高倉天皇の子で、母は建礼門院徳子、祖父は平清盛となる安徳天皇。
壇ノ浦の戦いで平家が敗れた結果、二位尼に背負われ、三種の神器と共に海の底へと沈んだ悲劇の天皇です。
享年は現在の年齢で言うと、満6歳4ヶ月。
『平家物語』では海の底には都があると説得され、海へ沈むシーンが涙を誘います。
そのためか、各地に落ち延びた伝説があります。
しかし、この安徳天皇について、女性だったのではないかという説があります。
理由1 なぜ、平家の連中は天皇を源氏にひきわたさなかったのか?
神聖不可侵の存在である天皇。
本来なら、命まで取られる存在ではありません。
源頼朝も義経に対し、天皇と三種の神器の取り扱いには気をつけるよう指示をしていたとされています。
戦国時代、本能寺の変の直後、信長の息子、信忠と明智光秀との間で二条御所にて戦闘が行われますが、二条御所に誠仁親王がいたため、脱出するまでの間、一時休戦をしているほどです。
もし、平家の連中が安徳天皇と三種の神器、さらに母親の建礼門院徳子を義経に差し出していれば、どのような待遇を受けたかはわかりませんが、島流しに程度にはされても、おそらく命は救われたはずです。
それをできなかったのはなぜか?
安徳天皇は女性だという知られてはならない秘密があったからではないでしょうか?
理由2 赤間神宮のご利益は安産?
安徳天皇を祀る赤間神宮のご利益は「安産」です。
赤間神宮は、神仏習合時代、阿弥陀寺と言われた場所で「耳なし芳一」の舞台となった寺でもあります。
耳なし芳一が歌を聴かせていた相手は、平家の亡霊たちです。
無念の死を遂げた人物を祀る神社のご利益は、生前にそのことが成し遂げられなかったことが多いです。
安徳天皇が男性なら、安産のご利益をもたらすのはおかしな話で、これは女性説の証拠と言えます。
理由3 なぜ、三種の神器と一緒に沈んだのか?
当時は来世なり、極楽浄土があると強く信じられていた時代です。
幼い女子がひとりであの世にたどり着いても天皇と認識してもらえない可能性があります。
そのため、印として神器を持って行くよう、二位尼が考えた可能性は十分あります。
ちなみにこのとき沈んだ三種の神器はレプリカだったとされ、本物は伊勢神宮や熱田神宮にあるとされています。
八尺瓊勾玉は元々宮中にあったものだけに本物だった可能性が高いですが、草薙の剣以外は源氏に回収されたと言われています。
理由4 出生の際の儀式に疑問が?
当時、宮中では安産のまじないとして、甑(こしき)落としということが行われていました。
甑というのは米を蒸す蒸籠のような道具です。
皇后や中宮が出産した際、男子誕生の時は甑を屋根の南側に、女子の時は北側に落とすならわしになっていました。
しかし、安徳天皇誕生の際、はじめ北側に落としたのをあわてて南側へ落としなおしたと言います。
間違いだったと言われてはいますが……
理由5 京都にある肖像画は女子を描いたもの?
京都泉涌寺に安徳天皇の肖像画が残されていますが、顔立ちといい、長い髪といい、赤い着物といい、女子に見えなくもありません。
なお、手にして遊んでいる玩具は、「輪鼓(りゅうご)」と呼ばれるものです。
“女子”の袴緒の先に重しとしてつけられた太い糸の形と同じと言われています。
理由6 歌舞伎の演目、義経千本桜
歌舞伎の演目「義経千本桜」では、安徳天皇が「お安」という名前の女性として登場しています。
また、天台座主・義円が書いた「愚管抄」において、安徳天皇は安芸の宮島にある厳島神社に祀られている宗像三女神に祈願して生まれた「龍王の子」であると書かれています。
だから海へ帰ったのだということです。
なお、龍王の子とは弁財天のことであり、宗像三女神としばしば同一視される存在で、いずれも女性です。
また、江戸時代には安徳天皇は女性だったという川柳などの類がよく作られたと言われています。
<参考文献>



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