歴代天皇に関する雑学あれこれ 最初の女帝は推古天皇ではない?

地理・歴史系
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日本国の象徴である天皇陛下。

126代、124人(皇極・斉明、孝謙・称徳は再祚)の方々がおられるので、様々な逸話があります。

最年少で即位した天皇・上皇

史上最年少で即位した天皇は六条天皇です。

数えで2歳。

現在の年齢の数え方でいうなら七ヶ月です。

しかも、わずか二年半ほどで退位させられ上皇になりました。

史上最年少で即位した上皇でもあります。

赤痢で亡くなり、享年は13歳。

皇后も皇太子もいませんでした。

時は後白河院が暗躍した時代、何もわからないまま運命に翻弄された人生だったのではないでしょうか。

いたずらがすぎて崩御した天皇

四条天皇はわずか2歳で即位し、12歳で崩御しました。

ある日、四条天皇はいたずら心で宮廷内に滑りやすい石を並べていました。

近習たちが転ぶのを見て楽しもうとしたところ、自身が転んで頭を打ってしまい、崩御されました。

いたずら心がすぎたのですね。

時は鎌倉時代、承久の乱の後のことであったので、島流しにされた後鳥羽上皇のたたりではないかとも言われたとか。

古代天皇の寿命が長い理由

古代の天皇には、120歳くらいまで生きていたという記録があります。

そのことから実在を疑う声もありますが、当時の中国の記録に「倭人は暦を知らず」という趣旨の一文があります。

なので、耕作期と収穫期をもって1年としていたのではないかという見方があります。

つまり、今の1年が2年に相当したという解釈です。

となると、古代天皇の寿命は今の半分となるわけで、不自然な数字ではなくなり、実在性が高まって来ます。

また、四季の移り変わりで1年としていたという説もあり、これだと今の1年が4年に相当します。

在位期間が最長だった天皇・最短だった天皇

もっとも在位期間が長かった天皇は、神話上の天皇を除けば昭和天皇の64年ですが、もっとも在位期間の短かった天皇は仲恭天皇の78日です。

鎌倉幕府と揉めていた承久の乱の混乱期に、4歳で即位した天皇で、乱の終了後、退位させられています。

即位式も大嘗祭も行われていません。

その後、17歳の若さで崩御していて、明治に入るまでは天皇としての号も与えられていなかった非業の天皇です。

ちなみに明治に入ってから天皇号が追贈されたのは、仲恭天皇と弘文天皇と淳仁天皇の三人です。

最初の女性天皇は推古天皇ではない?

初の女性天皇といえば、推古天皇というのが一般的ですが、実はそれより前に飯豊女王という人物が即位していたのではないかという説があります。

一般的には「いいとよのひめみこ」と読みます。

5世紀後半頃の人物で、清寧天皇崩御後に後継者が決まるまでの間、一時、政務を執ったとされています。

ただし、それが即位してのものなのか、摂政的な役割だったのかが今も不明です。

実在したかどうかにも諸説あり、飯豊女王と呼ばれる存在はふたりいたという説もあります。

なお、戦前は神功皇后も天皇として扱われていた時期があります。

こちらも実在性が疑われる人物ですが、これが事実であれば、3世紀初頭の人物とされているので、神功皇后が最初の女性天皇となります。

大正天皇の誕生日がクリスマス行事定着の理由?

明治天皇の誕生日は11月3日で、現在は文化の日となっています。

昭和天皇の誕生日は4月29日で、現在はみどりの日を経て、昭和の日となっています。

では、大正天皇の誕生日はいつかというと……8月31日です。

なぜか祝日にしようという動きがなく、未だに祝日となっていません。

ただし、戦前は命日である12月25日が偲ぶ日として休日になっていて、これが日本にクリスマスが定着した理由のひとつと言われています。

徳の字がつく天皇は怨霊?

懿徳天皇

いわゆる実在が不明とされる(欠史八代)時期の天皇で、事跡も不明です。

仁徳天皇

伝説の聖王。

民のかまどの煙が少ないのを見て、徴税を数年止めたというエピソードが伝わっています。

孝徳天皇

中大兄皇子に推戴されますが、後に仲違いして難波の宮に置きざりにされ、失意のうちに崩御しました。

文徳天皇

藤原氏と紀氏の勢力争いに巻きこまれた挙げ句、若くして崩御されます。

崇徳天皇

祖父(白河上皇)が愛人を孫(鳥羽天皇)の妻にして生まれた存在と言われています。

そのため、白河上皇の子という説もあります。

鳥羽天皇は叔父子と呼んでいました。

疎まれて育った上、鳥羽法皇崩御後は権力争いに巻き込まれて乱を起こす(保元の乱)ことになり、敗れて讃岐に流されます。

讃岐では仏門に入り修行に励みますが、写経の奉納を断られたことから、怒り狂って朝廷を呪い、日本最大の大怨霊と呼ばれるようになりました。

明治天皇が即位式を行う際には、わざわざ勅使を讃岐に送り、御霊を京都へ帰還させ、神社を建立しています。

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なお、先述したように神功皇后も天皇だったのではないかという説があります。

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過去の天皇に諡をつけた淡海三船はわかっていて、この諡号を与えたのではないかと考えられます。

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