明智光秀の子孫について……今も多数活躍中

明智光秀関係

はじめに

2020年には大河ドラマの主人公にもなることで、今また再評価されつつある明智光秀。
前半生の大半が謎で、さらには死についてさえも謎が多い武将です。
謀反人、反逆者などとも呼ばれ、江戸時代の儒教思想や明治以降の皇国史観によって悪役とされて来ましたが、近年見直しの機運が高まり、子孫を名乗る人物も多数出て来られました。
この記事では光秀の子と、その末裔と呼ばれる人たちについて紹介してみます。

光秀の妻について

子孫について紹介する前に、まずは光秀の妻について、いくつか紹介を。
光秀の妻(正室)は、妻木氏の娘、煕子と言われています。
しかし、煕子という名前は父親が妻木範煕だったところから作られた創作だと言われ、当時はお牧の方などと呼ばれていたそうです。
ちなみに光秀の母もお牧の方という名前だったと言われており、どこかで混同している可能性もあります。
そもそも、当時女性を◯◯子などと呼ぶことはなく、◯◯御前や◯◯の方と呼ぶのが普通だったようです。
1530年頃の生まれと推測されていて、1556年、斎藤義龍によって明智城が落城した際(明智氏が斎藤道三に味方したのか、敵対したのかは諸説あるようですが)、身重の妻を背負って脱出したという俗説があります。
少なくとも美濃に居た頃には結婚していたようです。
もし、このとき身ごもっていたのが事実だとすれば、その子は本能寺の変の際、26歳ということになりますね。
長男なのか、長女なのか……
もっとも、光秀の出自については様々な説があり、明らかではありません。
有名なエピソードとして、結婚直前に疱瘡にかかり、醜い痘痕が顔に残ったため、父親は妹の方を光秀に嫁がせようとしたものの、光秀が気にせず、煕子を娶ったというものがあります。
しかし、これは当時、他の戦国武将(立花道雪)に似たようなエピソードがあり、そこからの流用という説が有力です。
また、光秀が連歌の会を主催することになったとき、貧しい生活だった光秀には金がなく、妻が美しく長い髪を売ってもてなしたというエピソードも有名です。
そのため、光秀は生涯、妻をひとりしか持たないと宣言したと言われています。
事実、ふたりの仲は良かったようです。
ただ、仲が良かったのは事実かもしれませんが、側室がいたという説ももちろんあり、当時の戦国武将として、いなかった方が不自然かとも思われます。
実際、光秀には多くの子がいたようで、ひとりの女性が生んだ人数とは考えにくいです。
光秀の子孫であるとわかると、命の危険があると考えた者たちが、光秀の血脈を守るために考え出した説ではないかと推測します。
また、妻については、光秀より早く死去したという説もあり(1576年、丹波攻めの頃に亡くなったという)、その後に側室を娶っている可能性もあります。
坂本城落城時に死去したという記録もありますが、後述するように光秀の娘たちが坂本城にいたようなので、そちらと混同しているのではないでしょうか。

光秀の妹?義妹? 御ツマキ

光秀の妹とも、妻の熙子の妹とも言われる「御ツマキ」という女性の名前が伝わっています。
この女性は信長の近くにいて、お気に入りの女性だったと言われており、彼女が死んだことで信長も光秀も落胆したというような記録があります。
名前からすると、妻の妹であるかのように思えますが、実像は不明です。
彼女の存在が信長と光秀をつないでいたと見る向きもあり、彼女の死が信長と光秀の間に溝を作り、本能寺の変の遠因となった可能性もあります。

光秀の子たちについて

光秀の子が何人いたかについては、資料によって記録が違います。
有力なのは三男四女説で、多いものでは六男七女説があります。
ここでは比較的、素性がはっきりしている三男四女説で解説します。

