はじめに
神聖不可侵な存在である天皇ですが、歴史を紐解くと、殺害された可能性のある天皇が数人存在します。
安康天皇
第20代天皇。
倭の五王のひとりとされている天皇です。
讒言を信じて、仁徳天皇の子でもある叔父の大草香皇子を殺し、その妻を皇后としますが、連れ子となるその息子の眉輪王に睡眠中に殺されています。
そのとき、眉輪王はわずか7歳でした。
崇峻天皇
崇峻天皇は蘇我氏の手によって推戴された存在でしたが、政治の実権を持つ蘇我氏を疎ましく思うようになり、排除したいという意識を持つようになりました。
そこで、逆に警戒した蘇我馬子が、部下の東漢直駒(やまとのあやのあたいのこま)に暗殺させました。
一説によると、石棺が開けられて話題となった藤ノ木古墳の被葬者は崇峻天皇ではないかと言われています。
安徳天皇
安徳天皇は高倉天皇と平清盛の娘、建礼門院徳子との間の子として生まれた天皇です。
源平合戦の結果、都から追い出され、最後は壇ノ浦にて二位の尼に背負われ、数え歳8歳の幼さで入水して崩御しています。
間接的な殺害と言えますね。
なお、安徳天皇は女性だったという説もあります。
仲哀天皇
英雄ヤマトタケルの子で、神功皇后の夫でもあった仲哀天皇は、神功皇后に乗り移った神のお告げを無視しました。
すると、突然、あたりが暗闇になり、再び明かりが灯ったときには、事切れていたとのことです。
実際は殺害だろうと言われています。
ただし、ヤマトタケルも神功皇后も実在性が疑われる人物ですので、この仲哀天皇も実在したかどうかは疑わしいとされています。
孝徳天皇
孝徳天皇は中大兄皇子(後の天智天皇)に推戴された存在で、難波宮に都を置きました。
情勢が変わり、中大兄皇子らが大和に帰ることを提案したのですが、認めませんでした。
しかし、皆が中大兄皇子について大和に帰ってしまったので、結果、置き去りにされてしまいました。
それを恨んで病気になって死んだとも、憤死したとも言われていますので、これも間接的な殺害と言えますね。
天智天皇
孝徳天皇を死に追いやった中大兄皇子である天智天皇も、公式記録では病死ですが、後の時代に書かれた「扶桑略記」という書物には、京の山科山中で行方不明になったという記録があります。
これも殺害ではないかと推測されています。
沓(くつ)だけがその場に残されていたので、そこに沓を埋めて陵墓にしたといわれています。
→弟とされている天武天皇との複雑な関係についてはこちら
淳仁天皇
大炊王と呼ばれていた後の淳仁天皇は、孝謙・称徳女帝に操られた挙句、藤原仲麻呂の乱に巻きこまれ、淡路島に流されます。
それでも、大炊王を担ぎ上げようとする勢力があり、淡路島からの脱出をはかりますが、途中で捕まり、病気で亡くなったとされています。
実際は殺害されたと考えるのが自然でしょう。
明治になるまで淡路廃帝と呼ばれ、天皇として諡もなかった悲劇の帝です。
孝明天皇
江戸時代末期の天皇ですが、35歳の若さで突然、病を発し、全身の穴から血を吹き出して崩御したと記録されています。
しかし、直前まで健康体であったことと、孝明天皇自身が外国嫌いであったことから、開国するに当たって存在が邪魔になった維新派の公家たちに毒殺されたという説が根強くあります。
神聖不可侵な存在であり、時の権力者も手を出しあぐねたはずの天皇も、こうして見ると不審な死を遂げている例が多いですね。