「なんで、そーなるの!」という本を読みました。
2007年に発売された、欽ちゃんこと萩本欽一氏の自伝です。
この本を参考文献に、萩本欽一氏に関する雑学を紹介します(以下、文中敬称略)。
- 萩本欽一プロフィール
- 当初は中学卒業後、大宮デン助に弟子入りするつもりだった?
- 欽ちゃんの師匠は誰?
- 欽ちゃんの所属事務所は?
- 欽ちゃんの家族構成
- 欽ちゃん走りの誕生
- 生CMで19回失敗する
- 「コント55号」を結成
- ゴシップ記事に悩んで、自殺を考えたことも
- 「視聴率100%男」の異名と、休養宣言
- 放送作家集団「パジャマ党」を作る
- 欽ちゃんと前川清との交友関係
- 欽ちゃんと間寛平との関係
- 欽ちゃんとダウンタウンとの関係
- 欽ちゃんが起源とされるもの
- チャップリンと会った最後の日本人
- 24時間テレビとの関係
- 40代で予備校に通う。70代で大学に通う
- 欽ちゃんファミリー
- 欽ちゃんのシネマジャック
- 茨城ゴールデンゴールズについて
- 坂上二郎の死
- 運にこだわる
萩本欽一プロフィール
1941年(昭和16年)東京都台東区南稲荷町生まれ。
父・萩本団次、母・萩本トミ。
六人兄弟の三男で、一番上の兄とは14歳の年の差があります。
上三人と下三人との間は歳が離れています。
実はもう何人か兄弟がいたけれども、幼くして亡くなったか、養子にやられたのではないかと本人は推測しています。
父母ともに四国の出身で、父はカメラの製造と販売を生業としていました。
戦争が激しくなったので、父と長男以外は浦和に疎開。
東京生まれの浦和育ちという形になります。
なお、父は東京で妾さんと暮らしていたそうで、一週間に一回程度しか浦和には来なかったとか。
小学生時代、成績はよく、学級委員を務めるほどでしたが、恥ずかしがり屋で大きな声を出すのが苦手としていました。
優等生タイプだったようで、今思うとつまらない子供だったと本人は語っています。
小学4年時に東京の家に戻りますが、この頃から父の事業が傾きかけていて、生活が貧しくなっていきました。
税務署や借金取りが家に再三やってくるようになりました。
中学時代、母が借金取りに土下座をしている姿を見て、金持ちになりたいという強烈な意識を持つようになりました。
森繁久彌の家が大豪邸であるのを見て、「これだ!」と思い、喜劇役者を目指します。
高校卒業後、浅草の東洋劇場に入り、そこで池信一や東八郎の薫陶を受けます。
初めはあがり症で、セリフをトチることが多く、一時は「コメディアンに向いていないかも」と考えます。
ですが、まわりからの支援もあり、徐々に芸事が上達。
後に坂上二郎とともに「コント55号」を結成。
舞台狭しと走り回る芸が評判を呼び人気急上昇。
最盛期には一週間に出演している番組の視聴率を足せば100%を超すということで「視聴率100%男」と呼ばれるようになりました。
その後は45歳でテレビの第一線からは去りますが、劇団を作ったり、野球のクラブチームを作ったり、大学に通ったり、長野オリンピックの開会
式の司会をこなすなど、話題を今も届ける超一流のエンターテイナーです。
当初は中学卒業後、大宮デン助に弟子入りするつもりだった?
早く母親を楽にさせてやりたいと考えていた萩本は、中学卒業後、デン助(大宮敏充)に弟子入りを志願しますが、「高校卒業してからおいで」とやんわりと断られます。
そのため、高校に行くことにしたのですが、実は高校に行くつもりがなかった萩本は、都立高校を受験したふりをしてすっぽかし、親には「落ちた」と言っていました。
新たに高校を目指すと言っても、学費の安い都立高校の受験は終わっていたため、私立高校を受験するしかありませんでした。
結果、私立駒込高校に合格します。
校則で革靴を履かないといけなかったのですが、家にあったのは靴先が歩くとパカパカと開くようなボロボロの革靴でした。
恥ずかしさのあまり、新聞配達などのアルバイトを始め、やがては授業料も自分で稼ぐようになりました。
高校卒業後、デン助のもとに向かおうとしますが、周囲から、デン助さんは忙しいから無理じゃないかというようなことを言われます。
それならば……とツテがあった浅草の東洋劇場入りを選びました。
欽ちゃんの師匠は誰?