長男・十五郎

光慶という名でも伝わる光秀の長男です。
父親と同じ十兵衛を名乗っていたという説もあります。
坂本城落城の際、戦死か自害したと言われています。
しかし、大阪府岸和田市にある本徳寺を開基した南国梵桂和尚はこの十五郎と同一人物であるという説があります。
裏付けとなる証拠としては、唯一、光秀の肖像画を所有している寺であることと、この寺を妻木氏や細川氏が支援していたということです。
また、この寺の本家とも言うべき妙心寺の住職、玄琳が十五郎であるという説もあり、なおかつ、光秀と同一人物という説がある南光坊天海が十五郎という説まであります。
関東に明智光秀側室の墓と伝わる墓があり、そこには十五郎の名と桔梗紋が刻まれているとのことです。

次男・十次郎

自然丸、光泰という名も伝わっていますが、連歌の会に参加していた記録以外は特に事績が伝わっていません。
自然丸は別の息子だという説もあります。

三男・乙寿丸

明智軍記に名前の記載がありますが、こちらも特に事績は残っていません。
しかし、光秀が落ち延びて美濃の中洞で暮らしていたという説では、この息子も同行していたと記録されています。

光秀の息子たちについては、坂本城での攻防でふたりが死んだとルイス・フロイスが記録を残しており、そのとき長子は13歳だったという記載があります。
この長子が長男という意味なのか、年長の子という意味なのかは不明ですが、光秀の享年が55歳から67歳までという説があるため、長男が13歳というのは若すぎると考えるのが自然かと思います。
享年55歳の場合、長男は42歳前後の子となり、享年67歳の場合では54歳前後の子となります(当時は数え年だったので前後という表記を使っています)。
秀吉のように子供ができにくい体質だったというのならともかく、少なくとも三男四女、多い説では六男七女も子供がいた光秀の長男が、40を過ぎてから生まれたとは考えにくいかと。
明智城落城時に妻が身ごもっていたのが事実なら、その子は26歳になるはずですし……
事実、長男十五郎については、本能寺の変の後、坂本城ではなく、亀岡城の方にいたという説もあります。
また、坂本城では戦の前に大勢が城から逃げたという記録があり、そのときに息子たちが一緒に落ち延びた可能性は大いにあると思われます。
斎藤利三の遺族たちが稲葉一鉄の下に落ち延び、その後、血縁関係にあった四国の長曾我部氏の下で庇護されたという説もあり、そこに光秀の子たちがいても不思議ではないと思われます。

長女・荒木村次室→後に明智秀満室

長女は荒木村重の子、村次に嫁ぎましたが、村重親子が信長に反乱を起こしたため離縁しました。
後に三宅弥平次と再婚します。
このとき、三宅弥平次は明智秀満と名前を変え、明智一門となったと言われています(諸説あり)。
最後は坂本城で秀満とともに自害したとされています。

次女・明智光忠室

明智光忠は光秀のいとこに当たる人物で、丹波攻めなどで活躍したとされています。
一説によると、本能寺の変の際、二条御所を攻めるも負傷し治療中でしたが、光秀が山崎の戦いで敗れた報を聞いて坂本城に向かい、そこで討ち死にしたということです。
おそらく、この次女も運命を共にした可能性が高いかと思います。

三女・玉(ガラシャ)細川忠興室

光秀の娘で最も有名な存在ですね。
細川忠興の妻となり、仲が良かったと言われていますが、本能寺の変が理由で一時、僻地に幽閉され、キリシタンの洗礼を受けます。
関ヶ原の戦いの際には人質になることを拒み、部下に自らを斬らせました(キリシタンは自害できないため)。
後に細川家は肥後の大名となり、その血は幕末まで受け継がれます。
孝明天皇の母は忠興とガラシャの子孫であるとされていて、天皇家にもその血は伝わっています。

