光秀の末裔、明智憲三郎氏が唱える「本能寺の変」の真相とは?

明智光秀関係
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はじめに

日本の歴史上、邪馬台国比定地と並ぶ大きな謎である「本能寺の変」。
この事件が起こったいきさつについては、少なくとも60の説があると言われています。
最近、光秀の末裔とされる明智憲三郎氏の唱えておられる説が面白いと思いました。
信憑性も高いと思ったので、できるだけ簡潔に説明させていただきます。

その動機は?

いきなり、結論から書きます。
光秀は信長の構想していた唐入り(大陸攻め)を阻止しようとしたというのが明智憲三郎説です。
なぜ阻止したかったのかというと、一族が無謀な戦いに駆り出され、滅ぶことを恐れたのです。
当時は家系を守るのが何より重視された時代です。
光秀自身は「本能寺の変」当時、老齢(明智憲三郎説では67歳)でした。
戦に明け暮れて苦労してきた人生でした。
せっかく日本国内が統一されつつあったのに、子供たちに引き続き同じような苦労をさせたくなかったのです。
また、佐久間や林といった宿老が突然追放された事件がありました。
自分や息子たちも国内統一がなるとどんな目に遭うかわからないという不安もあったとも見られます。

その計画は?

明智憲三郎氏の研究によると、光秀は徳川家康と協力していたとされています。
当時、武田家が滅び、東に脅威がなくなっていました。
信長にとっては家康との同盟にもはやメリットがありませんでした。
つまり、家康はもはや邪魔な存在だったのです。
実際、武田攻めの際、信長は家康の領地を通っていますが、これは家康領の偵察だったとも推測できます。
この家康殺害を信長は光秀に任せようとしました。
本能寺で茶会を開くとして、自らも少人数で上洛するから家康もそうするようにと指示します。
自分も少人数で上洛することで、家康を油断させようとしたわけですね。
直前に、わざと安土での家康接待で光秀を叱責して、亀山(亀岡)城に帰らせています。
そして、光秀が秀吉の援軍に向かうように見せかけ、本能寺で家康を襲わせるというのが信長の計画でした。
そのため、光秀の軍勢は簡単に京へ入ることができました。
しかし、唐入りを阻止したくて、明智一族の将来を危惧していた光秀は、これを千載一遇のチャンスと見て、家康に打ち明けたのです。
信長の作戦を逆手に取ったのですね。
信長、最後の言葉として「余は自ら死を招いたな」という発言が伝わっています。
これは「光秀にしてやられた」という意味があったのです。

当時の状況

先述したとおり、佐久間や林と言った宿老が追放されていました。
尾張や近畿周辺は信長の息子たちが治める土地になっていました。
有能な武将たちは各方面の司令官となり、そして中央から離され、江戸時代における外様大名のようになりつつありました。
信長の近くにいたのは光秀だけでした。
もし家康が殺されたら次は自分ではないかと考えても不思議ではありません。
また、光秀と昵懇の仲になっていた長宗我部氏も信長によって攻められようとしていました。
四国攻め部隊が侵攻する予定日は本能寺の変の翌日である6月3日でした。
この長宗我部氏は信長を倒した後、明智家を支えてくれる勢力のひとつと光秀は期待していました。
しかし、秀吉の横槍が入り、四国は三好一族に……という動きがあり、長宗我部氏はピンチでした。

光秀の誤算

本能寺の変後の光秀の行動がバタバタしていることから、突発的なものだと思われていますが、誤算があったからだと見ることができます。
まず、細川と筒井が味方として合流しませんでした。
特に細川藤孝は、本能寺の変について知らなかったように振る舞っていますが、計画を知っていた可能性があります。
謀略の名人と宣教師に記録されている光秀のこと、単独で織田家の勢力に勝てるとは思っていなかったはず。
当然、信長を倒したあとの戦略もあったはずです。
ちなみに、細川家の家老、松井康之と秀吉は昵懇の仲でした。
ここから情報は漏れ、秀吉に伝わった可能性は十分にあります。
秀吉はあらかじめ事件が起こるのを知っていたから、そのため、奇跡の「中国大返し」は実現できたのです。
この件に関しては別記事にしてあるので、そちらを見てください。

「中国大返し」のキーマン? 松井佐渡守康之について
明智光秀が本能寺の変にて信長を討った直後、羽柴秀吉が信じられない速度で中国戦線から東上して来ました。 これは「中国大返し」と呼ばれ、戦国時代最大の幸運児、太閤秀吉の奇跡的伝説のひとつと見なされています。 しかし、常識で考えて、本能寺の変の後...

信長の息子、信忠は本来なら家康と一緒に堺見物に出かけた際、家康の手によって殺害される予定でした。
しかし、危険を察したのか、信忠は家康より先に京へ戻っていました。
信長最後の言葉のひとつに「城介(信忠)が別心か?」というものも記録されていますが、この京へ先に戻る行動が信長の家康暗殺計画にはなかったからです。
このため、光秀は信長を倒した後、信忠軍と戦う必要があり、時間がかかることになってしまいました。
また、瀬田川の橋を落とされたのも誤算でした。
一気に安土城まで攻め入りたかったのに、一旦、坂本城へ戻ることになり、近江平定に時間をかけてしまう羽目となりました。
そうこうしているうちに、あらかじめ信長が倒されるのを知っていた秀吉が猛スピードで戻って来ました。
しかも、摂津の武将が軒並み秀吉側についていました。
これは宣教師に寛大だった信長を光秀が倒してしまったため、宣教師たちが摂津の武将たちを秀吉に味方するよう説得したからだと言われています。
高山右近など有名なキリシタン大名でしたからね。
秀吉の部隊は大返しで疲れていたかもしれませんが、摂津衆の部隊は元気です。
結果、光秀は戦に敗れます。
そして、秀吉の作らせた「惟任退治記」によって、「短気な信長にいびられた光秀が、逆恨みして主君を殺したのだ」とレッテルが貼られ、宣伝されます。
江戸時代に少し名誉回復がなされますが、皇国史観の時代が来て、また悪者にされてしまいます。
近年ようやく見直しの気配があるとはいえ、泉下の光秀はさぞかし無念だったかもしれません。

最後に

この説は言うなれば、家系存続説とか恐怖説とか、唐入り阻止説となるのでしょうか。
家康は黒幕というより、協力者になりますね。
明智憲三郎氏は光秀=天海説には否定的でした。
ただし、坂本龍馬の先祖が明智一族という説には再考の余地があるとされています。
光秀の重臣斎藤利三の娘、福が家光の乳母(春日局)となったのは、斎藤利三が家康を共犯だと口を割らずに処刑されたことに対する感謝の心ではないかとも推測されています。
なお、明智憲三郎説では福は家光の生母で、家康ではなく、秀忠の側室になったと推測されています。

<参考文献>


この本にはもっと詳しいことが書かれています。
光秀の謎だらけの前半生についてもまとめられていますし、現代に暮らす光秀の末裔たちのことにも触れてありました。

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