戦乱の時代だけに、綺羅星のごとく英雄を生み出した戦国時代。
そんな時代の人物に関する雑学をいくつか紹介します。
松永久秀の命日……バチが当たった?
三好長慶や織田信長に仕え、戦国三大梟雄のひとりと呼ばれる松永久秀。
最後は信長に反乱を起こしたため、居城の信貴山城を攻められますが、信長も欲しがったという名物茶器・平蜘蛛の釜に爆薬を詰めて、爆死したとも言われています。
その日は10月10日なのですが、この日は彼が奈良の大仏を燃やしたのと同じ日で、大仏のたたりと言われています。
ちなみに戦国三大梟雄とは、松永久秀、斎藤道三、宇喜多直家の3人です(宇喜多直家を外して、北条早雲を入れる場合があります)。
信長は家康に対し、久秀のことを「主君を裏切った」「将軍を殺した」「大仏殿を焼いた」と、大きな悪事を3つも働いた人物と紹介しています。
しかし、信長も織田本家を滅ぼし、将軍を追放し、比叡山を焼いています。
姉川の戦い楽勝説
織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が雌雄を決した姉川の戦い。
この戦いの際、浅井軍の勇将・磯野員昌が織田・徳川方の陣を多数打ち破るなど、かなり奮戦したという話になっています。
しかし、この話は江戸時代に入ってから作られた文書に書かれているもので、実際は物量共に勝る織田・徳川連合軍の楽勝だったという説があります。
では、なぜこのような話が生まれたのかというと、二代将軍・秀忠の妻、お江が浅井家の出身だからという説が有力です。
二代将軍の正室の実家があっさりとやられるような弱い軍では様にならなかったのでしょう。
家康の妻、築山殿は当時どう呼ばれていたか?
徳川家康の最初の妻は、今川家の重臣関口氏の娘です。
一説には今川義元の姪に当たるとも言われ、家康は今川家において優遇されていたとも言えます。
一般的には、「築山殿」や「瀬名姫」と呼ばれています。
しかし、築山殿というのは、家康と不仲になったあと、岡崎城下の築山御殿に幽閉されたから呼ばれた名です。
瀬名姫という名は瀬名郡の出身だから呼ばれた名前です。
本来の名は伝わっていませんが、築山殿と呼ばれる前はなんと呼ばれていたのか、長く疑問とされていました。
近年、資料が発見され、駿河御前と呼ばれていたという説が有力となっています。
今川家の縁戚であったことと、最終的に信長の命令により嫡男信康共々自害させられたことから、嫉妬深い女性だったなどと権力側が作った記録には悪く書かれている悲劇の女性です。
武田方と通じていたという説も確実ではなく、信長の命令ではなく、家康が殺したのに信長のせいにしたという説もあります。
名将、山県昌景の身長は148センチだった?
武田信玄の部下として活躍し、勇猛果敢で、武田四天王のひとりとも、武田二十四将のひとりとも言われる山県昌景ですが、その身長は148センチだったと言われています。
現代より平均身長が10センチ以上低かった時代とはいえ、その中でも特別小さかったらしく、「武田の小男」と書かれた文献も残っています。
それどころか、もう10センチ低い身長だったという説もあります。
元の姓は飯富(おぶ)で、同じく武田家の武将として活躍した飯富虎昌は兄とも叔父とも言われています。
虎昌は信玄の信頼が厚く、信玄の嫡男、義信の傅役も務めました。
しかし、織田信長に敗れた今川氏への対処を巡って、今川氏の娘を妻に娶っていた義信と、父・信玄との仲がこじれました。
信玄に対し、義信と虎昌が謀反を企んでいるという知らせを伝えたのが昌景とされ、結果的に虎昌は処刑されます。
また、義信は廃嫡され、寺に幽閉されます。
そのときの功績から、昌景は途絶えていた名家、山県の苗字を与えられます。
また、兄の虎昌が率いていた赤備えの部隊を引き継ぎ、この部隊が精強であったことから、以後、赤備えの部隊は最強部隊の代名詞となります。
井伊直政や、真田信繁(幸村)らも赤い装束で揃えた部隊を率いました。
ちなみに武田義信が本当に謀反を考えていたかはいささか怪しいところがあり、寺に幽閉されたあとわずか2年で、30歳の若さで死んでいることから毒殺されたのではないかという説もあります。
織田信長が「武田信玄はひどい奴だ」という趣旨の書状を足利義昭に送っています。
義信は優秀な武将であったとされ、彼が健在であれば、勝頼が家督を継ぐことはなく、武田氏の滅亡はもう少し延びたのではないかという見方もできます。
後に家康の正室と嫡男が信長の命令によって切腹させられる事件が起こりますが、このときの武田信玄のエピソードを参考にしたという説もあります。
また、先述したように指示を出したのは信長ではなく、実は家康だという説もあります。
北条早雲は北条氏を名乗っていない
戦国時代のはじまりは、北条早雲が伊豆の国を支配したときからという説がありますが、北条氏を名乗り始めたのは、早雲からではなく、息子の氏綱からです。
鎌倉時代の名族、北条氏から拝借しました。
早雲という名は葬られた寺が早雲寺だからです。
彼自身は生涯伊勢氏を名乗っていました。
名前は新九郎長氏、または盛時。
