の対立)では、道三側に味方したのが定説ですが、むしろ義龍に味方したのではないかという説もあります。ただしそうなると、なぜ光秀がその後美濃を出て行かなければならなかったのか、という疑問が残ります。
また、父親の名前さえはっきりしないのに「小見の方をおばと言い切っていいのか」という根本的な疑問もあります。斎藤道三を懐柔するために明智氏側が婚姻関係を結んだという見方もあり、血縁の実態は謎のままです。
史料における初出――1566年の近江
光秀の前半生は謎に満ちており、確実な史料に登場するのは1566年のことです。
近江高島にある田中城に光秀が籠もり、医学的な内容を話したと記されている『米田文書』がそれです。長良川の戦いから実に10年後のことになります。
田中城は今の滋賀県高島市にあった城で、琵琶湖の西岸に位置しています。足利将軍家は三好家に追われるたびに琵琶湖西岸のこの地域に逃げており、重要な拠点でした。若狭の武田氏と近江南部の六角氏を水運でつなぐ要衝でもあり、浅井氏に攻められては困るとして光秀らが送り込まれたようです。このとき3つの城(砦)を攻略したとの記録が残っています。
「明智」という名の足軽衆
翌1567年の史料には、足利将軍に仕える足軽衆の中に「明智」という名前が登場し、これが光秀のことではないかとされています。当時、光秀は足軽身分だったようですが、これは雑兵ではなく徒歩で戦う部隊の隊長格と見られています。
もし1566年頃から琵琶湖の西岸で活躍していたのであれば、後に坂本城(琵琶湖西岸)をもらうのは自然な流れと言えます。
「空白の10年」――朝倉氏に仕えた?
長良川の戦い(1556年)から史料に登場する1566年までの約10年間は、光秀の生涯における最大の謎「空白の10年」と呼ばれています。
定説では、この間に越前の朝倉氏に仕えたとされています。このとき鉄砲の腕前を披露したとか、仲間をもてなすために妻が髪を売ったとか、朝倉氏配下からのけ者にされていたなど、様々なエピソードが残っています。
朝倉本家ではなく、家臣の元に仕えた?
しかし江戸時代の軍略家・山鹿素行の書いた『武家事記』には、朝倉本家ではなく、朝倉家から舟寄(今の福井県坂井市)を任されていた黒坂備中守景久に仕え、城下の寺(長崎称念寺)の門前に住んでいたという説があります。
称念寺は新田義貞の墓所もある寺で、光秀が源氏の出身であるなら意識した可能性はあります。この称念寺の門前で寺子屋を開いていたという伝説も残っています。
📌 雑学:光秀が寺子屋を開いていたという伝説は、後に惣見寺(安土)や愛宕山などで連歌を楽しんでいる記録とも重なり、光秀の「教養人」としての側面を示すエピソードとして語られています。
足利義昭(細川藤孝)に仕える
当時、足利義昭は京都を追われ、若狭守護である姉婿・武田義統の下に身を寄せていました。幕府再興を目指す義昭は各地の大名に援助を呼びかけます。
織田信長がそれに応じ、義昭は織田家と美濃の斎藤家を一時和睦させますが、織田家がそれを破り稲葉山城から斎藤家を追い出します(1566年9月頃)。面目を潰された義昭は今度は越前の朝倉氏を頼ることにしました。
この頃に光秀は義昭(または細川藤孝)と出会い、仕えたのではないかと推測されています。朝倉氏の本拠地・一乗谷の西、東大昧(ひがしおおみ)という地には今も明智神社という神社が残っており、光秀がこの地に住んでいたのではないかと言われています。なお、娘のガラシャ(玉)が生まれた地ともされています。
ガラシャ(細川ガラシャ)とは
余談ですが、光秀の娘・玉は後に細川忠興に嫁ぎ、キリスト教の洗礼を受けて「ガラシャ」という洗礼名を持ちます。関ヶ原の戦いの直前、人質として大坂城に入ることを拒み、家臣に命じて屋敷に火をかけさせ散った女性として知られています。「ガラシャ」はラテン語で「恩寵(神の恵み)」を意味します。