当初は東洋劇場のスターだった池信一の元で修行に励んでいます。
しかし、池信一が東洋劇場から去ることになったので、そのあとは東八郎から指導を受けています。
東八郎はそれまで浅草の師弟関係にあった暴力的な風潮を一掃したと萩本から絶賛されています。
欽ちゃんファミリーは、安易なダジャレと下ネタを厳禁としています。
これは東八郎から「ダジャレと下ネタは素人さんのものだから、芸人は使ってはならない」と教えられたからです。
ちなみに、浅草全体の師匠とも言うべき、深見千三郎からも指導を受けているようです。
深見千三郎はビートたけしの実質的な師匠としても有名です。
他にも放送作家のはかま満緒からも指導を受けています。
欽ちゃんの所属事務所は?
元々、「浅井企画」に所属していましたが、マネージャーの佐藤氏が独立するのを機に「佐藤企画」に所属。
また「萩本企画」という個人事務所を持っています。
もちろん、業務提携している事務所です。
欽ちゃんの家族構成
奥さん(澄子さん)は浅草で萩本の面倒を何かと見てくれた年上の踊り子さんです。
踊り子(ストリッパー)であったことを奥さんは気にしていて、萩本が売れてからは姿を見せないようにしていました。
しかし、見つけ出して、萩本から結婚を申し込みました。
萩本は売れてからしばらく結婚していることを内緒にしていたため、結婚していることを発表する際には引退を覚悟していました。
「隠し妻と隠し子発見」などと書かれたら嫌だと思っていたそうです。
しかし、マスコミ側はそんなことをすでに知っていて、会見の際には拍手をもらうことになりました。
なお、子供は3人いて、長男は一童(いちどう)、次男は越史(えつし)、三男は征九郎(せいくろう)と名付けられています。
三男は仮死状態で生まれて来たそうで、障害が残る可能性もあったそうです。
苦労を征服してほしいということで、征九郎と名付けたとか。
奥さんは2020年に病気で亡くなられています。
萩本は子育てを奥さんに任せていましたが、「コメディアンになりたいというような子供にはするな」とだけ、お願いしていました。
欽ちゃん走りの誕生
いわゆる欽ちゃん走りは、元々、東八郎が舞台で使っていたものでした。
これをテレビに出演した際、萩本が真似をしたら話題になり、いつしか「欽ちゃん走り」と呼ばれるようになりました。
生CMで19回失敗する
若かりし頃、公開放送の歌番組の最中、生CMを任された萩本ですが、あがり症が出て、わずかな時間の間に19回もトチるという失敗をしています。
このため、一時期テレビから去り、しばらく浅草に戻っていました。
「コント55号」を結成
一時期、熱海のホテルで専属のコメディアンとなっていた萩本は、新しいコントのネタを思いついたことで、再び浅草への帰還を決意。
浅草の下宿に帰ると、たまたま「麻雀でもしないか?」と電話してきた坂上二郎と意気投合。
コントを一緒に演じようという話になり、1966年、「コント55号」が結成されました。
「コント55号」という名前は、王貞治選手が当時の年間記録である55号ホームランを打ったことから思いついたそうです。
実は萩本は坂上二郎に対して、当初あまりいい印象を持っていませんでした。
坂上側にライバル心があったのか、萩本が舞台上でボケようとすると、妨害するような動きをされていたそうで、やりにくいなと思っていたそうです。
ですが、ふたりで舞台に出てみると意外と息がピッタリと合うので思い直したとか。
当時、仲の悪いコンビが多かったらしく、あまりに互いを知りすぎて一緒に行動していると、かえって仲が悪くなるとふたりは考えました。
そこで、普段はあまり交流せず、舞台でだけ出会い、互いをライバルと見て、ぶつかって行く方針としました。
そのため、当時、「コント55号のふたりは仲が悪い」なんて言われることもありました。
