茶道を大成させた茶人、千利休。
元は田中与四郎という名前の堺の商人です。
豊臣秀吉の側近としても有名な人物です。
この千利休が本能寺の変の黒幕であるという説があります。
動機としては、堺の豪商出身である利休が、信長が自由社会である堺の町を支配することを恐れて、光秀をそそのかしたということになります。
本能寺の変の直前、光秀と愛宕で連歌をした里村紹巴は利休とも親しい人物です。
確かに彼を通じて光秀に何かを吹き込むことや、近づくことは十分可能だったでしょう。
信長が少人数で京都にやってきたのは、名物茶器を持つ博多の商人、島井宗室が京都に来ていたからとも言われています。
この名物茶器をエサに信長を呼び出したという説があります。
なお、徳川家康も本能寺の変当日は堺の町にいました。
このあたりも何か匂うものがあります。
一方で、堺の商人と博多の商人は信長に贔屓してもらうために争っていたという説もありますので、念のためお伝えしておきます。
利休は秀吉に急に重用されますが、結局、切腹させられます。
切腹の原因は今も不明とされていますが、本能寺の変に関わっていたからと考えれば、納得がいきます。
秘密を知りすぎていたから……となりますね。
また、利休はキリシタンであったという説があります。
「千利休」という名前には十字架がいくつも隠れていますね。
キリシタンで、堺の町出身となれば、イエズス会などと接触していた可能性も十分あると考えられます。
となると、また想像がいろいろと膨らんでしまいますね(キリシタンだから後にキリシタン追放をした秀吉に切腹させられたという考え方もできてしまいますが……)。
トンデモ説扱いはもったいないくらい興味深い説です。
なお、細川忠興は利休七哲の一人に数えられる茶人でもありました。
細川親子といえば、本能寺の変の際、見ようによっては盟友、光秀を裏切ったとも言えなくもない存在です。
そのあたりにも何か謎が隠されているような気もします。
利休が切腹のため、船で堺に送られるとき、最後まで見送ったのが忠興と古田織部だとも言われています。
利休が実は明智光秀だったという珍説もあります。
信長と取引をしていた堺の商人、田中与四郎と千利休は別人物であると。
この場合、実は秀吉と光秀は手を組んでいたということになるのでしょうか。
それとも、実は生きていた光秀が秀吉のもとに近づいて行って、秀吉は何かに使えると考えて側近にしたことになるのでしょうか。
信長に逆らって逃亡した荒木村重も信長の死後、秀吉の御伽衆になっていますしね。
さすがに周りの人間が気付くと思うので、これは珍説だとは思いますが……
ちなみに利休の甲冑が残されていて、それによると、当時の人間にしては珍しい180センチくらいの身長になるとか。
当時の記録にも長身と書かれているものがあります。
利休が元は武将だったとすれば、強そうですが……
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