豊臣秀頼、非実子説の裏付け。秀頼懐妊のとき、秀吉は肥前にいた。

地理・歴史系
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豊臣秀頼が秀吉の子ではないという説は昔からありますが、読売新聞紙上にて磯田道史氏が秀頼非実子説について、新説が出たと紹介されていました。
秀頼の誕生日(永禄二年8月2日、新暦だと8月後半)から逆算して10ヶ月前に、秀吉は唐攻めのため肥前の名護屋城におり、そこで秀吉と淀の方が閨をともにしていないと、計算が合わないことになるとのことでした。
淀の方が肥前名護屋城に来ていたという記録があるらしいですが、それは他家の家臣による記録で、それも身分のそれほど高い人物が記したものではないらしく、淀の方の顔を知っていたかどうかというと、かなり怪しいとのことでした。
逆に豊臣家の公式記録では、別の側室の京極龍子が同行していたと記されているそうです。
そのため、記録者は淀の方と京極龍子を勘違いした可能性が高く、逆に秀吉と淀の方が寝室を共にした可能性は極めて低いとのことでした。
ちなみに秀頼は小柄な秀吉と違い、当時としては桁外れの巨漢だったと言われています。
母方の浅井長政やお市の方が大柄だったと言われていますから、そちらの血を引いたとも言えなくもないですが、はてさて……

非実子説については、これまでいくつもありました。
大野治長や石田三成が父親候補に挙げられています。
私が面白いなと思ったのは、この説だと、秀吉の子でないというのが他の武将たちに一目瞭然であるということと、その後の関ヶ原の合戦で、豊臣恩顧の武将たちが軒並み東軍に着いたことに関して、合理的な説明になると見られることです。
計算が合わないということになれば、いくら秀吉が後継者に指名したところで、不義の子として見られることでしょう。
となると、福島正則や加藤清正でなくとも、西軍に味方する気は萎えてもおかしくありません。
これまで、歴史小説などの影響で、三成が嫌いだからという理由で東軍に着いたと見られがちだった諸将も、納得できる理由で味方しなかったと考えることができます。
この説はもっと掘り下げられていってほしいですね。

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