実際はろくに稽古をしなくても、流れだけでコントが演じられるほどの関係だったそうです。
ゴシップ記事に悩んで、自殺を考えたことも
有名になってくると、週刊誌などのネタにされることが多くなりました。
ある日、記者が連れてきた女優と一緒に麻雀を一晩中していたら、「女優◯◯、欽ちゃん宅から朝帰り」と、その記者に書かれました。
しつこい記者を追い返したら、「萩本に殴られた」なんて書かれたことも。
当時、急激に売れたコント55号に対するやっかみがあったようです。
これらの記事に悩んだ萩本は精神がおかしくなり、「死んで抗議してやる!」と、あるとき熱海近くにある自殺の名所にまで行き、崖の上に立ったそうです。
しかし、いざ、崖の上に立ってみると怖くなり、当時世話になっていた女性プロデューサーや母親の顔が思い浮かび、なんとか衝動を止めることができたとのこと。
「視聴率100%男」の異名と、休養宣言
「欽ちゃんのドンとやってみよう!(欽ドン)」「欽ちゃんのどこまでやるの!(欽どこ)」「欽ちゃんの週刊欽曜日」の視聴率を足せば、100%を超えたことから、「視聴率100%男」の異名を取ります。
特に欽ドンはドリフの全員集合の裏番組であったため、苦戦が予想されましたが、一時は全員集合の視聴率を超えることもありました。
それ以外にも「オールスター家族対抗歌合戦」の司会や、「スター誕生」の司会もこなしていました。
この頃、素人いじりというスタイルを作り上げたと言われています。
しかし、1985年、休養宣言をし、第一線から去ります。
「夢を実現して、頂点にいるのはつまらないと思った」と著書には書かれています。
人気を維持するのに疲れたという説もあります。
放送作家集団「パジャマ党」を作る
アメリカの「エド・サリヴァン・ショー」のような自分の名前の入った冠番組を作りたいと考えた萩本は、自分ひとりで及ばない部分は誰かに作らせれば良いと考え、テレビ局にいる高学歴のスタッフを誘い、放送作家の集団を作りました。
住み込みで修行をさせたから、皆がパジャマを持って来たため「パジャマ党」と名乗らせました。
出身者としては、大岩賞介が有名です。
萩本が直接教えたのは、麻雀と将棋だけらしく、あとはスターの行動を見て勉強しろという内容だったとか。
欽ちゃんと前川清との交友関係
「スター誕生」の司会をしてはいましたが、当時は芸人が歌手に話しかけたり、ネタを振ったりするのはタブー視される時代でした。
歌手に無茶振りをしては相手のマネージャーに怒られるというのが日常でした。
しかし、前川清は気さくな人柄だったらしく、「欽ドン!」にも出演してもらい、以後、芸能界一の友人としての関係が続いています。
ふたりとも競馬好きで競走馬も所有しています。
欽ちゃんと間寛平との関係
間寛平とは家族ぐるみの付き合いがあります。
元々、寛平の奥さんが熱狂的な萩本のファンでした。
寛平が吉本をやめて東京に行くと決心したとき、萩本のところへ行けと勧めたとか。
当時、寛平はアメマバッジという商品を作って儲けようと思ったものの大失敗。
ギャラの安い大阪の舞台ではなく、東京に出て稼ぎたいと思っていました。
吉本を嫌ってのことではないため、吉本にそのまま所属するなら面倒を見てやると約束(そもそも、寛平は吉本に東京支社があることを知らなかったという説あり)。
その後、萩本の番組に出演したのをきっかけに、寛平は東京でも人気者になっていきます。
萩本は追っかけをしていた時代の寛平の奥さんのことを覚えていたそうです。
ですが、このとき昔のツテを狙って一緒に頼みに来なかった奥さんを絶賛しています。
なお、寛平にはたけし軍団に入るという話もありました。
しかし、当時、ビートたけしの運転手をしていた芸人が関西出身だったらしく、「尊敬する先輩の寛平さんが同じ立場になるなんて嫌です」と言われ、断念したと言われています。
