明智光秀関係の文献史料について(戦国・江戸期)

明智光秀関係
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明智光秀は前半生が謎という武将でありますが、情報がまったくないわけではなく、各種文献の記録が違うことで混乱を生んでいるというのが実情です。
ここに光秀研究に必ず取り上げられる文献を紹介します。

明智軍記

光秀の死後100年後の江戸時代中期に書かれた軍記物語です。
作者は不詳です。
美濃国出国から、小栗栖での最後までを描いています。


明らかに間違っている記述が多く(例えば、光秀が諸国を流浪し、広島で毛利元就に仕官したなどというエピソードがありますが、その時代、毛利氏はまだその地にいませんでした)、戦国史研究の大家である高柳光寿氏は「誤謬充満の悪書」と切り捨てています。
しかし、国民的作家、司馬遼太郎氏が著書『国盗り物語』を書く際にこの話をベースとしたこともあり、世間一般にはこの文献の内容が、明智光秀の一生として知られています。
「敵は本能寺にあり」というセリフもこの明智軍記に書かれているものです。
「五十五年夢 覚来帰一元」という光秀辞世の句も『明智軍記』に書かれていて、この辞世の句から光秀の享年は55歳だったと推測されています。
誤謬充満というのは事実かもしれませんが、江戸時代に軍記物とはいえ、光秀について書く以上、インターネットなどなかった時代だけに、なんらかの光秀のことを知る人間、例えば子孫などが関わっていたのではないかという推論もあります。

信長公記

信長、秀吉に仕えた文官、太田牛一により書かれた信長に関する一代記です。
これは説明不要な有名な文献ですね。
淡々と正確な記述をしているのが特徴と言われ、当時を知る史料としては信頼がおけるものとされています。

当代記

江戸時代、寛永期(1624~1644年)頃に姫路藩主、松平忠明がまとめたとされている文献です。
『信長公記』を元にした二次史料とされています。
本能寺の変の際、光秀の年齢を67歳と記述しているのがこの書で、それが事実だとすると、光秀の生年は1516年となります。
なお、江戸時代初期の記載についてはかなり信頼できるようですが、それ以前は『信長公記』に基づく記載が多く、信憑性は高くないという見方もあります。

多聞院日記

奈良興福寺の塔頭「多聞院」にて、室町時代末期から江戸時代初期まで僧侶たちによって書き続けられた日記です。
奈良を初め、当時の近畿地方一帯の政治事情を記した一級史料とされています。
光秀に関しては、比叡山焼き討ちの件や、「細川家の中間だった」という記載や、光秀の妹か妻の妹とされる「御ツマキ」が信長のお気に入りでもあったが死んでしまい、光秀もまた落胆したという記載があります。
あと、本能寺の変の際、光秀が御所を焼き、正親町天皇を殺害したという間違った噂を聞いて、呪詛の言葉を90万回以上唱えたなどという記載や、変の後、光秀が殺されたことを知り、「天罰だ」などという記載もあります。
あまり光秀に対しては好意的ではない文献ですかね。

日本史

宣教師、ルイス・フロイスによって書かれた一級史料。
外国人から見た戦国時代の記録となります。
フロイスは信長、家康とも面会経験があり、庶民の生活についてまで詳しい表記があります。
また、戦国大名の名前の読み方は、この文献によるものが多いです。
一般的に生真面目なイメージを持たれている光秀について、この文献では残忍で信長にうまく媚びる人物として記録されています。
腹黒く嫌われているという表記もあります。
信長は宣教師に対し寛容的でしたが、後の秀吉の時代に追放されてることから、信長を殺した光秀に対し記述が厳しいのかもしれません。
しかし、光秀の能力については高く評価していますし、子供たちは西洋の貴公子に匹敵すると褒めてもいます。
この書に関しては、下のサイトが詳しかったです。

明智光秀は残虐で狡猾な人物だった【宣教師ルイス・フロイスから見た光秀】 - 草の実堂
ルイス・フロイスという外国人宣教師がいる。 カトリック宣教師で戦国時代の日本で布教活動をし、実際に織田信長や豊臣秀吉と会っている。本能寺の変があった時も近くの教会にいたようである。 リアルタイムで信長や秀吉、そして光秀にも面識があったルイス...

