歴史に関する小ネタあれこれ(日本史編) 浦島太郎=蘇我氏?

地理・歴史系
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はじめに

歴史にはいろいろな雑学がありますが、長文ばかりも読みづらいので、簡潔に説明できるものを小ネタとしていくつか挙げます。

くじ引きで選ばれた将軍がいる。

幕府の将軍選出といえば、厳正に決められるイメージがあります。
または有力な支持者同士の争いがあり、決まるという血塗られたイメージもあります。
しかし、現実にくじ引きで選ばれた将軍がいます。
室町幕府の第六代将軍、足利義教です。
五代将軍、足利義量はすでに死亡していて、当時、実権は四代将軍足利義持が握っていました。
しかし、後継者の指名を群臣に委ねた状態で危篤になったことから、群臣達は石清水八幡宮にてあらかじめくじ引きを行い、義持の死後にくじを開封する仕組みとしました。
義持が亡くなったので、くじを開封した結果、義教の名前があり、選ばれることになりました。
苛烈な性格だったと言われ、暴君だったという評価がありますが、比叡山延暦寺の暴走を抑えたり、大名を統制するなど、近年、やり手だったと再評価される動きがあります。

西郷隆盛について

本名は違う?

隆盛は父の名で、本名は隆永です。
位階を授けられる際に届ける名前を友人が間違えたのですが、その名前で登録してしまったので、以後は隆盛の名で通しました。
なお、弟の従道も本当は隆道ですが、薩摩なまりの発音からか、相手にうまく伝わらず、間違ったまま登録されました。

写真嫌い

写真嫌いだった西郷は写真を残していません。
有名な肖像画は弟や従弟の顔を参考に描かれたものです。
西郷の妻は似ていないと言ったとか。

上野の銅像

西郷の妻は「うちの夫はあんな格好で町を歩かなかった」と語っています。
ただし、狩りと犬は大好きだった模様です。

宮本武蔵について、吉川英治が創作したもの

ヒロイン、おつう

天真爛漫に描かれるヒロインおつうですが、吉川英治が作り上げた架空の人物です。
武蔵の生涯にはあまり女性の影がなく、男色家だったという説もあります。

沢庵和尚との関係

武蔵の精神面を鍛えたとされる沢庵和尚は、武蔵と同時代の人ではありますが、ふたりが師弟関係だったとも、出会ったという記録もありません。

佐々木小次郎について

実在の人物で、巌流島で戦ったのは史実ですが、小次郎が美少年だったというのは吉川英治の創作です。
実際は老人だったようです。
ただ、小次郎の生年ははっきりしていません。
巌流島の正式名称は船島ですが、小次郎が巌流と名乗っていたことから巌流島と名付けられました。

巌流島での対決

武蔵が遅刻したという事実はありません。
しかも一対一の約束が、武蔵が弟子を4人連れてきたという記録さえあります。
養子の伊織などが書いた武蔵寄りの記録では、一対一で対決し、武蔵が木刀で小次郎を倒したと書かれていますが、別の記録では、4人がかりで攻めたとか、武蔵は小次郎を仕留め切れず、最後は弟子たちが気絶した小次郎をよってたかって撲殺したと記されています。
そのため、事実を知った小次郎の弟子たちの怒りを買い、襲われそうになった武蔵は細川藩士たちに警固してもらいコソコソと逃げています。
船島が巌流島と名前を変えられていること自体、小次郎を偲んでのもので、武蔵に正義はなかったということではないでしょうか。

坂本龍馬は誕生日と死んだ日が同じ

幕末の英傑、坂本龍馬。
彼は11月15日生まれで、11月15日に死んでいます。
ただ、当時は旧暦なので、現在の暦で考えると違う日ですが。
龍馬という名前について、当時は動物の生命力にあやかって、名前に動物の一文字をつけることが多かったそうです(後藤象二郎など)。
また、坂本龍馬には明智光秀の末裔という説もあります。
坂本という苗字は、光秀の居城があった近江大津の坂本から来ているとも言われています。
家紋も桔梗です。
土佐を元々治めていた長宗我部氏と明智氏とは親交があり、あながち俗説と片付けることはできません。

浦島太郎=蘇我氏という説がある

蘇我蝦夷 別名・豊浦大臣
蘇我馬子 別名・嶋大臣
蘇我入鹿 別名・林大郎、鞍作太郎
三人の名前から一部を抜粋すれば、浦島太郎となります。
蘇我氏の祖は武内宿禰です。
長生きしたという伝説がある人物で、三代の天皇に仕え、住吉神社ともゆかりがあります。
住吉神社には三柱の神が祀られているということで、三柱ということから、蘇我氏三代ともつながります。
長生きと玉手箱もつながります。
蘇我氏は敗者となったため、悪役とされていますが、さすがに功績までは無視できないので、聖徳太子という神格化されたキャラクターを作り、蘇我氏の功績をすべてそちらにまとめているという説もあります。
また、聖徳太子は天皇だったという説もあります。

邪馬台国と邪馬壹国

女王卑弥呼が治めていた邪馬台国については、三国志魏志倭人伝では「邪馬臺国」と書かれ、後漢書では「邪馬壹国」と書かれています。
現代の表記では邪馬台国と邪馬壱国になりますが、邪馬臺国という表記が古く、史書を書き写す際に字が似ているので、後漢書を写本した人物が、邪馬壹国と書き間違えたのではないかという説があります。
元タレントの上岡龍太郎は邪馬壹国派でした。
この場合「やまいちこく」と読むことになります。
ちなみに邪馬臺国を古代中国語で発音すると「ヤマト」に近い音になるとか。
これが何を意味するかは研究が待たれます。

いろは歌には暗号が隠されている?

