御落胤の可能性がある歴史上の人物5選+1

地理・歴史系
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歴史上、大きな事業を成し遂げた人物には、実は◯◯天皇の御落胤だったとか、実は◯◯将軍の御落胤だったという説が生まれやすいものです。
その中でも有力と見られているものをいくつか挙げます。

藤原不比等

日本古代史の大政治家であり、今に続く藤原氏の基礎を固めた人物ですが、実は天智天皇の御落胤という説があります。

「尊卑分脈」という文献などに、母の車持氏は元々、天智天皇の愛妾であり、妊娠中の状態で、藤原鎌足に下賜されたと書かれています。

生まれた子が男児なら鎌足に、女児なら天皇に、という賭けのような約束をしたとも。
生まれた男児が不比等だったわけですね。

竹取物語に登場する車持皇子は不比等がモデルとされていますが、母が車持氏出身だからです。

※竹取物語についての雑学は以下の記事をどうぞ。

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平清盛

武士として初めて太政大臣となった平清盛ですが、白河上皇の御落胤だという説があります。

これは「平家物語」にも書かれていることで、母の祇園女御が妊娠した状態で平忠盛に下賜され、生まれた子が男児なら忠盛が、女児なら上皇が引き取るという藤原不比等と同じようなことが行われたとのことです。

藤原不比等のケースと似ていることから、平家物語の作者がエピソードを借用したのか、それとも白河上皇あたりがこのエピソードを知っていて真似をしたのかもしれません。

事実なら清盛の出世スピードが早いのも納得ですが……

後小松天皇および一休宗純

第100代天皇後小松天皇は後円融天皇の第一子とされていますが、実は後円融天皇の皇后および妃たちは、すべて足利義満によって手がつけられていたという説があります。

後円融天皇が36歳の若さで亡くなっているのも、このことにショックを受けて自殺したという説があります。
元々、病弱な方ではあったようですが……

事実なら、後小松天皇は足利義満の子であることになります。
実際、足利義満は後小松天皇の養育に熱心だったと言われています。

なお、とんち坊主で有名な一休さんこと、一休宗純は後小松天皇の御落胤であるという説が有力です。

※一休さんについてはの雑学は以下の記事をどうぞ

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母ははっきりしていませんが、南朝方の血を引く人物であったため、寺に入れられました。
後小松天皇が足利義満の子であるなら、一休宗純は足利義満の孫ということにもなります。

ちなみに足利義満は急死しますが、死後、なぜか朝廷から太上天皇の位を授けられています。
跡を継いだ義持が固辞しましたが、これは朝廷側が天皇の父親だったことを認めているのかもしれません。

斎藤義龍

美濃の国を支配した斎藤道三の息子ですが、母の深芳野は元々美濃国守護である土岐頼芸の愛妾でした。

道三に下賜された際には妊娠していたのではないかという説があります。

義龍は父とされる道三と合わず、結果的に道三を殺すわけですが、そのことを正当化するために義龍自身が作った説だという見方もあります。

また、江戸時代に広まった話であることから、何者かによる創作の可能性もあります。

天草四郎

江戸時代初期、キリシタンを集め島原の乱を起こした天草四郎(益田四郎時貞)ですが、豊臣秀頼の子だという説があります。

豊臣秀頼は大坂城で爆死せず、薩摩へ逃れたという伝説があり、そこで子を残したとされています。
その子が天草四郎というわけですね。

馬印が秀吉と同じ瓢箪であったことなどが傍証とされています。
豊臣家の残党たちが、反乱を起こした四郎に対し、支援などを行ったのかもしれません。

なお、天草四郎にはルソンへ落ち延びたという説もあります

終わりに

中国では秦の始皇帝が商人呂不韋の子であるという説があります。

このようなエピソードが日本に伝わり、偉業を成し遂げた人物は出生に秘密があり、只者ではない、という見方がされるようになったのかもしれません。

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