織田秀孝という人物は信長の弟のひとりです。
喜六郎という名前も残されています。
生年が1541年頃、没年が1555年とされています。
信長、信勝(信行)とは同母だったというのが有力です。
五男説と八男説があります。
当時は母の身分によって兄弟順が決まることがあったので、このようなことになっていると推測されています。
残されている記録は少ないですが、顔は白粉を塗ったかのように白く、唇は華のようだったと絶賛される美少年でした。
織田信長の家系は美形揃いだったと言われていますので、彼もまたそのひとりだったのかと。
悲劇的な死を遂げた人物はそういう風に書かれがちではありますが。
秀孝については、信長の叔父、織田信次が領内の川で漁をしていたところ(当時、鷹狩と同じような殿様の鍛錬を兼ねたレジャーだった)、ひとりで馬を飛ばしていて、矢で射殺されるというくらいしか記録がありません。
殿様の前であるのに下馬せず通り抜けるのを無礼だと見なされ、信次の部下の州賀才蔵なる人物に討たれました。
なお、信次側は殺した相手が信長の弟だったので、大慌てで城を捨て逃げ出したとされています(後に許される)。
信長の弟で後に信長に叛旗を翻す信勝(信行)は怒って信次の城下町(守山城)を焼き払ったという記録があります。
作家の鯨統一郎氏がこの織田秀孝について面白い説を提唱されています。
※上記の作品中に登場します。
以前、漫画化されて本がコンビニに並んでいましたが、今は古本くらいでしか見つからないようです。
織田信長が1555年頃から突然優秀になるのは、秀孝と入れ替わったのではないかという説です。
つまり、1555年に殺されたのは、秀孝ではなく、実は信長だったと。
うつけ者だったという信長なら、敵地を一騎で駆けていても不思議ではありません。
一連の騒動は秀孝による謀略だったというわけですね。
信次も絡んでいたのでしょうか?
この事件のとき、信次は逃げたものの、信長は「供回りもつけずに一騎駆けするなど軽率である」として不問にしています。
後に信次が許されているのも、殺されたのが信長だったからかもしれません。
この説は秀孝の死の直後から信長が優秀になっていることから生まれた発想かと思われます。
ちなみに1555年頃の信長は、織田本家との争いに勝った頃です。
信勝も謀略に絡んでいたのでしょうか?
秀孝が殺されたとされる直後に城下町を焼き払ってはいますが、それはポーズだったのでしょうか?
最終的に信勝は、林通勝や柴田勝家らと組んで信長に反旗を翻していますが、これは信長ではなく、秀孝だったから、反旗を翻したとも解釈できなくもありません。
林通勝、佐久間信盛ら、長年仕えた重臣たちが後に追放されたのも、秘密を知っていたからと考えられるとも鯨統一郎氏は述べておられます。
飛躍させると、本能寺の変の謎にも繋がるかもしれません。
信長だと思っていた人物が実は秀孝だった……
正当性のない秀孝がなりすましているなら、自分もと明智光秀が考えても不思議ではないかと。
なんの文献的証拠はありませんが、面白い説かと思いますね。
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