「ゆめいらんかね」やしきたかじんに関する雑学 素顔は繊細な人?

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はじめに

表題にもあげました「ゆめいらんかね、やしきたかじん伝」という本を読みました。


歌手、タレントとして人気だったナニワの高視聴率男、やしきたかじんさんの素顔に迫った本です。
作者は角岡伸彦氏。
小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞しています。
この本の内容に沿って、やしきたかじんさんに関する雑学を列挙します。
(以下、文中敬称略)

やしきたかじんのルーツは?

1949年10月5日大阪市西成区生まれ。
男ばかりの四人兄弟の次男です。
しかし、本人は一時期、西成区生まれを隠し、天王寺区出身とプロフィールに書いていた時期があるそうです。
父は中小企業の経営者で、羽振りのいい時期もあったかと思うと、倒産して苦しい時期もあったとのことです。
本名を漢字で書くと家鋪隆仁。
本来、名付け親の易者は「たかひと」と名付けたました。
しかし、父親は「皇室と同じ漢字や読み方を使うなんておこがましい」と読み方を「たかじん」にしたと伝わっています。
ですが、実際に届けられた名前は「たかじ」であることを死後、弟が明らかにしています。
「たかじん」というのは、本人が作った芸名であるそうです。

両親について

父は権三郎という名前で厳格な人物であったとか。
暴れん坊のイメージが強いたかじんですが、歳を取ってからも、父の前では脚も崩さず、敬語で話していたとか。
歌手になることに反対し、勘当されたそうですが、売れていない頃、実家から援助を受けていたとも言われています。
晩年は和解したようです。
母の光子は踊りの名取で陽気な人だったらしく、たかじんは外見も母親に似ているとのことです。
なお、父親については、日韓併合時代に日本へ渡って来た韓国人であるようです。
たかじんはハーフとなるわけですが、出自に少しコンプレックスがあったようです。
時代背景から両親は籍を入れておらず、家鋪は母方の姓で、戸籍上では母の私生児という形になるそうです。

少年時代

南海沿線に住んでいたため、南海ホークスのファンで、野球少年だったとのこと。
中2のときにラジオで聴いたコニー・フランシスの「ボーイ・ハント」という曲に感銘。
この曲です↓

ファンクラブに入り、英語でファンレターを書くため、英語塾にも通ったそうです。
この頃から、自分の思いを実行する行動力があったようです。
兄がアメリカン・ポップスの愛聴家であったため、一緒にレコードを聴き、歌を歌っていたところ、なかなか歌がうまいなと褒められ、ドラムを習い始めました。
しかし、堅物の父に殴られ、楽器は捨てられたとのことです。
ですが、音楽家になる夢を捨てたわけではなく、中3のとき、街中でプロ歌手を目指す人向けのオーディションが行われるというポスターを見て、これに参加。
見事、月間チャンピオンに選ばれます。
次はグランドチャンピオン戦で、優勝したらプロデビューというところでした。
しかし、生バンドの演奏がカラオケの演奏とは違いすぎて戸惑い、十分に歌うことができず、敗退する結果となりました。

高校時代

私立桃山学院高校に進学。
公立の進学校を受験したものの、落ちたとのこと。
同級生には堀内孝雄が、先輩には谷村新司がいました。
たかじんは入学当初、新聞記者や小説家を目指しており、新聞部に所属。
かなり遠くまで取材に行くなど力を入れていました。
ただし、かなり無茶な取材もしたようで、最終的には廃部に追い込まれたとか。
後に友人がギターを弾いているのを見て、自らも弾くようになり、友人らとフォークソングサークルを作ります。
高3のときには友人と共同で作った曲をテレビ番組に投稿、見事採用され、プロ歌手に歌ってもらい、一躍校内で人気者になったということです。

大学時代

桃山学院大学に内部進学。
他の大学も受験しましたが、落ちたということです。
1年間だけ在籍し、再度、他の大学を受験。
最終的に合格した龍谷大学に進学。
京都での下宿生活を始めます。
京都東山にあった三畳一間のアパートに下宿。
狭い部屋でしたが、仲間たちと金を出し集めて買ったアップライトピアノを置いていました。
京都で下宿を始めたのは、歌手を目指すことに父が反対し、半ば勘当された形で追い出されたとのこと。
その割には実家に頻繁に帰り、援助などはしてもらっていた面もあるそうですが。
大学時代はフォークソンググループを結成。
ラジオに出演したことも。
この頃、ハンバーガーショップを拠点に歌手活動をしていました。
また、祇園のクラブなどで、流しの歌手としても稼いでいたようです。
余談ですが、テレビ番組で「たかじんを泣かせよう」という企画があり、この時代のことをまとめた映像を見せられて、たかじんが号泣していたことがあります。
なお、龍谷大学には6年在籍したものの、卒業できず中退しています。

