明智光秀の生涯について、できるだけ簡潔にまとめてみました。その1

明智光秀関係

はじめに

2020年の大河ドラマ主人公である戦国武将、明智光秀。
大河ドラマ化されることもあり、数年前から見直しの機運が高まっています。
この謎だらけの武将について、わかるかぎりのことを完結にまとめてみました。

簡単な経歴(一応の定説)

美濃の国出身。
源氏である土岐氏の血を引くとされています。
初め、斎藤道三に仕えていましたが、道三が息子義龍に戦で負けて死亡。
道三に味方した明智一族は城を攻め落とされ、美濃から脱出することになります。
その後、越前朝倉氏の元に向かい、足利将軍家と出会います。
しかし、朝倉氏に幕府再興の意思がないことを知り、織田信長の元へ。
有能だったので、信長に取り上げられ、足利氏と二重に仕えるような形となりますが、後に足利氏と信長が対立したのを機に信長の部下に。
織田家の武将として、初めて城持ち(坂本城)の大名に取り上げられるなど活躍。
比叡山焼き討ちや丹波攻略などにも関わり、近畿管領と読んでも差し支えないような立場となりますが、有名な「本能寺の変」によって織田信長を倒します。
一時、天下を取るものの、羽柴秀吉に敗れ、最後は小栗栖の竹藪の中で農民の槍を受け、切腹。
本能寺変から死去までの間を、俗に「明智の三日天下」などと呼ばれます。
しかし、「本能寺の変」については動機からして不明など謎だらけであり、その死についても、実は落ち延びたという説もあります。
また、その前半生は謎だらけで、出自からして諸説あります。

生まれ年について

生まれた年は明らかではありません。
亡くなった日ははっきりしていて(落ち延びた説はあるものの)、1582年6月13日に亡くなったとされています。
このとき『明智軍記』によると55歳、『当代記』によると67歳だったという説があります。
前者を取れば1528年生まれとなり、後者だと1516年生まれとなります。
しかし、『明智軍記』も『当代記』も江戸時代に入ってから作られた文書であり、特に『明智軍記』は軍記物語であるため、信憑性については怪しいと言われています。
『明智軍記』の場合、光秀辞世の句として「五十五年夢 覚来帰一元」という一文があるのが、55歳説の根拠とされています。
『当代記』のおける67歳説については、当時、宣教師が残している記録に村井貞勝のことを織田家の年長者であると書いている一文があります。
その村井貞勝は1520年頃の生まれと推測されていますので、それより年上となると、光秀についても年長と記載されていないことが不自然になります。
そのことと、信長の享年が49歳であり、織田家の有力武将もそれくらいの年代の人間が多かったことから、55歳説の方が有力とされています。
もちろん、光秀が童顔だったとか、若々しく見えた可能性もありますが……

その出自は?

一般的には美濃の国守護だった土岐氏(源氏)の一族であるとされています。
今の岐阜県可児市瀬田というところに明智城址があり、そこの城主の子だったのではないかとされています。
当時の貴族が日記に光秀のことを「土岐の随分衆なり」と書いた一文があり、後の愛宕百韻での有名な発句「ときは今、天が下しる(下なるという説もあり)五月かな」の「とき」は土岐氏のことを表していて、光秀の天下取りの野望を表したものとされるのが定番です。
しかし、父親の名前は光綱、光国、光隆などはっきりしておらず、土岐氏の一族だった可能性はあるが、かなり低い身分だったという説もあります。
「随分」というのをどの程度と解釈するかが問題で、当時の別史料には「光秀は細川藤孝の中間だった」という記録もあります。
「中間」というのは、荷物持ちやお使い係のような身分ですが、細川家に仕えていたのは間違いないようです。
光秀自身も信長に対して「石ころ同然の身分から取り立ててくださった」と恩義に感謝していたという記録があります。
そのため、かなり身分の低い出自だったという説が有力となって来ています。
なお、出生地については、美濃の中でも数か所あり、近江の出身だという説もあります。

<2020.01.15追記>
近江説で新史料が見つかったようです。

明智光秀の出身地に新説?近江出身か? | あの日の記憶
報道によると、一般的に美濃の国出身とされている明智光秀ですが、近江の国、多賀の佐目出身と書かれた文書が、滋賀県立図書館で見つかったようです。1672年に記された「江侍聞伝録」という文書だそうです。光秀の出身地が近江という説は以前からありまし