四女・津田信澄室

津田信澄は、信長の弟で信長に逆らって殺された信行とも信勝とも呼ばれる人物の子です。
信長から見ると甥に当たる人物になります。
本能寺の変の際には、四国遠征軍に加わっていましたが、光秀の娘婿であった関係上、関与を疑われ、織田信孝や丹羽長秀によって殺されます。
妻である光秀の娘がどうなったかは不明ですが、息子の昌澄は殺されず、後に大坂の陣でも活躍し、やがて徳川家の旗本となることから、息子と共に暮らしていた可能性はあるかと思われます。

ルイス・フロイスはあまり光秀について、好意的な記述を残してはいませんが、この光秀の子供たちについてはヨーロッパの貴公子たちのようだったと絶賛しています。

末裔たち

坂本龍馬

坂本龍馬は明智光秀または秀満の末裔という説があります。
坂本という苗字は坂本城から来ており、家紋が桔梗であるとのことです。
ただ、それ以前は別の家紋を使っていたと言われていて、俗説の域を出ません。
国を変革するという意味合いで光秀の子孫を名乗ったのかもしれません。
しかし、先述したように明智や斎藤の縁者が土佐に落ち延びている可能性はあります。

細川護熙

元日本国首相、細川護熙は肥後細川家の出身ですが、途中、養子を挟んでいるので、直系ではないとのことです。
しかし、細川護熙の祖母はガラシャの血を引いているということです。
となると、血を引いているのかと思うのですが、どうなのでしょう……?

細川隆元、細川隆一郎、細川珠生

国会議員、政治評論家、ジャーナリストなどで活躍した細川隆元と、その甥に当たり、同じく政治評論家だった隆一郎、さらに今もジャーナリストとして活躍中の隆一郎の娘、珠生。
この三人は細川忠興とガラシャの長男、忠隆の直系子孫となります。
忠隆は長男でしたが、前田家に近い立場であったため、徳川家と親しかった三男の忠利が家督を継ぐことになりました。
珠生はキリスト教の洗礼を受け、ガラシャの名をもらっています。

 

ガラシャの末裔が書いた「私の先祖、明智光秀」を読みました。
作者は細川ガラシャの末裔 表題の著書「私の先祖、明智光秀」を読みました。 著者はジャーナリストの細川珠生氏。 名前からわかるように細川家の子孫で、つまり、細川忠興と結婚した明智光秀の娘、ガラシャこと玉の血を引いているそうです。 長男...

 

明智憲三郎

近年、歴史捜査と称して、光秀について斬新な説を示している人物です。
残党狩りを逃れた光秀の子、於隺丸(おづるまる)の子孫であるとのことですが、系図ははっきりしないようです。
近い先祖は明智の名をはばかって、明田を名乗っていましたが、曽祖父の時代に明智に復姓したということです。
祖父の明智滝朗は、光秀または秀満が天海上人なったという説を唱えていたということです。

クリス・ペプラー

ナレーターなどで活躍する人物ですが、父はアメリカ人ですが、母方の先祖が土岐頼勝という人物の血を引いているようです。
また、この頼勝は光秀の子だという説があります。

明智ハナエリカ

歌手、DJなどとして活躍中の彼女は、父が日本人で母がメキシコ人ということです。
父が光秀の血を引いているようですが、系図は不明です。

最後に

男系の子孫については、息子たちが「実は落ち延びて生きていた」、「実は光秀の御落胤だった」という説でしか伝わっていないので、信憑性が高いとは言えません。
それに対し、女系は細川家との関係上、しっかりと血筋が証明されています。
津田信澄の妻の子孫も同様です。

2013年に「明智一族伝承の会」なるものが作られ、十数家が加入しているようですが、系図などはなく、ほとんどが口伝で、苗字を変えている家も多いとのことです。
なお、明智光秀の子孫と教えられ、育って来た女性が、この会に加入していて、明智ガラシャの芸名でCDデビューしています。

2020.01.26追記
このような本も出版されたようです。

(文中・敬称略)

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