常山紀談

江戸時代中期に備前岡山藩・池田氏に仕えた儒学者、湯浅常山が記した書で、戦国武将の逸話が書かれています。
光秀に関しては、本能寺の変前夜に明智秀満を寝所に呼び出し、力を貸すように申し出ていることと、その翌日に信長を討ったことが淡々と書かれています。
また、明智左馬之助(秀満のことかと思われるが、ここでは秀俊と書かれている)の湖水渡りについても記されています。
光秀が毛利氏に送った伝令を捕まえたことや、秀吉が中国大返しを行う際、宇喜多氏が光秀に通じているのではないかと警戒したという記述もあります。

本城惣右衛門覚書

丹波国の地侍だった本城惣右衛門という人物が、晩年に書き残した書です。
本城惣右衛門の生年は不明ですが、晩年というのは80から90歳だったと言われています。
当時、光秀の軍に従軍していたようですが、本能寺を攻めるとも、信長を討つとも知らず、ちょうど上洛していた徳川家康を討つものだと思っていたと記されています。
また、本能寺を攻めた際の詳細な記述もあるため、一級史料と見る向きもあります。
ただし、文書の出どころが怪しいのと、80歳以上の老人の記憶が確かなのかという点、さらには下級武士が家康が上洛していることを知っていたのかという疑問点があり、信憑性を疑う声もあります。

石谷家文書

石谷光政と石谷頼辰親子の間でかわされた書状。
岡山にある林原美術館に所蔵されています。
石谷氏は光秀と同じく、美濃土岐氏の一族と言われており、石谷頼辰は光秀の重臣、斎藤利三の兄です。
石谷光政に男子がいなかったことから、斎藤家から婿養子にもらわれていました。
長宗我部元親の正室は石谷光政の娘で、義理の関係ではありますが、石谷頼辰と斎藤利三と長宗我部元親は兄弟となります。
石谷光政は足利義輝に仕えていましたが、義輝が殺害されたので、娘の嫁ぎ先である土佐に逃れていました。
さらにいうと元親の息子、信親の正室は石谷頼辰の娘です。
系図については、このサイトが詳しかったです。

斎藤利三としては、自分と縁の深い長宗我部家に対する信長の政策にやきもきしていたでしょうし、石谷頼辰を通じて、「光秀・利三」と「元親・光政」との間で連絡がされていたことがこの文書で証明されています。
信長は元親に対し、当初、四国は切り取り次第と告げていたのに、後に土佐一国のみにせよ、と方針転換をしたのは有名な話です。
そのことに関して、元親は抵抗した旨が文書に残されていますが、後に斎藤利三の説得により、受け入れる旨を記した文書も発見されています。
ただ、その文書が本能寺の変当日までに斎藤利三の元に届いていたかどうかがはっきりしていません。
いわゆる、「本能寺の変・四国説」を補強する史料とされ、研究が進められています。

元親記

長宗我部元親の側近だった高島正重という人物が、主君の三十三回忌に記した書物です。
光秀や利三が元親に対し、信長に逆らうなと説得していたことが記されています。
元親が逆らう姿勢を見せたため、信長が軍事行動を始めたので、謀反を急がねば……と、利三が考えたという主旨のことも記されています。
二次史料として、これまであまり重視されていませんでしたが、上記の石谷家文書の公開により、見直しが進んでいます。

兼見卿記

京都吉田神社の神職でもあった公家、吉田兼見(元の名は兼和)が残した日記です。
足利義昭、織田信長、明智光秀らと親しかったとされ、細川藤孝とはいとこの関係になる人物です。
本能寺の変の後、光秀とは数回会っています。
光秀から謀反の理由を打ち明けられたとされ、光秀から銀子50枚を受け取っていたりもします。
光秀や藤孝を通じてか、信長によって家格をあげてもらうなど恩があるのですが、本能寺の変の前日、多くの公家衆が信長に挨拶に行く中、なぜか信長と親しいはずの兼見は訪問していません。
それゆえ、本能寺の変に何か関わっているのではないかとも推測されています。
朝廷黒幕説を唱える者は吉田兼見の動きを重要視しています。
彼の残した日記は当時の情勢を知る上で重要なもので、一級資料とされていますが、どういうわけか、本能寺の変があった年の日記だけ2種類残されています。
しかも、ひとつは山崎の戦いの前日である6月12日で終わっています。
紙が切れたという説もありますが、あまりにタイミングが良すぎる日付なので、光秀と親しかったことで、身の危険を感じた兼見が書き直したと考えるのが自然でしょう。