系図についても、室町幕府に仕えた進士氏の出身だという説や、若狭の刀鍛冶冬広の息子だという説もあります。
結局、定説はないわけですが、美濃土岐氏の一族に明智氏という存在があったのは確かです。
末裔とはいえ、本当にこの系図に連なる人間だったのではないでしょうか。
あるいは足利将軍家に直属か、細川藤孝を通じて仕えていた何者かが、明智氏の一族出身と名乗ったのではないかと推測されます。

斎藤道三との関係

斎藤道三の正室、小見の方は光秀のおばとされています。
そのため、後に信長の正室となった娘(一般的に濃姫、帰蝶と呼ばれる)は、光秀のいとこという関係になります。
そのため、光秀は若い頃、稲葉山城に出入りしていたとも、斎藤道三や娘とも面識があったとされています。

信長と光秀と斎藤一族との血縁関係 意外と濃いその関係
信長の正室(妻)について 織田信長の正室は斎藤道三の娘で「濃姫」とも「帰蝶」とも呼ばれる人物です。 「濃姫」というのは「美濃の姫」という意味であるし、「帰蝶」という名は物語作家が作った名前と言われています。 本名は伝わっていません。 ...

後に足利義昭の使者として、細川藤孝と共に信長の元を訪問した際は、この伝手を利用したのではないかとも言われています。
しかし、美濃源氏の土岐氏の血を引いているのであれば、主家である土岐氏を追い出した斎藤道三は憎き敵でもあります。
後に道三と息子(とされる)義龍が争った際(1556年長良川の戦い)に、道三側に味方するのは不自然ではないかという見方もあります。
むしろ、義龍に味方したのではないかという説もあるのですが、となると、そのあと光秀がどうして美濃を出て行かなければならなかったのかという疑問が残ります。
また、父親の名前さえはっきりしないのに、小見の方をおばと言い切っていいのかという意見もあります。
斎藤道三を懐柔するために、明智氏側が婚姻関係を結んだとも言われていますが……

史料における初出

光秀の前半生は謎に満ちています。
確実な史料に登場するのは、1566年近江高島にある田中城に光秀が籠もり、医学的な内容を話したと記されている『米田文書』です。
長良川の戦いから10年後のことになりますね。
この文書に記されている内容は、かつて、もう少し後年の出来事とされていました。
しかし、研究の結果、1566年のこととわかったようです。
なお、田中城というのは今の滋賀県高島市にあった城で、琵琶湖の西岸にある城です。
足利将軍家は三好家に襲われて、何度も琵琶湖の西岸であるこの地域に逃げています。
足利将軍にとって、重要な支援者である若狭の武田氏と近江南部の六角氏を水運でつなぐ重要な拠点です。
ここを当時台頭してきた浅井氏に攻められては困るということで、光秀らが送り込まれたようです(ただし、六角氏については、敵になったり、味方になったり、複雑な関係です)。
そのとき、3つの城(砦)を攻略したとの記録が残されています。

信長に仕える前の光秀、近江湖西で活動か?文書が見つかる。
光秀は医術にも通じていた? 報道によると、明智光秀が信長に仕える以前、近江国の湖西地域で活動していたという文書が見つかったそうです。 薬の調合などに関する記載があるとかで、光秀が医術にも通じていた可能性もあるとのことです。 また、文書...

1567年の史料に足利将軍に仕える足軽衆の中に「明智」という名前があり、これが光秀のことではないかと言われています。
当時、光秀は足軽身分だったようですが、これは雑兵というわけではなく、徒歩で戦う部隊の隊長くらいだったと見られています。
もちろん、高い身分ではありません。
もし、この頃、琵琶湖の西岸で活躍していたのであれば、後に琵琶湖西岸に領地をもらい、坂本城を建てるのは自然な流れかと思います。

朝倉氏に仕えた?