号して宗瑞です。
かつては素性もわからぬ浪人とされていましたが、近年は備中の領主だった伊勢氏の出という説が有力です。
山内一豊の読み方について
司馬遼太郎の小説「功名が辻」でも有名な山内一豊。
最後は土佐の大名となるわけですが、名前の読み方については諸説あります。
まず、姓については「やまうち」と「やまのうち」の二つ説があります。
前者は土佐で、後者は近江でそう呼ばれているようです。
名前については、「かずとよ」ですが、昔の表記では「かづとよ」、さらに当時の表記法では濁点を表記せず「かつとよ」になるので、文献至上主義の人は「かつとよ」と呼ぶそうです。
しかし、それは秀吉を「ひてよし」と呼ぶようなものかと思われます。
戦国武将の名前の読み方については、地方によって微妙に違うことが多く、当時の識字率の問題や、方言による発音の違いもあるので、一概にどれが正しいかとは言えません。
実際のところ、外国人宣教師が残した文献に記されたローマ字から読み方を判断しているものも多いそうです。
戦場で一度も傷つかなかった武将について
戦国時代、徳川四天王のひとり本多忠勝は、戦場で一度も傷付くことがなかったと言われています。
決して後方にいたわけでなく、最前線で戦っていたにも関わらずです。
それが事実なのかどうかは不明ですが、おそらく元ネタは、中国は唐の武将、尉遅恭(うつちきょう)、字は敬徳です。
敵陣にひとりで飛び込んで行っても無傷で通り抜けたなどという伝説があり、戦場で一度も傷付くことがなかったとされ、こちらは公式記録にも記されています。
隋唐演義が日本に伝わり、本多忠勝の伝説として肉付けされたのではないでしょうか。
戦国時代の男色関係(有名な例)
当時、男色は当たり前で、有名なところでは以下のカップルがいます。
織田信長と前田利家
織田信長と森蘭丸
武田信玄と高坂昌信
上杉景勝と直江兼続(疑惑)
ちなみに信長は12歳の時点で側室がいたとも言われています。
森蘭丸は乱丸と書くのが本来とされ、美少年というより、立派な武者だったという説もあります。
武田信玄については、高坂昌信に送ったとされるラブレターが残っています。
上杉景勝は滅多に笑わなかった。
上杉謙信の養子景勝は、後継者争いなど、若い頃から苦難の日々を送ったため、滅多に笑うことがなく、額には深いシワが刻みこまれていました。
そんな景勝が一度だけ家臣の前で大笑いをしたことエピソードがあります。
飼っていた猿が自分の席に座って、景勝の真似をして指図するふりをしていたときです。
猿を秀吉に見立てたという説もあります。
ちなみに前田慶次が大名たちの集まる宴席に紛れ込み、大騒ぎをし、大名たちの膝の上に乗るなど悪ノリしましたが、景勝にだけは威圧されて座れなかったとか。
大阪の陣の際の真田幸村の容貌
真田幸村と源義経といえば、悲劇的な死を迎えていることから、判官びいきを受け、美形のように捉えられています。
ドラマなどでは美形俳優が演じるのが定番ですが、若い頃はともかく、大阪の陣のときの幸村は、長年の高野山での生活で歯は抜けてボロボロで、肌の色は浅黒くなり、実年齢よりも老けて見えたと言われています。
ちなみに本名は信繁で、幸村という名前は創作されたものだと言われていますが、幸という字は真田家で歴代使われている文字であることから、意識して名乗っていた可能性もあります。
なお、源義経は出っ歯だったという当時の記録があります。
石川五右衛門は百地三太夫の弟子だった?
大泥棒、石川五右衛門の出自には諸説ありますが、伊賀出身で百地三太夫の弟子だったという説があります。
三太夫の妻に手を出したのが見つかり、逃げ出したという逸話もあります。
神出鬼没で身のこなしが軽かったのも、忍者として修行していたからだと考えれば合点がいきます。
なお、石川五右衛門が人気になったのは江戸時代に入ってからです。
秀吉の命を狙ったエピソードが幕府にとって都合が良かったので、歌舞伎などで取り上げられて人気になったのだとか。
三本の矢の故事は創作?
有名な三本の矢の故事があります。
一本なら折れやすいが、三本なら折れにくい……だから、兄弟三人で力を合わせて家を守れと伝えたという内容です。
毛利元就がその子、隆元、元春、隆景の三人に臨終前に伝えたとされていますが、実は長男の隆元は、父元就より先に他界しており、少なくともこの三人に伝えたというのは誤りです。
ただし、隆元の子、輝元が同席していた可能性はあります。
ちなみに毛利家の家紋は一文字の下に丸が3つ並んでいますが、それはオリオン座の三連星を表しているという説があります。
秀吉には指が6本あった?
英雄、豊臣秀吉。
出自については謎が多い人物ですが、右手の指が6本あったという説があります。
前田利家やルイス・フロイスが残した文書にそのような記載があります。
前田利家によると、右手の親指だとか。
先天的多指症という病気は現代でも見られ、珍しいことではないそうです。
秀吉がその指を切り落としたか、切り落としていないかは諸説あり、わかっていません。
仙石秀久を主人公にした漫画「センゴク」でも指が6本あった説を採用しています。
コメント