いろは歌の発明者ははっきりしていません。
弘法大師説、源高明説、柿本人麻呂説などが有力ですが、定説はありません。
しかしながら、仮名文字をうまく使い、無常観を表すなど、よくできた内容であることから、相当の知識人が作ったのではないかと言われています。
このいろは歌について、暗号が隠されているという説があります。
いろは歌の区切るところを、7文字ずつにしていくと……
いろはにほへと
ちりぬるをわか
よたれそつねな
らむうゐのおく
やまけふこへて
あさきゆめみし
ゑひもせす
このように区切って書き、各行最後の文字を読むと「とかなくてしす(罪なくて死す)」となるので、無実の罪で消された人間の暗号ではないかと推測されています。
ちなみに、柿本人麻呂は刑死したという説があります。
また、源高明は藤原氏の策謀により、安和の変の首謀者とされ、流罪となっています。

忍者の由来は聖徳太子の部下

最初の忍者は聖徳太子に仕えた大伴細人(さいじん、さびと)だと言われています。
この人物が諜報活動などを行い、活躍していたことから、志能備(しのび)と呼ばれ、忍者という言葉につながったとされています。
忍者のふるさと、滋賀県の甲賀には油日神社という神社がありますが、この場所で聖徳太子が花火を打ち上げたという伝説が残されています。
聖徳太子の時代に火薬や花火の類は発明されていませんが……
聖徳太子は弘法大師空海同様、なにかと起源に使われることが多いです。
当時、天才といえば、聖徳太子だったのでしょう。
ちなみに忍者は一体誰に仕えて、独自の技術を磨いていたのかという謎がありますが、皇室に仕えていたという説があります。

オノ・ヨーコの祖先は戦国武将?

前衛芸術家オノ・ヨーコ氏。
ジョン・レノンの妻として、世界で最も有名な日本人とも言われている人物です。
彼女の先祖は九州柳川立花家に仕えた武将、小野鎮幸だと言われています。
由布惟信と共に立花家の双璧と言われ活躍した人物です。
近い先祖は安田財閥の人間だそうで、お嬢様育ちであります。

板垣退助の名字の由来

自由民権運動などで知られる幕末から明治にかけて活躍した人物、板垣退助は土佐出身で、元は乾退助と言いました。
しかし、家系を遡ると武田信玄の家臣だった板垣信方に遡るそうで、官軍の司令官として甲斐国の甲府城を攻める際に何かの縁と、姓を板垣に変えました。
板垣退助といえば、自由民権運動と、演説中に襲われて「板垣死すとも、自由は死せず」と叫んだことが有名です。
しかし、このシーンがあまりに有名なので、まるで暴漢に襲われて無念の死を遂げたかのように思われていますが、このときは手当てを受けて回復しています。
彼が死ぬのはそれから約30年後のことで、しかも自然死です。
襲撃されたときに叫んだとされる言葉も、別の言葉だったとか、別人が語った言葉が板垣の言葉として扱われたという説もあります。

耳なし芳一が琵琶を演奏していた亡霊とは何者なのか?

小泉八雲も取り上げた、怪談話として有名な「耳なし芳一」。
彼は夜な夜な亡霊たちに演奏を聴かせていましたが、その亡霊とは滅んだ平家の亡霊たちです。
安徳天皇の墓の前で演奏していたとか。
芳一のいた寺は平家が滅んだ壇ノ浦がある山口県にあったとされています。
なお、聴かせていた曲は「平家物語」です。
平家滅亡の下りで亡霊たちは涙していたとか。
平家が滅んでいく話であるが、同時に平家の栄華を思い出させ、霊を鎮魂するための物語でもあったのかと思われます。

外国の記録に残る最初の日本人は誰か?

西暦107年、倭国王師升(すいしょう)が中国、後漢王朝に朝貢したという記録があります。
この人物こそが、今のところ、外国の記録に残る最も古い日本人ということになります。
当時の倭が統一国家であったか、多くの国のひとつであったかは不明ですが、九州の王だと考えられています。
ちなみに二番目に登場する人物は卑弥呼です。
ふたりとも個人名なのか、職名なのかは不明です。

鎌倉幕府最後の将軍は誰?

室町幕府や江戸幕府に比べて知られていない鎌倉幕府最後の将軍。
源氏の将軍が三代で終わり、その後は京から貴族が名誉職として呼ばれるだけで、実権を北条氏が握っていたからだと思われます。
最後の将軍は守邦(もりくに)親王です。
8歳で将軍になり、幕府滅亡の年に32歳で退任。
その際、出家しましたが、数カ月後に亡くなっています。
なお、最後の執権は、北条守時です。
守時の妹は足利高氏(尊氏)に嫁いでいるので、義兄弟ということになりますが、滅ぼされるのだから皮肉ですね。

※今後、随時追記予定です。

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