織田家へ向かう――二重仕官の始まり
朝倉氏に幕府再興の意思がないと判断した足利義昭は、細川藤孝を当時勢いのあった織田家に遣わし、庇護を求めます。このとき光秀も同行したと言われており、血縁関係にある信長の正室の伝手をたどったとするのが定説です。
この頃から光秀は信長に見込まれ、足利義昭と織田信長の両者に仕えるような形になります。1568年10月、足利義昭は信長の尽力により上洛を実現しました。
光秀はなぜ信長に見出されたのか
光秀が信長に急速に重用された理由については複数の見方があります。
- 幕府奉公衆・細川家との人脈を持つ「窓口」として重宝された
- 足利義昭との橋渡し役として欠かせない存在だった
- 学識・教養が高く、外交交渉に向いていた
- 信長の正室との血縁という「保証」があった
いずれにせよ、光秀は武力だけでなく、知性と人脈で頭角を現した珍しいタイプの武将だったと言えます。
本圀寺の変――信長公記における初出
「本能寺の変」と字が似ていますが、こちらは本圀寺(ほんこくじ)の変です。
1569年1月、京都山科にある本圀寺が将軍宿所となっていたところ、三好三人衆に襲撃されました。このとき信長は美濃にいて不在だったため、光秀や藤孝らが懸命に守り、織田家の援軍が到着したことで撃退に成功します。
これが光秀が『信長公記』に登場する初見です。この事件の後、光秀は羽柴秀吉や丹羽長秀らとともに京都周辺の警備を担当する立場となりました。
なお、この事件をきっかけに二条御所が建築されています。また、信長に美濃から追放された斎藤龍興が三好三人衆に加担していたのも注目点です。
📌 雑学:三好三人衆とは、三好長逸・三好政康・岩成友通の三人のことで、三好家の実権を握っていた武将たちです。足利義昭の将軍就任を阻止しようと動いていました。
金ヶ崎の退き口――光秀も殿だった
1570年、信長は上洛命令に従わない越前の朝倉氏を攻めます。しかし信長の妹婿・浅井長政の離反により、織田軍は突如、前後から挟み撃ちにされる窮地に陥りました。
なお、信長は長政に「朝倉を攻めない」という約束をしていたため、長政からすれば約束を破ったのは信長の側とも言えます。また、長政本人ではなく父・久政の派閥が動いたという説もあります。
秀吉だけではなく、光秀も殿(しんがり)を務めていた
このとき羽柴秀吉が殿(しんがり=最後尾で追撃を防ぐ役)を務め、信長のピンチを救ったというのが秀吉伝説の定番エピソードです。
しかし実は、光秀もこのとき殿を務めていたことが記録されています。「金ヶ崎は秀吉だけの功績」というイメージは、後世に秀吉の功績が強調された結果とも言えます。
その後も朝倉・浅井・延暦寺らとの小競り合いが続きますが、光秀は宇佐山城を任せられ、この地を治めます。同年、琵琶湖の東側では姉川の戦いが起こり、浅井・朝倉連合軍を織田・徳川連合軍が破りました。
📌 雑学:宇佐山城は今の滋賀県大津市にあった城で、琵琶湖を一望できる要衝です。光秀はここで琵琶湖の水運を掌握し、後に坂本城を建てる前哨地となりました。
まとめ――謎多き前半生が光秀をつくった
光秀の前半生を振り返ると、謎が多い分だけ、様々な顔が見えてきます。
- 高い身分ではなかったにもかかわらず、幕府・朝倉・細川・織田と渡り歩いた柔軟な処世術
- 鉄砲の腕・茶の湯・連歌・医学的知識など幅広い教養
- 血縁・縁故を巧みに使いながら信長にまで近づいた人脈の力
- 金ヶ崎でも本圀寺でも最前線に立った実戦の胆力
「謀反人」というイメージで語られることが多い光秀ですが、その前半生を知ると、信長に重用されるだけの実力と魅力を持った人物だったことがわかります。
なぜそんな光秀が信長を討つに至ったのか――後半生(比叡山焼き討ち〜本能寺の変)はその2で解説しています。

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