かつては歴代天皇のひとりとして数えられていた神功皇后。
日本書紀では一巻まるごとを使って編纂されている人物でもあります。
実在性さえ疑われる謎多き人物ですが、探っていくと、わざと非実在であるかのようにされている形跡が見え隠れします。
その理由は何か……考察してみました。
神功皇后とは?
元の名は息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと・漢字については他の表記もあり)、第14代仲哀天皇の后とされています。
古代の豪族、息長氏の出身とされています。
息長氏は近江国坂田郡(現在の米原市)あたりをルーツにする古代の有力豪族です。
成務天皇40年の生まれで、神功皇后69年まで生きたとされています。
西暦に比定すると170年頃から269年頃の人物となります。
※この換算方法は一例で、実際のところは4世紀後半くらいに活躍した人物と見られています。
夫の仲哀天皇が遠征先で倒れたため、身ごもったまま三韓征伐に赴き、当時朝鮮半島にあった三国を服属させたとされています。
身ごもったままだったので、出産を遅らせるため、月延石と呼ばれる石を腹などに巻き、出産を遅らせたという伝説もあります。
無事遠征を終わらせた後、出産。
このとき生まれたのが後の応神天皇です。
その後、大和へ戻る途中、応神天皇から見て腹違いの兄弟たちが歯向かって来たため、これを討伐。
最終的には、亡くなるまで70年近くに渡って応神天皇の摂政を務めたとされています。
神功という名称について
「神」という文字が使われている天皇は3人います。
初代神武天皇、第10代崇神天皇、第15代応神天皇です。
神武天皇と崇神天皇はカムヤマトイワレヒコという同じ名前を持っており、同一人物ではないかという説が有力です。
応神天皇は先述したように神功皇后の息子です。
いずれも王朝の初代と考えられる人物ですが、これは何を意味するのでしょうか?
実は「神功」という名称は中国では元号として一度、使われています。
他ならぬ中国史上唯一の”女帝”則天武后(武則天)の時代です。
古代の天皇に諡号を送ったのは、淡海御船という人物ですが、このあたりをかなり意識していたと考えられます。
則天武后と懿徳皇太子
則天武后は中宗皇帝の長子、懿徳太子と呼ばれた李重潤を自殺に追い込んでいます。
神武天皇から4代目となる天皇は懿徳天皇です。
神武天皇と崇神天皇が同一人物だとすれば、崇神天皇から4代目の天皇は成務天皇となります。
成務天皇は『日本書紀』によると、5代の天皇に仕えたとされる重臣、武内宿禰(たけのうちのすくね・漢字や読み方は諸説あり)と同日に生まれたとされる天皇で、こちらも同一人物という説があります。
これもまた何を意味するのでしょうか?
武内宿禰は360歳まで生きたという伝説があり、蘇我氏、平群氏、巨勢氏、紀氏、葛城氏などの祖とされています。
そして、この武内宿禰は神功皇后と非常に縁の深い人物でもあります。
武内宿禰と神功皇后の関係
武内宿禰は住吉大神と同一視されることがあります。
なぜなら、住吉大神は神功皇后のことを何度も助けている神様であるからです。
住吉大神は底筒男命、中筒男命、上筒之男命の三柱の神様から成り、住吉三神と呼ばれることもあります。
基本的には航海安全を一番のご利益とする神様です。
筒というのは星のこととされ、オリオン座の三つ星を表しているのではないかという説もあります。
航海をする人々(海人族)にとって、星は目印になる重要な存在です。
大阪市にある住吉大社が総本社ですが、山口県や福岡県などにも摂社があります。
住吉大社には住吉三神とともに神功皇后が祀られています。
関係の深さが伺えます。
この住吉大社に伝わる『住吉大社神代記』という書物に「住吉大神と神功皇后の間に密事あり」という記述があります。
密事というのは、要するに性行為です。
住吉大神と武内宿禰が同一の存在だとすると……
不自然な応神天皇の誕生日
神功皇后の夫である仲哀天皇は九州の熊襲を征伐する途中で崩御(死亡)しました。
九州の地で、神功皇后に神が乗り移り(住吉大神というのが有力)、「熊襲の土地である九州を攻めるより海の向こうの朝鮮半島を攻めよ」という主旨のお告げがされました。
しかし、この神のお告げに従わなかったため、仲哀天皇は崩御されたとされています。
『日本書紀』では熊襲の矢を受けた傷が元で崩御されたと記されています。
一方『古事記』ではお告げを受けた直後、仲哀天皇がお告げにそむくような言葉を発すると灯りが消え、再び灯りがついたときには息をしていなかったといういかにも怪しい記述があります。
なお、その場に一緒にいたのは神功皇后と武内宿禰です。
いずれにせよ、神の怒りに触れたという形で崩御されています。
この仲哀天皇が崩御された日付というのが9月という説と2月5日という説があります。
息子である応神天皇の誕生日は12月14日とされています。
2月5日に崩御されたとすると、12月14日はちょうど十月十日となるわけで、作為的な数字と見られなくもありません。
9月に崩御されたとすると、計算が合いません。
そのため、月延石と呼ばれるものを腹に巻いて戦いを指揮したという言い伝えがあるわけですが……
実在していないと天皇が70年間不在となる?
