歴史ネタ「並べて学べば面白すぎる世界史と日本史」から抜粋した雑学

地理・歴史系
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はじめに

「並べて学べば面白すぎる世界史と日本史」という本を読みました。

作者は倉山満氏。
日本の目線から世界の歴史を概観しようとの主旨で書かれたとのことです。
西洋人中心の世界史を我々が常識に知っている日本史と並べてみることで、日本人がいかにノンキな国民だったかを知ることができるとのことでした。
東洋と西洋で、この人物とこの人物が同時代人だったのかと、意外に思うことも多々ありました。
なかなか面白かったので、本書の中から、私が初耳だったことをいくつか雑学として記します。

聖徳太子は外交オンチではなかった?

聖徳太子あるいは厩戸皇子は隋の煬帝に対し、「日出ずる国の天使、日没する国の天使に送る」と一見無礼な書を送っています。
これは当時の国力の差を無視した無礼な書だということで、聖徳太子は外交オンチじゃないかと見る向きがありました。
しかし、この書を送ったからと言って、日本は攻め込まれるなどの制裁を何も受けていません。
隋自体が高句麗遠征に失敗するなど、それどころではなかったからです。
つまり、そのタイミングをうまくはかり、中華皇帝と日本の大王を同列だとアピールすることに成功した聖徳太子は外交オンチどころか、やはり天才だったのではないでしょうか。

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西洋の「暗黒の中世」と呼ばれる時代、絵が平板だった理由

ギリシャ・ローマ時代が終わり、ルネサンスまでの時代を西洋では「暗黒の中世」と呼びます。
文化的衰退でもあった時期で、ローマ時代の美術は立体的で写実的であったのに、この頃の絵は非常に平板で立体感のない肖像画などが描かれていました。
これは、写実的な絵を描くと神様と同じ目を持つ画家ということになり不敬だと言われ、「涜神」という罪に問われるので、わざとそんなふうに描いているとのことです。

室町幕府が室町を政庁にしたのは足利義満から

足利尊氏から始まった室町幕府ですが、京都・室町の地に「花の御所」と呼ばれる館を築いたのは三代目の足利義満からです。
「室町殿」と将軍が呼ばれるのはそれからです。
初代と二代目は三条坊門が政庁でありました。
そのため、正確に言うと、「室町幕府」と呼べるのは三代目の義満からということになります。

ビザンチン帝国では目潰しの刑が多用されていた?

内輪もめの多かったビザンチン帝国(東ローマ帝国)。
710年、日本で平城京遷都が行われた年に時のローマ教皇を暗殺しようとしたラヴェンナ大司教を目潰しの刑に処しています。
捕虜が100人いたら、99人の目を潰し、1人だけ片目を潰して敵地に返して恐怖心を植え付けたなんてエピソードも。
なお、魔女狩りという存在は有名ですが、犠牲になったのは女性だけではありません。
「魔女は男にも化けられる」という理屈で男も犠牲になっていたとか。
この魔女狩りの反省が現在の「推定無罪」の原則につながっているそうです。

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江戸時代にも大宝律令が適用された?

江戸時代、大塩平八郎の乱という事件がありましたが、このとき三歳の次男の処遇をどうするかという問題が起こりました。
江戸時代の法律に幼年者の規定がなかったからです。
しかし、とある学者が701年に制定された大宝律令に7歳以下の子供は死刑にしてはならないという一文を示し、島流しになったそうです。

京都護王神社に狛犬のかわりにイノシシがいる理由

奈良時代、称徳女帝が僧侶、弓削道鏡に天皇の位を譲ろうとする事件がありました。
道鏡が悪人だったかどうかは諸説ありますが、宇佐神宮から「臣下を天皇にしてはならない」という託宣を持ち帰った和気清麻呂を恨み、刺客を送ったという説があります。
このとき、清麻呂はどこからともなく現れたイノシシに守られて逃げることができたとか。
そのため、清麻呂を祀る京都の護王神社には狛犬代わりにイノシシが鎮座しているわけです。

カール大帝が皇帝になったいきさつ

カール大帝はトランプのキングのモデルのひとりとも言われる西洋の偉人です。
彼が皇帝になったいきさつですが、時のローマ教皇レオ三世は守銭奴で陰謀好きな俗物であったため嫌われていて、あるとき町で捕まってリンチにあっていました。
その場を命からがら逃げ出して、結局カール大帝に救われたのでした。
その御礼としてローマ帝国の帝冠を授けようということになったそうです。
800年、サン・ピエトロ大聖堂で戴冠式が行われます。
これによって、フランク王国は西ローマ帝国の後継となったわけですが、結果、東ローマ帝国との外交に苦戦することになります。
東ローマ帝国をなだめるためにヴェネツィアを割譲するなどしたようです。
レオ三世には東ローマ帝国に対抗させる意味合いで無理矢理カールを皇帝にする狙いもあったようです。
それと、これにより、教皇は皇帝より上の存在だと示すことができたわけで、見事にカール大帝は利用されたわけですね。
なお、神聖ローマ帝国の始まりはカール大帝の戴冠した800年とする説とオットー一世が戴冠した962年からとするふたつの説があります。
ただし、「神聖ローマ帝国」という名称が正式に使われるのは1247年のことです。

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醍醐天皇は民間人から初めて天皇になった人物?

