ナポレオンに関する雑学 三時間しか寝ていないのはウソ?

地理・歴史系

はじめに

数多くの逸話を残すフランス皇帝ナポレオン・ボナパルト。
コルシカ出身の貧乏貴族から皇帝にまで成り上がったものの、結果的に没落してしまった人生は、諸行無常を感じさせてくれます。
逸話の中からいくつか紹介します。

名前をイタリア名で呼ぶと

ナポレオンはコルシカ島の出身ですが、当時はフランス領だったものの、元々はイタリア文化圏であり、イタリア語で会話をしていました。
そのため、兄弟の名前をイタリア風に呼ぶと次のようになります。
長男・ジョゼフ→ジュゼッペ
次男・ナポレオン→ナポレオーネ
三男・リュシアン→ルキアーノ
四男・ルイ→ルイージ
五男・ジェローム→ジローラモ
ちなみにボナパルトはヴォナパルテに近い音になります。
また、ナポレオンがフランスで台頭するまで、フランス人の名前にナポレオンという名は存在しなかったそうです。

白馬ではなくロバに乗っていた。

前足を上げた白馬に乗って、颯爽と峠を越える若き日のナポレオンを描いた有名な絵があります。
「ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト」と呼ばれる、ダヴィッド作の絵です。
ダヴィッドはナポレオンお抱えの画家で、相当ナポレオンを美化して描いていることがあります。
実際、このときのナポレオンは、ロバまたはラバに乗っていたと伝わっています。
別の画家がリアルな絵を残しています。
ちなみにロバとラバの違いですが、ラバというのはオスのロバとメスの馬が交配してできた動物です。

戴冠式の絵の嘘

ナポレオンの戴冠式といえば、ルーヴル美術館に展示されているダヴィッド作の絵が有名です。
ナポレオンがローマ法王から冠を奪い、皇后のジョゼフィーヌにも冠を被せようとしている絵です。
この絵の後方にナポレオンの母が描かれていますが、これはダヴィッドの創作で、実際のナポレオンの母、マリー・レティツィアはナポレオンの皇帝就任に反対していたため、わざと戴冠式に遅刻していて、実際は出席していません。

ナポレオンの発明品

スーツなどの袖に付いているカフスボタンはナポレオンの発明とされています。
兵士たちが鼻水を袖で拭いているのを嫌ったナポレオンが、拭きにくいよう着けさせたとか。
現在も続く、フランス銀行やフランスの民法もナポレオンの発明です。
鉛筆についてもナポレオン時代の発明とされています。
ロゼッタストーンの発見から、エジプトの象形文字が解読できたのも、ナポレオンがエジプト遠征を行った結果です。
軍事や政治だけでなく、あらゆる面で天才だったとも言えます。
ただ、ロシア遠征の際、補給に苦しんだナポレオンですが、瓶詰めによる保存法が発明されたのは、彼が没落した直後とされていて、実に皮肉と言えます。
ちなみにバターの代用品として作られたマーガリンは、彼の甥に当たるナポレオン3世が公募して作られたものです。

身長について……実はチビではなかった?

ナポレオンの身長については、様々な説がありますが、概ね155センチから168センチくらいと言われてます。
いずれにせよ、大きくはありません。
そのため、戦場では常に馬上にいる姿を見せることで、身長をごまかしていたなんて話もあります。
ただ、当時のフランス人の平均身長は160センチ前後だったそうで、その観点から見れば、ナポレオンは決してチビではなかったと言えます。

三時間しか眠っていなかった?

一日に三時間ほどしか寝ていなかったという伝説がある皇帝ナポレオン。
夜はそうだったかもしれませんが、元々、軍人である彼は短期睡眠の名人で、悪条件でも眠れたため、移動中の馬車の中でもよく昼寝していたそうです。
独自の健康法を持っていたと言えるかもしれません。

手紙に泣かされた一生、ラブレターが新聞に掲載され、伝令ミスにも泣く

ナポレオンはエジプト遠征中、妻のジョゼフィーヌに熱烈なラブレターを送っていますが、船がイギリス海軍に拿捕され、手紙の内容がイギリスの新聞に掲載されたことがあります。