笑福亭鶴瓶との出会い

京都時代、たかじんは生涯の友人となる落語家の笑福亭鶴瓶と出会っています。
歳はたかじんより2つ下でした。
ラジオ局で出会ったとのこと。
鶴瓶はすでにラジオのDJとして、京都で人気が出始めていました。
たかじんもラジオ番組に時々出演していたところ、才能を見込まれDJをすることになりました。
しかし、当時はしゃべりが下手で、段取りも悪く、番組にならなかったとのこと。
そこで、ラジオ局の人間が桂米朝の落語のレコードを貸したところ、しゃべりのテンポをつかむようになったという逸話が伝わっています。
なお、京都のラジオでは「頭の悪い女子高の名前」を出すといった過激な発言があり、しばらく出入禁止となったそうです。
しかし、その後、大阪の人気番組「ヤングタウン」に出演するようになり、人気は高まったとか。

妊娠させて結婚、そして東京に逃げる

ハンバーガーショップに歌を聴きに来ていたOLの女性といい関係になったものの、相手が妊娠してしまいました。
結婚したものの、この頃のたかじんはまだ歌手を目指す大学生。
逃げたかったのか、歌手になるには東京に行かねばと語り、しばらく、東京で活動したということです。
しかし、歌手活動に失敗して京都へ帰宅。
何事もなかったかのように奥さんの元に戻りました。
ちなみにふたりの間には娘が生まれています。
ふたりは残念ながら、後に離婚。
奥さんは若くして亡くなったそうです。
ただ、娘とは晩年まで親交がありました。

レコードデビュー

キングレコードの社員がラジオ局の知り合いから、「酒を飲んで暴れるが、歌のうまい歌手がいる」と聞き、祇園を訪問。
たかじんの弾き語りを聴いたところ、歌のうまさに感動。
すぐさまスカウトされ、レコードデビューにつながります。
ただし、たかじんはその際、デビュー曲はシングルではなく、LPレコードにしてくれと提案(通常新人のデビューではありえない)。
収録されている曲はすべて高校の同級生が作詞し、たかじんが作曲した曲でした。
デビューアルバム「TAKAJIN」がここに誕生、その中から「ゆめいらんかね」という曲がシングルカットされます。
大ヒットとはいかなかったものの、この曲を聴いた宝塚歌劇団の鳳蘭から、自分の舞台の曲を作ってくれと提案されます。
曲を提供しただけでなく、男として初めて宝塚歌劇団の舞台を踏む経験もしています。

一時、引退を決意したが……

デビューアルバムもセカンドアルバムも一部では評判だったものの、ヒットにはつながりませんでした。
たかじんは芽が出ないことにあきらめを感じ、一時引退を申し出します。
最後の舞台として、フェスティバルホールで開かれた「大阪大衆音楽祭」に出演。
ところが、引退の舞台に選んだこのコンテストでなんとグランプリを獲得。
プロデューサーがレコード会社幹部に頼み込んだこともあり、歌手を継続することになりました。
なお、このとき司会をしていたのは浜村淳だそうです。

再び東京へ

グランプリを獲得したたかじんは、海援隊やアリスが所属していた「ヤングジャパン」という事務所に入ります。
しかし、仕事は相変わらず、祇園などのクラブで歌う毎日……
そこで一旗上げるにはやはり東京だと、再び東京へ向かいます。
今度は事務所に所属して、マネージャーもいる状態だったので、勝算があってのものでしたが、与えられた仕事はラジオDJや司会業ばかり。
つまり、タレントとしての扱いでした。
失望したたかじんは2年で東京での活動をあきらめ、関西に戻ります。
なお、この頃、たかじんが出演していたラジオ番組の構成作家をしていたのが秋元康です。
作詞家を目指していると告白し、たかじんに自作の歌詞を見せたところ、めちゃくちゃにけなされています。
しかし、後に大ヒット作を連発するのは周知のとおりで、たかじん自身もこのときのことを散々ネタにしています。

ガンダムの主題歌を歌う

1981年、アニメ「機動戦士ガンダム」が映画化されるにあたり、たかじんが主題歌「砂の十字架」を歌うことになります。

谷村新司が作詞、作曲したこの曲は、ガンダム人気も相まって、10万枚以上を売り上げる大ヒットとなります。
しかし、ジャケットにはアニメの絵が描かれているだけで、たかじんの名前こそ書いてあるものの、顔写真一枚ありませんでした。
キングレコード側からすれば、たかじんを売り出すための仕掛けだったようですが、たかじん自身にとっては大変不満であったそうです。
なお、このあとキングレコードを辞め、ビクターに移籍しています。

