信長に仕える前の光秀、近江湖西で活動か?文書が見つかる。

明智光秀関係
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光秀は医術にも通じていた?

報道によると、明智光秀が信長に仕える以前、近江国の湖西地域で活動していたという文書が見つかったそうです。
薬の調合などに関する記載があるとかで、光秀が医術にも通じていた可能性もあるとのことです。
また、文書には足利家の武将の名前も記載されているということで、光秀が将軍家に仕えて湖西地域で働いていたことの証拠となりそうですね。

後の基盤となる活動か

通説では、光秀は美濃明智城落城後、各地を流浪していたとされています。
足利義昭が朝倉家を頼って越前に落ち延びたときの家臣団の中に明智という名前があることから、光秀は朝倉家の元で働いていたのではないかとされてきました。
最近の研究では、朝倉家ではなく、その配下の黒坂備中守に仕えていた可能性が高いようですが。
この資料は朝倉家の元に行くまでの時期を埋める内容で実に興味深い内容ですね。
また、後に信長に仕えた際、近江坂本城主となったのも、このときの活動が基盤にあったからではないかという推測もできます。
そもそも、足利将軍、義輝や義昭は細川家や三好家に都を追われて、近江坂本付近に避難していることがよくありました。
光秀がその配下にいたなら、この地で活動しているのも納得です。

新たな発見を期待

相変わらず、大河ドラマ放映を前にすると、いろいろと新しい記録が出てくるものですね。
まだまだ埋もれている資料があるのではないでしょうか。
新たな発見に期待したいですね。

近江出身説もあります。

ちなみに、明智光秀は近江、多賀の出身だという説もあります。
近江南部を治めていた六角氏に仕えていたという説もあります。
足利将軍のうち何人かが、六角氏の元に助けを求めていることからも、そこから足利将軍家に仕えたという考えもできますが、はてさて……

2020.03.03追記
この文書は「米田家文書」として、以前から見つかっていた文書だそうです。
ただ、以前はもう少しあとの時代のことを書いていると思われていたそうです。
そのため、信憑性の低い史料として無視されていたようですが、見直しがされたようです。

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