そして、ナポレオン最後の戦いとなった「ワーテルローの戦い」。
この戦いの勝利を左右したひとつの要因に伝令ミスがあります。
ナポレオン軍はグルーシーという将軍に別働隊一万を預けていました。
このグルーシーに対し、ナポレオンは当初、敵を追撃したあと、指示があるまで待機、と命令していました。
主戦場であるワーテルローで戦いが始まり、その音がグルーシー将軍の陣地まで聞こえていたそうで、幕僚の将軍たちはグルーシーに戦場へ向かうべきと進言しました。
彼の部隊が来れば、連合軍の側面を突く形となり、ナポレオン軍は勝利できたとさえ、言われています。
ですが、変に生真面目なグルーシー将軍は「指示が来ないから……」と待機したまま動きませんでした。
ナポレオンは伝令を送っていました。
副官を務めていたスルト将軍にグルーシーに伝令を出すよう指示していました。
しかし、このスルト将軍は本来前線の部隊を率いて戦うのが得意で、このときはたまたま他に適任者がいないため副官を務めていたにすぎませんでした。
不得意な分野で悪戦苦闘していた彼は、伝令をひとりしか送っていませんでした。
たったひとりの伝令は、敵に捕まり、指示は伝わりませんでした。
かつて、ナポレオンにはベルティエ元帥という、天才ナポレオンのわかりにくい指示を的確に伝える優秀な副官がいました。
しかし、ワーテルローの戦い時点では、すでに死亡していました。
「ベルティエなら、ダース単位で伝令を送っていただろう」とナポレオンは語ったとされています。
結果、ナポレオンは敗れるわけですが、このグルーシー将軍のほぼ無傷の部隊一万が後のパリ防衛戦で役立ち、連合軍からパリを守るのだから歴史はわからないものです。
ちなみにスルト将軍は、後に歴史上6人ほどしかいないフランス大元帥という名誉職についています。

死についての疑問

セントヘレナ島にて最後を迎えたナポレオン。
その死については、毒殺説が根強いが、公式には胃がんと伝えられています。
毒殺説が語られるのは、ナポレオンの遺髪からヒ素が検出されたからですが、当時は整髪料や家財道具などにヒ素成分が含まれていました。
しかし、ナポレオンの死亡直後の記録と、ナポレオンの遺体がフランスに帰る際に開けられた棺の中の様子があまりにも違うため、遺体がすり替えられたなどという説もあります。
当時、ナポレオンと体型の似たイタリア人のコックがいて、同じ時期に死んでいるとか。
本物の遺体はイギリスに持ち出されたのではないかという説があります。
フランスの研究者たちは、パリのアンヴァリッド(廃兵院、現在は軍事博物館)に眠るナポレオンの棺の中を調査させてほしいと要請していますが、政府側が容認しないことから、さらなる憶測を呼ぶ結果となっています。

子孫はいるのか?

ナポレオンと最初の妻ジョゼフィーヌとの間には子供が生まれませんでした。
ジョゼフィーヌには連れ子がいたので義理の父親になってはいますが、血の繋がりはありません。
子供ができなかったのが、離婚の理由のひとつであるとも言われています。
二人目の妻、オーストリア皇女マリー・ルイーズとの間には男の子が生まれています。
後のナポレオン二世です。
ナポレオン没落後オーストリアに連れ去られ、若くして子を残さず亡くなっています。
母親が他の男に夢中で無視されていて、かわいそうな最後だったとか。
直系はここで途絶えているわけですが、ポーランド人の愛人マリア・ヴァレフスカとの間に子供がいます。
この子孫が今もポーランド国内にたくさんいるようです。
ただ、あくまでポーランド貴族の後継者という位置付けなので、ボナパルト家の後継者を名乗れません。

後のフランス皇帝ナポレオン三世は、ナポレオンの弟ルイの子です。
その妻はジョゼフィーヌの連れ子オルタンスですので、ナポレオン1世にとっては、甥でもあり、血の繋がりはないですが、義理の孫とも言えます。
子孫はイギリスに亡命しましたが、アフリカで戦死し、こちらも後継者がいません。
現在のボナパルト家当主は末弟ジェロームの子孫で、政治活動も行う実業家です。
また、もうひとりナポレオンの愛人で、子を生んだ女性がいますが、この女性にはたくさんの愛人がいたそうで、ナポレオンの子とはわからないとのことです。

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