光孝天皇の時代、権力を持っていた藤原基経の圧迫で多くの皇族が臣籍降下させられていました。
結果、光孝天皇が危篤に陥ったとき、誰も後継者がいませんでした。
そこで臣籍降下していた源定省(さだみ)を急遽、皇族として復帰させ、後継者となりました。
これが後の宇多天皇で、一度、臣籍降下した人物が天皇となった唯一の例です。
また、その息子である醍醐天皇は、宇多天皇が臣籍降下していた時代に生まれています。
生まれたときは民間人だったわけで、民間人から天皇になった唯一の人物ということになります。
このあとに平将門の乱などが起こっているわけですが、将門が新皇と名乗ったのも、このような前例があったからという見方もできます。

十字軍の遠征は8回行われた?

世界史の教科書などでは十字軍の遠征は7回と書かれていますが、実は1217年の十字軍があまりに失敗したため、ローマ教会はなかったことにしています。
このときの十字軍は連戦連敗でした。
皇帝だったフリードリヒ二世は元々宗教に寛容だったこともあり参加せず、参加した諸侯たちも仲間割れ、無断帰国なんてこともありました。
イスラム側からの申し出を拒否した挙げ句、総攻撃をするも返り討ちにあい、生存者は全員捕虜にされる有様だったとか。

承久の乱は上皇の愛人によるトラブルが原因?

後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒を目指して起こした承久の乱。
この乱の原因のひとつに上皇が幕府に対し、愛人の言い分を認めろと言ったことがあります。
元白拍子の伊賀局という女性は、摂津に二箇所ほど荘園を持っていたのですが、そこを実質支配する役人の地頭が言うことをきかないと上皇に泣きつきました。
話を聞いた後鳥羽上皇は地頭の罷免を幕府に申し出ますが、幕府から見れば、地頭は功績があったものに対して与えた地位ですから、罷免などできません。
そこで、後鳥羽上皇は北条氏を嫌う武士もいるはずだと軍を結成したわけですが、あえなく返り討ちにあい、結果的に隠岐の島に流されてしまいます。
側近たちは無謀だと止めたようですが、後鳥羽上皇が聞く耳を持たなかったようです。

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元寇のとき、鎌倉幕府は主力を温存していた?

鎌倉時代、二度、当時ユーラシア大陸を席巻していたモンゴル軍が攻めて来ました。
これを撃退した鎌倉幕府ですが、モンゴルに負けたのは対馬と壱岐の離れ小島での小競り合いだけで、九州の防衛ラインを守り抜きました。
それどころか、幕府の主力は本州にいて、九州に到着する前に現地の軍だけで撃退してしまったということです。

バルカン半島では6月28日に大きな事件が起こる?

1389年、オスマン・トルコがバルカン半島の諸侯、セルビア、ボスニア、ワラキアの連合軍を撃破します。
1914年、第一次世界大戦のきっかけとなったサラエボ事件もこの日です。
1989年、ユーゴスラビア紛争の呼び水になったとされるミロシェビッチ氏の大演説が行われたのもこの日で、また彼が戦犯法廷に移送されたのも2001年のこの日でした。

明の洪武帝は日本を攻めてはいけない国としていた?

「明史」の中に、明の初代、洪武帝・朱元璋は日本を攻めてはいけない国のひとつに挙げていたそうです。
おそらく、モンゴルが日本に敗れていることがひとつの理由かと思われますが、日本を強国と見ていたのは間違いないようです。
その証拠に、足利義満の後を継いだ足利義持は明との冊封体制を解消していますが、明は無礼をなじりはしたものの、攻め込んではいません。

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中世ヨーロッパで敵国の王を捕虜にしても殺さなかった理由

中世ヨーロッパでは敵国の王を捕虜にしても殺しませんでした。
理由は身代金をせしめるためです。
王ならいくら、貴族ならいくらというような相場もあったようです。
いつの時代も戦争には金がかかりますが、当時はまだ常備軍というものがなく、傭兵や騎士団が中心で、雇うのに金がかかったからだと言われています。
なお、出す兵士数も不文律として決まっていたとか。

ジャンヌ・ダルクが火あぶりになった遠因

百年戦争当時のヨーロッパでは、フス戦争というものも起きていました。
これはヤン・フスという人物が「神の声はどうしてバチカンを通じてしか聞けないのか?」という疑問の声を挙げたことから始まっています。
これはバチカンにとって脅威でした。
バチカンの宗教ビジネスが根底から覆される可能性があったからです。
そこにジャンヌ・ダルクという女性が「神のお告げを直接聞いた」と言ってやってきて、しかも戦で大活躍してしまいました。
まさに危険人物でした。
通常、捕虜になったジャンヌは、身代金を払えば解放されたはずなのですが、フランス側は身代金を支払いませんでした。
シャルル七世も宗教ビジネスについて根底から覆されることを望まなかったのです。
結果、ジャンヌは魔女扱いを受け、火あぶりにされてしまいました。

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最後に

これ以外にもいろいろと興味深いエピソードが満載の本でした。
日本で歴史というと受験の関係で暗記科目のような扱いになっています。
結果、単語だけ知っていても内容を知らないとか、流れをつかめていないことが多々ありますが、この本はその流れを裏側まで教えてくれる本でした。
文章も読みやすく、平易に書かれていました。
興味を持たれた方はぜひ読んでみてください。

電子版もあります。

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