明智光秀の重臣、斎藤利三(としみつ、または、としかず)。
春日局の父でもある彼は「本能寺の変」のあと、山崎の戦いで敗れ、捕縛、斬首されますが、磔にされたその姿を見た貴族が「此度の謀反随一」「彼など信長打(討)談合の衆なり」と日記に書いています。
近年唱えられる「本能寺の変・四国説」では、キーマンとなる人物と考えられています。
果たして、どんな人物だったのでしょうか?
簡単な経歴(一応の定説)
斎藤利三は1534年(1538年説もあり)に美濃で生まれました。
父は斎藤利賢、母は蜷川氏の女性と言われていますが、諸説あるようです。
明智光秀の姉か妹が母だったという説もあります。
いわゆる古くからある美濃斎藤氏の血を引く家系で、斎藤道三に乗っ取られた家系ということになります。
土岐源氏のひとつですね。
父が美濃白樫(しらかし)城主だったので、そこで生まれたと言われています。
白樫城は今の岐阜県揖斐川町にあった城で、祖父・利安、父・利賢、そして利三と、三代の墓があります。
当初は実兄・石谷頼辰(いしがいよりとき)共々、幕府の奉公衆として、摂津国にて三好家の重臣、松山重治に仕えたと言われていますが、後に道三の息子、義龍に仕えています。
幕府の奉公衆ということは、光秀と若い頃に出会い、面識のあった可能性があります。
また、義龍に仕えたということは、道三と義龍が争った際には、どちらに着いたのでしょうか?
史料的な裏付けはないものの、利三の最初の妻は道三の娘だと言われていますが……
義龍が若くして亡くなり、その子龍興に美濃をまとめる力がなかったため、西美濃に勢力を持っていた稲葉一鉄らが織田家に味方することなりますが、利三もこの際、織田家に味方することにし、一鉄の配下になったと言われています。
なお、二人目の妻は稲葉一鉄の娘または姪とされています。
この二人目の妻との間に生まれた娘「福」が、後の春日局です。
しかし、後に利三は一鉄と仲違いし、明智光秀に仕えることになりました。
その後は光秀に重用され、丹波を平定した際には黒井城城主にもなります。
本能寺の変には反対したと、一般的には言われています。
変のあと、山崎の戦いにも出陣しますが、敗れて逃走。
近江堅田にいたところを秀吉の追手に捕まり、六条河原で首を斬られ、粟田口で磔にされたとも、本能寺で首を晒されたとも言われています。
1534年生まれなら、享年49歳になります。
複雑な血脈
母が光秀の姉妹だとすれば、光秀から見て甥という関係になります。
また、兄・頼辰は石谷家の養子となっていますが、兄の妻の妹が長宗我部元親に嫁いでいます。
なので、長宗我部元親とは義兄弟とも言えます。
本能寺の変のあと、石谷頼辰は長宗我部元親を頼って土佐に逃げ、家老になっています。
元親の嫡男、信親の正室は石谷頼辰の娘です。
このあたりの婚姻関係が「本能寺の変・四国説」で必ず取り上げられます。
稲葉一鉄とは仲違いしたとされていますが、妻が一鉄の娘か姪という関係からか、利三が殺されたあと、残された子供たちは一時、親交のあった公家・三条西家の世話になりますが、最終的に稲葉家に保護されています。
この子供たちですが、娘のひとりは先述したとおり、後の春日局であり、大奥で絶大な権力を持ちました。
また、男子たちは春日局の推挙で江戸幕府に仕え、ひとりは加藤清正の重臣となっています。
光秀にヘッドハンティングされた?
利三は稲葉一鉄と仲違いをしたと言われています。
原因は不明ですが、稲葉一鉄は頑固一徹の語源とも言われている人物、その頑固さについていけなかったのかもしれません。
しかし、仲違いではなく、光秀に能力を買われ、ヘッドハンティングされたという説もあります。
というのは、「本能寺の変」のあと、利三の子供たちは母方の稲葉家に引き取られるからです。
本当に仲違いしていたなら、いくら娘(または姪)と孫たちであったとしても、謀反人とされた人物の子を引き取るでしょうか?