美濃の国からなんらかの理由で他国に出た浪人時代、各地を放浪した後(『明智軍記』では日本中を旅したようなことが書かれています)、越前の朝倉氏に仕えたのが定説とされています(1556年の長良川の戦いから1566年上記史料に登場するまでの10年間)。
このとき、鉄砲の見事な腕前を披露したとか、仲間の武士をもてなすために妻が髪を売ったとか、朝倉氏配下の武士からのけ者にされていたなど、様々なエピソードが残っています。
しかし、江戸時代に有名な軍略家、山鹿素行の書いた『武家事記』には、一乗谷の朝倉本家に仕えたわけではなく、舟寄という地(今の福井県坂井市)を朝倉家から任されていた黒坂備中守景久に仕え、城下の寺(長崎称念寺)の門前に住んでいたという説もあります。
称念寺は新田義貞の墓所もあり、光秀が源氏の出身であるなら、意識した可能性はありますね。
この称念寺の門前で寺小屋を開いていたという伝説もあります。

足利義昭(細川藤孝)に仕える

当時、足利義昭は京都を追われ、若狭守護である姉婿の武田義統の下に身を寄せていました。
幕府再興を目指す義昭は各地の大名に援助を呼びかけます。
織田信長がそれに応じ、義昭は織田家と美濃の斎藤家を一時和睦させますが、織田家がそれを一方的に破り、稲葉山城から斎藤家を追い出します。
これが1566年9月頃のこととされています。
面目を潰された義昭は信長に対して怒り、今度は越前の朝倉氏を頼ることにしました。
この頃に光秀は義昭(または細川藤孝)に出会い、仕えたのではないかと予想されています。
朝倉氏の本拠地一乗谷の西、東大昧という地に、今も明智神社という神社が残っていますが、この頃、光秀はこの地に住んでいたのではないかと言われています。
なお、この地は娘ガラシャ(玉)が生まれた地ともされています。

織田家へ向かう

朝倉氏に幕府再興の意思がないと判断した足利義昭は、細川藤孝を当時勢いのあった織田家に遣わし、庇護を求めます。
このとき、光秀も同行したと言われており、先述したとおり、血縁関係にある信長の正室との伝手をたどったと考えるのが定説です。
この頃から、光秀は信長に見込まれ、足利義昭と織田信長の両者に仕えるような形になったと言われています。
どちらにせよ、1568年10月、足利義昭は信長の尽力により、上洛を実現しました。

本圀寺の変

本能寺ではなく、本圀寺です。
1569年1月、京都山科にある本圀寺が将軍宿所になっていたのですが、ここを三好三人衆に襲撃されました。
しかし、光秀や藤孝らが懸命に守り、織田家の援軍が来たことで撃退に成功します。
これが光秀が『信長公記』に登場する初見です。
この事件の後、羽柴秀吉や丹羽長秀らとともに京都周辺の警備を担当する立場になったと言われています。
なお、二条御所が建築されたのはこの事件があったからとされています。
このとき、信長に美濃から追放された斎藤龍興が三好三人衆に加担して攻めてもいました。

金ヶ崎の退き口

翌、1570年信長は上洛命令に従わない越前朝倉氏を攻めますが、妹婿の浅井長政の裏切りにより、窮地に陥ります。
ただ、信長は長政に朝倉を攻めないという約束をしていました。
信長が先に約束を破ったとも言えるので、裏切りという表現はふさわしくないかもしれません。
また長政ではなく、父の久政の派閥が裏切ったという説もあります。
とにかく、このとき、羽柴秀吉が殿(しんがり)を務め、信長のピンチを救ったというのが、秀吉伝説に必ず取り上げられるエピソードです。
しかし、実はこのとき光秀も殿として信長のピンチを救っています。
その後も、朝倉、浅井、延暦寺らとの小競り合いが続きますが、光秀は宇佐山城を任せられ、この地を治めます。
同年、琵琶湖の東側では姉川の戦いが起こり、浅井・朝倉連合軍を織田・徳川連合軍が破りました。

その2へと続く

明智光秀の生涯について、できるだけ簡潔にまとめてみました。その2
足利家から織田家の家臣へ 1571年、三好三人衆と石山本願寺が挙兵したことに対し、光秀は信長、義昭と共に摂津に布陣しました。 このあたりから、光秀の事績は明確になってきます。 同年9月には有名な比叡山焼き討ちを行います。 このとき、...

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