個人事務所設立

1983年、たかじんはP・I・S(パブリック・インフォメーション・スタイル)という個人事務所を設立します。
当初は営業成績も芳しく無く、父親から援助を受けるなどして維持していたとか。
この頃、毎日放送の幹部と会食したたかじんは「大阪では歌がうまいだけでは売れないぞ」と言われ、改心します。
以降、仕事の選り好みをやめ、テレビやラジオにタレントとして、立て続けに出演します。
例えば、台風の日に北新地の店が営業しているのかどうかを自ら確かめに行き、ラジオのネタにするなどしていました。
自ら確かめることで説得力を持たせられるということです。
結果、歌手としてはともかく、タレントとして大人気になり、ラジオだけでなく、テレビにもレギュラー番組を持つようになります。
全盛期には昼の時間に帯番組を持ってもいました。
この番組「晴れときどきたかじん」は昼の時間帯にも関わらず、最高視聴率19.8%という記録を達成しています。
出演者としてだけでなく、番組制作にもこだわって参加していたそうで、他の製作スタッフらと喧嘩になることが多々あったと伝わっています。

日本放送演芸大賞ホープ賞を受賞

1987年、優秀なタレントに送られる日本放送演芸大賞のホープ賞を受賞します。
完全にタレントとしての扱いでした。
ちなみに大賞は明石家さんま、最優秀ホープ賞はダウンタウン。
ホープ賞受賞者は他に四代目桂三木助、ダチョウ倶楽部です。

歌手としての活動

ビクターに移籍したたかじんは「ラヴ・イズ・オーヴァー」のカバーを歌います。
当時、様々な歌手が同じ曲をカバーして競うのが流行していました。
その中でもたかじんのバージョンが一番いいねという評価を受けます。
また、「あんた」という曲をヒットさせています。
しかし、元奥さんが病気で亡くなったあとはこの曲を歌わなくなりました。
歌詞に元奥さんをなぞらえていたようです。
そんな中、作られた曲が「やっぱ好きやねん」。
後にリバイバルヒットもするこの曲はたかじんの代表曲にもなります。
この頃からコンサート会場が満員になるようになりました。

またまた東京へ。有名な「味の素事件」

1992年、関西での人気を不動のものにしたたかじんは再び東京へ向かいます。
今度はタレントとして知名度を上げ、そのあと歌手としても売るという作戦でした。
しかも、始めから有名番組の出演も決まっていました。
しかし、結果として半年後にはすべてのレギュラーを降板して関西に帰っています。
理由としては、東京の番組は台本の縛りがきつかったことや、スポンサーの意向が強かったことから思い通りに動けず、苛立ちを感じていたと言われています。
司会を務めていた番組で、料理を作るコーナーの際、スタッフが味の素を用意していなかったことに激怒。
ADに殴りかかったので、強制退去させられています。
しかし、「味の素がない」というのは、最後のスイッチが入るきっかけに過ぎませんでした。
東京のスタッフが大阪のタレントを見下している節が以前からあり、そこに事前に打ち合わせをしておいたはずの味の素がなかったので、馬鹿にされたと感じたからというのが真相のようです。
「味の素がなかったから殴った」というのは発言の一部を切り取って編集されるようなもので、本意ではないとのこと。
なお、この後、本人は「東京嫌い」を公言するようになります。

伝説の深夜番組「たかじんnoばぁー」

1992年10月より、「たかじんnoばぁー」という番組が始まっています。
「酒を飲みながら、番組がやれたらいいな」というたかじんの発想から始まりました。
本人がバーのマスターに扮し、ゲストとトークを繰り広げるバラエティ番組です。
本物の酒を並べたセットは、製作に1500万円もかかっていたそうです。
ちなみに酒を用意していたバーテンダーは、祇園時代からたかじんと親交のある人物で、本職のバーテンダーでした。
この番組は特に台本などなく、たかじんはスタジオに入ってくるまで、その日のゲストが誰かも知らない仕組みだったとか。
言わば、真剣勝負の場であったこの番組は好評で、深夜ながら20%以上の視聴率を取る番組となりました。
特にビートたけしが出演した回は高視聴率でした。
なお、このとき、たけしがノーギャラで出演するという条件だったため、そのことを意気に感じたたかじんは、番組終了後、北新地にたけしを飲みに連れ出し、ポケットマネーで200万円ほどおごったという話が伝わっています。
また、この番組は2週分を1日で撮影する方式でした。
そのため、番組開始直後から酒を飲んでいるたかじんが、2週目に当たる分の撮影では最初からベロベロに酔っていることが多々あったそうです。