一方、こんな話もあります。
このあと光秀はもうひとり一鉄配下の武将を引き抜こうとするのですが、さすがに一鉄も黙っていられず、信長に対し光秀を訴えます。
このとき、一鉄に利三らを返すよう信長に言われるのですが、「良い家臣を集めるのは、殿(信長)のためです」と開き直ったとされ、怒った信長から柱に頭をぶつけられた上、拳骨を何発かくらい、鼻血を出したというエピソードがあります。
光秀が殴られた云々は「明智軍記」にある記述なので、信憑性に疑問があるのですが、先述したように幕府奉公衆の時代に利三と光秀に面識があるなら、能力を相当買っていた可能性もあります。
また、信長が利三の明智家への移籍は許したという説と、利三に切腹を申し付けたというふたつの説があります。
その切腹申し付けが本能寺の変の直前の5月末だという説があり、想像が膨らんでしまいます。
教養人だった?
商人であり、茶人でもあった津田宗及と度々茶会を開いていることから、茶人としての知識はあったと言われています。
幕府奉公衆時代か、光秀との関係か、それとも細川藤孝らとも親交があって、学んだのでしょうか。
本能寺の変関連
光秀が信長を討つことを伝えた五人の内のひとりと言われていますが、利三は当初、反対していたとも言われています。
しかし、先述した長宗我部家との関係から、むしろ積極的だったという説もあります。
『石谷家文書』というものが2014年に岡山の林原美術館で発表され、光秀は利三とその兄・頼辰のネットワークから、長宗我部家の情報を得ていたことが証明されました。
当初、信長は四国はすべて長宗我部家にという方針だったのですが、後に土佐一国にすべしと方針転換します。
一説には阿波にいた三好家の残党に秀吉が手を貸しており、これが路線変更の原因とも言われています。
長宗我部家は当初、信長の路線変更に反発する動きを見せましたが、この石谷家文書には最終的に信長に従う姿勢を見せたと記録されています。
ただし、その日付は5月末であり、利三や光秀の元に届いていない可能性があります。
そもそも石谷家に文書が残っているわけですから……
実際、織田信孝を大将とする軍が四国遠征軍として、大坂や堺に駐留しており、四国に渡海するのは6月3日だったと言われています。
本能寺の変はその前日に起こっており、書状がもう少し早くに届けられていたら、歴史は変わっていたかもしれません。
斎藤利三は明智秀満と共に明智軍の先鋒を務めていたとも言われています。
本能寺の変の際にも、まず斎藤利三の部隊が本能寺を囲んだと言われています。
貴族の記録によると、午前4時に囲み始めたということで、光秀が到着したのは午前9時だったと言われています。
そのため、前線部隊を率いた利三が、光秀の到着を待たずに信長を攻めたのではないかという説もあります。
そのあたりについては、以前、記事にしていますので、そちらを参照してください。
まとめ
「本能寺の変・四国説」を取るなら、かなりの役割を果たした人物と考えられます。
ただ、当時は親子や兄弟が争う戦国時代。
妹や親族を守るためだけに謀反を起こすかと言われると怪しいかと。
もちろん、他人が信用できないので、家系や血のつながりが重視された時代でもありますが……
ですが、結果的に斎藤家も明智家も長宗我部家も没落してしまいました。
私は斎藤利三は従犯のような存在ではないかと考えています。
あくまで光秀に謀反を起こす理由があり、それと斎藤利三の利害が一致したので、積極的に動いたのではないかと。
ちなみに、天海上人は斎藤利三と同一人物ではないか、という説も存在します。
それなら、娘が家光の乳母に選ばれたのも納得ですが、そこはまだ謎が多すぎますね。
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