甫庵太閤記

儒学者、医者である小瀬甫庵という人物によって書かれた秀吉の一代記です。
軍記物語としての扱いがされています。
小瀬甫庵は美濃土岐氏の出身だったとも言われています。
江戸時代初期に『信長公記』を元に『信長記』を、『惟任退治記』を元に『太閤記』を記述したとされています。
長篠の戦いにおける鉄砲三段撃ちや、山崎の戦いにおける、天王山の陣地争いが勝敗を分けたという話は、この甫庵太閤記が元になったとされていますが、いずれも創作であるとされていて、史料としての価値は低いとされています。

川角太閤記

田中吉政(石田三成の親友であり、関ヶ原の戦いの後、三成を捕縛した人物)に仕えた川角三郎右衛門が、秀吉について書いた軍記物語です。
本能寺の変の部分については、光秀につかえていた武将たちから聞いた話として、収録されています。
そのため、史料的価値を高く見る向きもあります。
また、光秀が信長を討つ件に関して、前夜、側近たちに伝えたという話はこの書物から来ています。

惟任退治記

秀吉の側近、大村由己によって書かれた『天正記』の中の一巻。
いわば、秀吉のスポークスマンが秀吉に正義があることを宣伝するために書いた書物です。
怨恨説の根拠となっている書物で、光秀が単独で信長を倒したと唱えています。
愛宕百韻の発句「ときはいま……」を光秀の野心を表すものとして書いているのもこの書物が最初とされています。
ただ、光秀が通説では、小栗栖で竹槍に刺されて深手を負い切腹したとされていますが、この書では勝龍寺城脱出後の混戦の中、戦死したと描かれています。

綿考輯録

「めんこうしゅうろく」と読みます。
江戸時代中期に書かれた書物で、細川藤孝、忠興、忠利、光尚の四代について述べられており、そのため『細川家記』とも呼ばれます。
肥後熊本藩細川家の公式記録とも言える書物であるので、一級史料として扱われていますが、一部、『明智軍記』から引用された記載もあるとされています。
また、細川藤孝および忠興は明智光秀と関わりが深い人物ですが、光秀が謀反人として扱われていた時代だけに、関わりを避ける作為的な記述があるとも言われています。

言継卿記

朝廷の財政を担う役割を務めていた公家、山科言継が記した記録です。
有職故実に通じた文化人でもあり、医学の心得もあったとされる人物ですが、金策のため、各地の大名と交流していた面もあります。
光秀についての記述ですが、明智軍が本能寺を囲み始めたのは午前4時頃と記載し、光秀は午前9時頃本能寺にやってきたという記載があります。
さらに、斎藤利三が磔にされて粟田口に晒されたとき、今回の謀反随一の活躍をした人物である旨を記しています。
このことから、信長を討った実行犯は斎藤利三ではないかと推測する説もあります。
また、美濃を訪れた際、明智市尉という人物と出会っている記録がありますが、この明智市尉というのは光秀のことではないかと推測されています。
十兵衛の字をくずし字にすると、市尉に見えるのではないかと光秀の末裔である明智憲三郎氏が指摘しています。

老人雑話

戦国時代後半から江戸時代初期に生きた江村専斎という医者が語ったことを友人が書き残したという記録です。
この人物は羽柴秀吉や細川藤孝らと親交があり、加藤清正にも仕え、天皇から長寿の秘訣も聞かれたという逸話があります。
光秀については「細川家に仕えていた」「細川家の他の家臣と反りが合わないようだった」という主旨のエピソードや「仏の嘘は方便と云ひ、武士の嘘をば武略と云ふ。土民・百姓はかはゆき事なり」という有名な言葉が記録されています。
また、家康について「光秀の謀反がなければ命を落としていた」という記述もあり、信長は当初、家康を討てと光秀に命じていた可能性について触れています。
『本城惣右衛門覚書』の記述と一致します。
これも老人の残した言葉の記録なので、信憑性が疑われることもあります。
秀吉や藤孝と親しいのだから、信用できるかというと、勝ち組が残した記録なのでなんとも言えないようです。

※その他、随時追記、修正予定です。

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