伊賀忍者と甲賀忍者は仲が悪かったわけではない。その実態は?

地理・歴史系
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忍者ハットリくんの影響か、伊賀忍者と甲賀忍者は仲が悪いという印象を我々は持ちがちですが、実態は違ったようです。

伊賀と甲賀の地理関係

三重県伊賀市と滋賀県甲賀市がそれぞれの根拠地となるわけですが、この両市は小高い丘で遮られている程度で実質的につながった土地です。
実際、交流はあった模様です。

同業者としてのライバル意識はあったかもしれませんが、共倒れするような争いまでは行っていませんでした。

実際は小規模な領主だった?

両者ともに諜報活動を生業としていたのは間違いなく、そのための技術は持っていました。

手裏剣やマキビシなどを使っていたのも事実で、屋敷に隠し扉などがあったのも事実です。

ですが、基本的には彼らは小規模な領主にすぎませんでした。
小さな豪族や武士という見方もできます。

伊賀も甲賀も強権的な領主がいなかった土地であるため、自然と小規模な領主たちが時には手を組んだり、時には敵対したりということはあったようです。

とはいえ、物語世界で語られるような派手な忍術を使う存在であったとは言えません。
実際はもっと地味な諜報活動を行っていただけです。

甲賀忍者と伊賀忍者の得意技

甲賀の地は薬草がよく取れる土地であるため、甲賀忍者たちは薬に関する知識を多く持っていました。

現代でも甲賀の地には製薬会社がいくつかあります。
そのため、甲賀忍者たちは薬売りに化けて、各地で諜報活動を行っていました。

対して、伊賀の地は火薬が容易に手に入れられる土地であったようで、火付けなどを得意としていました。

忍者を題材とした物語などで、火遁(かとん)の術と呼ばれる派手な忍術がありますが、似たようなことはしていたようです。

伊賀忍者と甲賀忍者の違い……体制と特徴

伊賀忍者は三大上忍と呼ばれる服部、藤林、百地の三家が権力を持っていて、この三家の方針に従うのが基本でした。

服部半蔵(初代の保長)、藤林長門守、百地丹波(三太夫)の三人が有名ですね。

石川五右衛門は百地丹波の弟子だったが、師匠の妻に手を出して波紋されたという伝説があります。

一方、甲賀忍者は五十三家と呼ばれるほど多くの領主がおり、基本的に合議制でした。

一応、望月家が筆頭だったと言われてはいます。

現在、滋賀県甲賀市にある忍者屋敷は望月出雲守の屋敷跡です。

この望月家は信濃の戸隠系忍者ともつながりがあると言われており、創作作品ではありますが真田十勇士にも望月六郎という人物がいます。

同じ真田十勇士に登場する猿飛佐助のモデルとなったのは甲賀武士である三雲家の人物だったという説も。

忍者の祖である大伴細人(さびと・さいじん)は聖徳太子に仕え志能備(しのび)と呼ばれた人物ですが、この人は甲賀忍者の祖でもあります。

なので、忍術の源流は甲賀流とも言えるわけで、つながりがあるのは当然かもしれません。

伊賀忍者が金で雇われて仕事をこなすタイプだったのに対し、甲賀忍者はそのとき甲賀の地を一応押さえている領主に仕える傾向はありました。

佐々木六角氏、織田信長、豊臣秀吉といった大名ですね。

佐々木六角氏と手を組んでいた時代、足利将軍が攻めて来たのを撃退するのに大活躍し、六角氏から感状を送られています(鈎の陣)。

では、なぜ仲が悪いと言われるようになったのか?

江戸時代以降の物語やそれを元にした忍者ハットリくんの影響が大きいのですが、当然、そう書かれるようになった状況証拠はあります。

織田信長関係

織田信長の息子、織田信雄が三重県北部を治めていた時代、独断で伊賀の地を攻めて大敗しています。

伊賀忍者の名を天下に轟かせた事件であったわけですが、結果、織田家に敵対したため、後に信長率いる大軍に攻められることになります。

結果、伊賀の地は焼け野原となるわけですが、一部の有力者は逃げ出したと言われています。

このとき、当時織田信長に仕えていた甲賀忍者たちは当然信長の味方をしたわけで、これが不仲説が唱えられた理由のひとつです。

豊臣秀吉関係

先述したように甲賀忍者は豊臣秀吉に仕えていた時代もありました。

豊臣秀吉と徳川家康は一時期対立していました。

このとき秀吉の命令で家康の動きを探っていたのが甲賀忍者です。

一方、伊賀忍者はこの頃、徳川家康に仕え、信頼を得ていました。

「神君伊賀越え」と呼ばれる、本能寺の変直後、家康は堺の町から命からがら伊賀の地を越えて三河に逃げ帰る出来事がありました。

このとき伊賀に土地勘がある服部半蔵(二代目の正成・三河出身)が活躍したと伝わっています。

豊臣と徳川は後に和睦し、秀吉の死が訪れるまで平和な状態が続きますが、当然、水面下では探り合いがありました。

当然、伊賀忍者対甲賀忍者による小競り合いもあったことでしょう。

徳川家康関係

徳川家康が天下を取り、江戸時代に入ると家康に仕えていた伊賀忍者は服部家を中心に高待遇を受けるようになります。

それに対し、家康を監視していた甲賀忍者側は冷や飯食いの立場となってしまいます。

江戸時代、生活に困った甲賀忍者たちが武士待遇を幕府に求めたものの、却下されたという記録が残っています。

当然、甲賀忍者側は伊賀忍者側に対して嫉妬心なり、敵愾心が芽生えたことでしょう。

まとめ・権力者による影響と誇張によるもの

伊賀忍者と甲賀忍者の不仲説は権力者たちに振り回された結果、訪れることになった悲劇が元と言えます。

このあたりの事情が後に物語作家によって誇張されたと考えるのが妥当です。

小規模な領主の集まりであるため、時には小競り合いなどあったかもしれません。

同業のライバルとして敵対することもあったでしょう。

ただ、全面的に伊賀忍者と甲賀忍者自体が互いを恨み、争うというような説は根拠がないと見て間違いないでしょう。

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