先述しましたが、神功皇后は70年近く応神天皇の摂政を務めたとされ、死後に応神天皇が即位したとされています。
となると、仲哀天皇の崩御から70年近く天皇が不在だったということになります。
応神天皇とは腹違いの兄たちが即位していた可能性もありますが、彼らはすぐさま神功皇后によって討伐されており、70年も抵抗したわけではありません。
応神天皇が70歳を超えて即位するというのも不自然です。
応神天皇は110歳または130歳まで生きていたとされる天皇ではありますが、70歳になるまで摂政が必要だったのでしょうか?
もっとも「倭人、暦を知らず」という記述が中国の史書にあるようにこのあたりの年数には怪しいところはあるわけですが……
非実在性を高める材料
神功皇后を実在しなかったかのように見せる印象操作が古事記や日本書紀には見られます。
仲哀天皇の父はヤマトタケル
神功皇后の夫である仲哀天皇の父はヤマトタケルです。
モデルとなった人物はいたのかもしれませんが、実在性が低い古代の英雄です。
仲哀天皇は身長が3メートルあったという記載があります。
まったく信じられない数字です。
三韓征伐の成功
戦を指揮して朝鮮半島にあった三国に遠征し、服属させたとという記録があるわけですが、当時の日本の国力からするとかなり難しいです。
神がかり
神功皇后に神が乗り移り、お告げをしたとされているわけですが、このあたりもファンタジー要素が強いですよね。
もっとも、当時は非科学的なものが否定されていたわけではないでしょうが。
長寿すぎる登場人物たち
神功皇后自身が100歳くらいまで生きていたことになりますし、応神天皇は110歳または130歳まで生きたと記されています。
武内宿禰に至っては360歳まで生きていたとされています。
どれも信じられる数字ではありません。
ただし、武内宿禰に関しては、歴代、武内家の当主が名乗った名前ではないかという考え方もあります。
武内宿禰は蘇我氏の先祖でもあることから、蘇我氏三代の事績がまとめられた人物という説もあります。
住吉三神の三という数字も蘇我氏の三代を表しているなんて説も。
どうして、存在をぼやかしているのか? ファンタジー化しているのか?
一番考えられる理由は、もし武内宿禰が応神天皇の父だったとすれば、このときから皇統は女系という見方ができるということです。
武内宿禰の出自が古事記や日本書紀の通りであれば、孝元天皇の血を引いていることになるわけですが、実際のところ海人族の人物と考えるのが自然でしょう。
男系男子が続いているというのが現在の皇統の建前ですから、これは崩せません。
『大日本史』を編纂し、朱子学を重んじて大義名分論にこだわった水戸光圀公は神功皇后の実在を否定しています。
もうひとつ傍証として、弓削道鏡事件が挙げられます。
奈良時代、孝謙・称徳女帝が宇佐八幡宮からの宣託を受けて、弓削道鏡を天皇の位につけようとした事件です。
和気清麻呂によって阻止されましたが、なぜ宣託を授けたのが宇佐八幡宮で、譲位のお伺いを立てたのも宇佐八幡宮だったのでしょう?
奈良の都からはほど近いところに皇祖神を祀った伊勢神宮があるというのに。
宇佐八幡宮の御祭神は応神天皇です。
神功皇后も一緒に祀られています。
当時の朝廷の人間たちは知っていたのでしょう。
自分たちの直接の先祖は応神天皇からであると。
まとめ
成務天皇=武内宿禰=住吉大神、あるいは成務天皇を殺害し、武内宿禰は成り代わったのではないでしょうか。
武内宿禰と神功皇后が共謀し、仲哀天皇のモデルとなった人物をさらに殺害。
向かってきた前王朝の遺児たちを打ち破り、神功皇后と息子の応神天皇とで新たな王朝を開いた……あながち荒唐無稽な話ではないと思います。
しかしながら、古事記や日本書紀をまとめた人たちはそのあたりを認めたくなかったのでしょう。
万世一系という建前を崩したくもないし、女系ということが広まるのもまずい。
そこで、神功皇后周辺の人物たちを超人的な存在に仕立て上げ、実在性をぼやかした……そんなところではないでしょうか。
神功皇后は新羅を討伐しようと九州まで遠征した女帝・斉明天皇がモデルという説もあり、また卑弥呼や天照大神に比定されることもあります。
しかし、このあたりもより神格化することでファンタジー的要素を強め、実在性をぼやかす狙いもあるように見えます。
あくまで資料や傍証から読み解いた説であり、これが正解というつもりはありません。
おそらく考古学的な発見や新資料でも発掘されない限り、証明されることはないでしょう。
ひとつの考察として楽しんでいただければ幸いです。
<参考文献>
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