三国志においてあまり知られていない雑学 赤壁の戦いは痛手ではなかった?

地理・歴史系

はじめに

「三国志」は元々、中国の歴史書です。
これを小説化した「三国志演義」が日本でも広まり、さらには国民的作家吉川英治の手によってさらに面白くされたため、今も根強い人気を誇ります。
英雄豪傑達が生き生きと描かれている上、人間心理などについても考えさせられるところがあり、三国志をモチーフとしたビジネス本まで出るほどです。
漫画やゲームなどについては言うまでもありません。
有名なエピソードが多い三国志ですが、いくつか、雑学を書かせていただきます。

献帝は曹丕より長生きしている。

三国志に登場する後漢最後の皇帝献帝(名は劉協)。
群雄のひとり董卓によって無理矢理皇帝にされたり、曹操によって傀儡として利用され、皇后を殺された挙句、皇帝の位を曹操の息子、曹丕に譲ることになります。
激動の人生を歩んでいますが、実はその曹丕よりも長生きしているのは、あまり知られていません。
曹操一族のことを悪者扱いするため、皇帝の位を譲ったあと殺されるというような演出をする作品もありますが、これはフィクションで、実際は魏の貴族として山陽公に封じられ、そこで天寿を全うしています。
皇帝の一人称である朕を使うことも許されていたとか。
しかも、献帝の子ふたりは曹丕の元に入内もしています。
献帝が亡くなったのは234年のことで、曹丕は226年に肺炎にかかって亡くなっていることから、曹丕よりも長生きしたことになります。

食人シーンがある?

三国志演義の翻訳本を読むと、劉備らが一晩の宿を借りた家の主人が「もてなしをするにも貧しい身には何も用意できない、どうするか?」と考え、妻を殺し、その肉で劉備らをもてなすというエピソードがあります。
別にその男は非難されるわけでもなく、むしろ貴人たちをよくもてなしたと褒められています。
「水滸伝」にも人肉饅頭を食べさせる酒場の亭主などがいますし、「史記」にも彭越という人物が殺されて塩漬けにされたなどという話があります。
「封神演義」には周の王が息子の肉を食わされるシーンがあります。
かつての中国には人間を食べるという習慣があったのかもしれません。

饅頭は諸葛孔明の発明?

蜀の国の軍師として有名な諸葛孔明は三国志最大のスターとでもいえる人物です。
その諸葛孔明が蜀の国の治安を安定させるために軍を率いて、南蛮遠征をしたとき、荒れている川に差し掛かりました。
土地の者に尋ねると生贄に生首を川の神に差し出すとおさまるということでした。
しかし、それを野蛮な風習と思った孔明は、牛や豚の肉で人の首の形を作って供えました。
すると、川は治まり、無事渡れました。
これが、饅頭や肉まんの始まりだとされています。
饅頭に頭という漢字が使われているのはそのためです。
諸葛孔明には他にも農機具やら武器やらをいくつか発明したという逸話もあります。
日本でも聖徳太子や弘法大師由来の発明やら開基の寺が多いですが、同時代の天才による発明にするのはどこの国でも同じということなのでしょう。

赤壁の戦いは魏軍にとって、そんなに痛手ではなかった?

三国志のハイライトというべき赤壁の戦い。
魏軍を呉・蜀連合軍が火計によって壊滅させるシーンは有名です。
この戦いに敗れたことによって、魏が一旦、南への進出を断念したのは事実ですが、それほどの痛手ではなかったという見方があります。
その根拠は、まず魏軍の主だった将軍がひとりも死んでいないことです。
三国志演義では呉に内通したフリをしたふたりの将軍が血祭りにあげられますが、このふたりは架空の人物です。
もうひとつ、この戦いに敗れたあと、曹操は銅雀台という壮麗な宮殿を建てていますが、それについて、税が上がったとか、民から物資を簒奪したなどという記録はありません。
後に魏は蜀を滅ぼした後、司馬一族の晋に国を奪われますが、それによって国力が落ちたわけでもなく、晋はそのあと呉も滅ぼし、中華を統一します。
壊滅的なダメージを受けていたとすれば、そこまでの余裕はなかったはずです。
なお、三国志演義における、諸葛孔明が100万本の矢を集めたエピソードや、神に祈って、風を吹かせたエピソードなどはすべてフィクションです。
三国志演義の作者、羅漢中は元末、明初の人物とされています。
この頃、朱元璋と陳友諒との間で、鄱陽湖で戦いが行われており、同じように鎖で繋がれた船が火で焼かれるということがあります。
その戦いを参考にしたのではないかと言われています。
なお、赤壁の戦いがあった場所は、当時と河川の流れが変わってしまったため、はっきりとわからなくなっています。
蘇東坡が「赤壁の賦」という有名な詩を残していますが、場所が間違っているとか。
しかし、蘇東坡はわかっていて書いたという説もあります。

諸葛孔明は兵法下手?

諸葛孔明について、三国志(演技ではない)の作者陳寿は政治家として絶賛しているものの、兵法家としてはやや厳しい評価を下しています。
北伐による成果が望ましいものでなかったことから、オーソドックスな戦法にこだわり、奇計を使うような柔軟性がなかったとのことです。
しかし、魏と蜀の国力の差などを考えると、仕方がない部分があったのではないかと擁護する声も多いです。



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