欽ちゃんとダウンタウンとの関係
まだ人気が出る前のダウンタウンを萩本は番組に呼び、起用しました。
しかし、番組そのものが不人気で、特に話題にもならず終わりました。
その際に「君たちはこれからブレイクするから心配しなくていい」とダウンタウンに伝えました。
事実、そのあと関西で急激に人気者となったため、ダウンタウンのふたりは萩本の眼力に驚きました。
ちなみに、ダウンタウンは「欽ちゃんの仮装大賞」に一参加者として出演したこともあります。
内一回は予選落ち、もう一回は本戦に出場しましたが、かろうじて合格点という結果でした。
欽ちゃんが起源とされるもの
アシスタント
スター誕生の司会をする際、自分ひとりでは不安だったため、しっかりと司会ができる女性をパートナーにつけてほしいと言ったのが、番組アシスタントの初めと言われています。
天然(ボケ)
ジミー大西の言動を見た萩本が「あれが計算されての行動ならチャップリン以来の天才だ」と感じ、ふたりだけで話をしました。
しかし、「天然だったんだね……」と落胆。
これが天然ボケの由来だと言われています。
あっち向いてホイ
スター誕生のコーナー内でじゃんけんをするコーナーがあり、これをきっかけに「あっち向いてホイ」という言葉が広まります。
ドリフでいう「最初はグー」のようなものですね。
野球拳
野球拳自体は愛媛松山に伝わるものですが、これをじゃんけんに負けたら服を脱ぐという形にしたのが、萩本の番組「裏番組をぶっとばせ」でした。
野球拳ばかりが話題になるので、萩本はこの番組を嫌っていました。
なお、萩本を尊敬するダウンタウンが同名タイトルで、大晦日に紅白歌合戦の裏番組で大規模な野球拳大会をしたことがあります。
番組名はそのまま「裏番組をぶっとばせ」でした。
ウケる
笑いを呼ぶことを「ウケる」と言いますが、これは「欽ドン!」に届いた視聴者からのネタを「ややウケ」「バカウケ」などと選別していたことが全国的に広まった理由とされています。
チャップリンと会った最後の日本人
1971年、番組の企画で、喜劇王チャップリンが隠居生活をしていたスイスの古城を訪問しています。
ガードマンに再三追い出されましたが、4日目に騒ぎを聞いたチャップリンが城から出て来たことで、会うことができました。
チャップリン自体は日本人をマネージャーに雇っていたほど、親日家でしたが、金銭目的などで胡散臭い連中が再三城を訪れて来るため、ガードマンたちは追い返すよう指示を受けていたのです。
なお、萩本は日本人として最後にチャップリンに出会った人物とされています。
24時間テレビとの関係
1978年、チャリティー番組「24時間テレビ 愛は地球を救う」のパーソナリティを務めます。
当時、決してストイックな生活をしていたわけではなく、やりにくかったと語っています。
番組を始めた手前、生活を少し改めることになりました。
初めは嫌だと思ったこの番組ですが、車椅子の子供と関わったのをきっかけに考えを改めます。
また、自分の三男に障害が残る可能性があったことから、番組への意識が変わったとか。
俗説ですが、テレビ局が提示するギャラの額を限界まで吊り上げて、その額をまるごと寄付したという逸話があります。
40代で予備校に通う。70代で大学に通う
40歳になったとき、自分が大人のような言葉を喋っていない、恥ずかしい、と考えた萩本は河合塾に通い、受験生たちと一緒に勉強します。
しかし、まわりの生徒たちが萩本のことを気にして、河合塾側がやりにくかったらしく、個人レッスンを受けるようになります。
このときは大学入試を受けませんでしたが、2015年には認知症対策のため駒澤大学に入学します。
欽ちゃんファミリー
萩本の番組から人気になった芸能人たちは欽ちゃんファミリーと呼ばれます。
