光秀は落ち延びた?
本能寺の変後、山崎の戦いで敗れた明智光秀は、定説では、小栗栖の竹藪で農民に竹槍で刺されたのをきっかけに切腹をして最後を迎えたとされています。
今もその場所は明智藪として残されています。
しかし、江戸時代に当時の学者がその地域を訪れたとき、光秀を刺したという農民(中村長兵衛とも作兵衛とも言われる)について、誰も存在を知らなかったという話が伝わっています(そもそも、小栗栖まで辿り着けず、勝竜寺城脱出後の混戦の中、戦死したという説もあります)。
また、旧暦の6月13日頃は、今の暦でいうと7月後半であり、一度埋められた光秀の首が秀吉の元に届いたとき、腐敗せずに元の姿を残していたかも、昔から疑問とされています。
実際、秀吉のもとには腐敗した首が3つ届けられたという記録があります。
秀吉としては、とにかく光秀を倒した自分こそは、信長の後継者として早く名乗りたかったので、その内ひとつを光秀と断定し、晒し首にしています。
このように、光秀の最後があやふやであるため、落ち延びたという説が少なくともふたつあります。
南光坊天海説
一番有名なのが、比叡山に逃がれたのち、徳川家康のブレーンである天海僧正に転生したという説です。
南光坊天海は会津高田の生まれで蘆名氏の一族とされていますが、光秀同様、前半生が謎だらけです。
天海自身も昔のことを聞かれた際、「昔のことなどとうに忘れた」と言って、とぼけたというエピソードがあります。
関ヶ原の戦いを描いた屏風に鎧を着て家康の近くにいる僧侶が描かれています。
なぜ僧侶が戦場に鎧を着てまで参加しているのかは、疑問とされていますが、これが光秀だとすれば、軍事顧問的な役割をしていたとも考えられます。
また、光秀の重臣、斎藤利三の娘「福」は、後に「春日局」と呼ばれ、三代将軍家光の乳母として大奥を作り、絶大な権力を握った女性です。
この春日局が天海に出会ったとき「お久しぶりでございます」と語ったという逸話があります。
そもそも、謀反人とみなされていた光秀の重臣だった人物の娘が、将軍の乳母に採用されること自体が、大きな疑問です。
京の町に出された立て札を見て志願したという話が伝わっていますが、わざわざ選ばれるものでしょうか?
一説に、三代将軍家光は家康と春日局の間の子だという説もあります。
そこまで考え出すと話がかなりこんがらがるので、そういう噂があるという事実だけを伝えておきます。
ちなみに四代将軍、家綱の乳母のひとり、三沢局も光秀の重臣であった溝尾庄兵衛の血縁者だと言われています。
偶然にしてはできすぎていますよね……
徳川家が豊臣家を徹底的に叩き潰したのも、春日局が織田家の血を引く、二代将軍秀忠の妻、お江と対立するのも、裏に光秀がからんでいたとすれば納得がいきます。
天海は日光東照宮の造営にも関係していますが、一番見晴らしのいい場所を「明智平」と名付けるなど、妙に明智びいきの行動が多いです。
実際、東照宮には桔梗紋がたくさんあります。
ただ、天海上人は110歳くらいまで生きたというため、いくらなんでも長寿すぎるということで、光秀ではなく、息子か、縁者だったのではないかとも言われています。
光秀は定説では1528年か1516年生まれ、天海は1536年生まれと言われているので、8歳から20歳までのズレがあります。
もっとも、当時の戸籍が正確なのかどうかは疑問ですし、ふたりとも前半生がはっきりしない人物ではあります。
なお、光秀には少なくとも三人の息子と四人の娘がいたと伝わっています。
彼らは宣教師から西洋の貴公子に匹敵すると言われたほどの人物です。
また、明智秀満という元の名を三宅弥平次という光秀の娘婿に当たる人物がいます。
光秀の息子とともに坂本城で戦死したと言われていますが、坂本城で戦が行われたとき、城下から逃げ出す者が多かったらしく、このどちらかが落ち延びた可能性は十分ありえます。
現に、光秀の一族が縁者を頼って四国に落ち延びたという伝説もあります。
坂本龍馬はその末裔だなんて話も。
テレビ番組の企画で光秀の書と天海の書を筆跡鑑定したところ、本人ではないが、親類、縁者の可能性が高いという結果が出ました。
「日光」という地名は元々、「二荒」と書いたそうですが、これが日光に変わったのは「日向守光秀」の名前を省略したという説もあります。

天海は「慈眼」大師とも呼ばれていますが、京都にある「慈眼寺」には黒塗りにされた光秀の像があります。
比叡山には俗名光秀という名の僧侶がいたとか、死んだはずの光秀の名で宝篋印塔が建立されているなど、傍証はかなりあります。
天海説のまとめと反証
・日光東照宮に桔梗紋が多い。
→桔梗紋は源氏の一族でよく使われています。
家康も一応、源氏の血を引くことになっていますので(系図は改ざんの可能性あり)、あっても不思議ではありません。
・最後がはっきりとしない、信長同様、光秀と判別できる首など、遺体が見つかっていない。
→後に斎藤利三が近江の堅田で発見されているように、生きていたとしても追手から逃げることが出来たのかは疑問です。
・日光東照宮の一番見晴らしのいいところを明智平と名付けた。
→明智という名前は「智が明らかになる」という仏教用語でもあります。
また元は「明地平」……「明るい地平」だったという説も。
・春日局の存在、わざわざ謀反人の仲間のひとりをどうして乳母にしたのか?
→春日局は関ヶ原の戦いで小早川秀秋を寝返らせるのに貢献した稲葉氏の一族でもあり、公家の屋敷でも育った教養のある女性でした。
・二代将軍、「秀」忠、三代将軍、家「光」、四代将軍、家「綱」、三人の名前から一文字ずつ取ると、「光秀」とその父とされる「光綱」となる。
→逆に言えば、「秀」も「光」も「綱」も当時、よく名前に使われていた漢字だと言えなくもありません。
そもそも光秀の父の名前が「光綱」なのかは定かではありません。
・山崎の戦い(1582年)以降に比叡山に寄進された宝篋印塔(1615年)に光秀の名前がある。
→将軍の名前と同様、当時、光秀という名前は珍しい名前ではなかったと思われます。
荒深小五郎説
もうひとつ、故郷である美濃に逃れ、中洞という地で暮らしたという説もあります。
小栗栖の竹藪で死んだのは光秀の影武者、荒木山城守行信であり、光秀自身は「荒」木の献身を「深」く感謝し、名前を荒深小五郎と変えて過ごしたといわれています。
この説では、後に関ヶ原の戦いに参加しようとしましたが、渡河中に水死したと伝わっています。
その川は木曽川支流の根尾川だと言われています。
1600年に死亡したとすれば、定説では光秀の享年は55歳説と67歳説がありますから、そこに18歳足されるので、73歳か、85歳になります。
その歳で戦に参加しようとしたのは、よほど豊臣方に恨みがあったのかと。
今も岐阜県には光秀の末裔を名乗る人たちがいます。
一時は、明智の名をはばかって、明田の姓を名乗るようになっていたそうです。
作家、江戸川乱歩は明智小五郎という名探偵を誕生させていますが、これは光秀が荒深小五郎と名乗った説を知っていたからだという説があります
近年、光秀の子孫を名乗る人物が出版した光秀研究の書籍が話題となっています。
今後の研究を待ちたいですね。
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