ただ、いずれも事務所の後輩だったり、俳優などの別分野から呼んだ人たちで、弟子だったわけではありません。
萩本が弟子と認めているのは、車だん吉と、斎藤清六くらいです。
斎藤清六は仕方なく弟子としてやっているとのことですが……
主なメンバーは以下のとおり。
欽ドン
前川清、志賀勝、イモ欽トリオ、柳葉敏郎、志穂美悦子、気仙沼ちゃん
欽どこ
関根勤、小堺一機、わらべ、見栄晴、斎藤清六、真屋順子、細川たかし
※真屋順子はテレビ番組で「私と欽ちゃんを本当に夫婦だと思っていた人がいる。失礼でしょ」と発言していたことがあります。
週刊欽曜日
風見しんご、小西博之、佐藤B作、清水由貴子
その他の番組
車だん吉、はしのえみ、CHA-CHA、間寛平
※CHA-CHAは最終的に5人に落ち着きますが、元々、所属事務所の垣根を超えて集められたグループでした。
若き日の草なぎ剛と木村拓哉が一時所属していたことがあります。
欽ちゃんのシネマジャック
日本映画や舞台に勢いがないと考えた萩本は、映画撮影に手を出します。
実験的な手法が取られ、「1本15分の短編を5本」「1本300円。客は見たい本数だけ自己申告して金を払う」というシステムが取られました。
興行的には失敗だったようですが、ブルーリボン賞特別映画賞を受賞しています。
映画会社側もこの手法では稼げないと承知の上で、萩本の夢に乗ったそうです。
俳優たちも萩本の心意気をうれしく思い、手弁当で参加しました。
それでも少しのギャラを払おうとしたら、「欽ちゃん、そんなことするなよ」と受け取りを拒否されたとか。
このとき、斎藤清六が1000万を持って萩本の前に現れ、これでチケットを売ってくださいと言って来ました。
「この金は大将が稼がせてくれた金です」と涙して訴える斎藤清六に、萩本も涙したとか。
茨城ゴールデンゴールズについて
メジャーリーグで日本人選手が活躍しているのを見る一方、日本のプロ野球に元気がないと感じた萩本は、自分で野球チームを作り、関わっていくことをひらめきます。
2005年、茨城を本拠地に茨城ゴールデンゴールズを旗揚げします。
自らを「欽督」と呼ばせ、試合中に派手なマイクパフォーマンス。
女子選手や芸能人も参加させる方式が話題と人気を呼び、各地で有名人がクラブチームを作るきっかけとなります。
しかし、2006年にチームの一員だった極楽とんぼの山本圭一が、遠征先の札幌で未成年の少女に暴行する事件を起こしました。
このため、一度はチームの解散を表明するのですが、存続署名活動が行われるなど、存続を望む声が多かったことから、解散を撤回。
チームはなんとか存続します。
ただし、チームの監督は2010年に勇退しています。
坂上二郎の死
2011年3月10日、相方だった坂上二郎が脳梗塞で亡くなります。
76歳でした。
翌日、東日本大震災が起こります。
立て続けに衝撃を受けた萩本ですが、3月13日に那須塩原で行われた葬儀に、交通事情が地震で悪化している中、たどりつきます。
「死んだ日が二郎さんらしかったよね。ちゃんと報道してもらうためには、ギリギリのタイミングだったんだもん」と、後に語っています。
運にこだわる
萩本は運という言葉をよく使い、こだわります。
人間の運と不運は半分ずつで決まっていると語り、調子に乗りすぎないようこだわっているとか。
不運なときは運を貯金していると考えようと実践しているようです。
苦手な司会の仕事をたまたま引き受けたら、下手で進行どおりにできないので、女性アシスタントが付くようになり、その手法が新しいと話題になったことなどを例に挙げています。
参考文献
※本に書いてあった以降のことは、ネット上の情報などを元に作成しました。
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