大ヒット曲「東京」

1993年、たかじんは「東京」という曲をリリースします。
最終的に60万枚を売り上げる自身最大のヒット曲となります。
皮肉にも嫌いと言った東京というタイトルの曲がヒットするわけですが、タイトルのはたかじんが東京に進出する頃から考えられていたそうです。
この曲は実は当時アイドルだった畠田理恵(現:羽生善治夫人)に提供されるはずだったメロディが元になっていました。
編曲によりラテンミュージック風に仕上がり、当初作曲した人物も仰天したとか。

絶頂期、再婚

1995年、たかじんはビールのCMにも出演するなど、絶頂期を迎えます。
私生活では15歳年下のモデルの女性と再婚。
当時、たかじんは44歳でした。
結婚を考えたのは仕事中に倒れたとき、いざというときに連絡する相手がいないことに気づいたからだとか。
「門限は朝の8時、浮気はOK」などという条件を、本当なのか嘘なのか、認めてもらっていたとか。
ちなみにこの頃、最初の奥さんとの間に生まれた娘は、西成にあるたかじんの実家に住んで、短大に通っていました。
とある合コンに娘が参加したら、たかじんと北野誠がいて仰天したというエピソードが伝わっています。
なお、後にこの二度目の結婚も破綻しますが、二番目の妻とこの娘は仲がよく、親交が続いているとか。

突然のスタッフ入れ替え

2002年、たかじんは突然、個人事務所P・I・Sを解散すると告げ、2003年マネージャーらを解雇します。
マネージャーはそれまで二人三脚で頑張ってきた人物です。
理由ははっきりしていないのですが、一部の仕事をマネージャーが勝手に断っていたのが気に入らなかったという説があります。
また、音楽活動よりタレント活動を優先することにしたので、音楽寄りだったマネージャーらを解雇したとも。
ただし、事務所は解散せず、たかじんの弟子がマネージャー兼副社長という形で事務所は続きます。

たかじんのそこまで言って委員会

2003年、事務所解散後のたかじんは人気番組「たかじんのそこまで言って委員会」を始めます。
学者や政治家、活動家までが出演し、言論することをタブー視されていたテーマにまで踏み込んだこの番組は大好評となりました。
当然、東京からも放送の依頼が来ましたが、すべて断っていたそうです。
安倍総理と一緒に温泉に入っている映像は有名ですが、一方では、民主党政権を誕生させた番組とも言え、世論を動かす番組でもありました。
橋下徹が大阪府知事になったのもこの番組の影響が強かったとも言われています。
ただし、たかじん自体は元々政治家嫌いであったそうです。
なお、大阪維新の会の味方であったように見られるたかじんですが、橋下徹と市長選挙で戦った平松邦夫大阪市長(当時)とはアナウンサー時代から長く親交がありました。

晩年と最期

2011年、食道がんであることが発覚。
ステージ2に近い3であったとか。
この頃、弱気になったたかじんはすでに別の男性と再婚していた二番目の妻に「最期を看取ってくれ」と連絡していたそうです。
3月に行われた手術は成功しますが、そのあと縫合不全があり、再手術することになります。
内臓が長年の習慣でボロボロになっていたことも影響した模様です。
それでも驚異的な快復を見せ、6月には退院。
北海道やハワイで養生していたとのこと。
2013年3月、1年2カ月ぶりに番組復帰、最初に出演した「たかじん胸いっぱい」では調子が良かったものの、その後の番組では呂律が回らなくなる、言葉がうまく出ないなどの症状が見られました。
1ヶ月半後には体力の限界を感じ、再び休養。
がんの転移があり、どんどん痩せて行きました。
やつれた姿を他人に見せたくなかったそうで、ごくわずかな人としか会おうとしませんでした。
しかし、姿が見られないラジオ番組なら出演できるなどと、復帰への意欲を見せていました。
闘病中、たかじんは三回目の結婚をします。
32歳年下の女性でした。
出会った経緯は謎とされています。
この女性との関係については、作家・百田尚樹が「殉愛」という作品で紹介しています。
しかし、内容がデタラメだという反論もあり、わからない部分があります。



12月末、容態が悪化し、聖路加病院に入院。
29日には弁護士立会いのもと、病室でビデオによる遺言書を作成。
「元旦に死んだらしゃれにならん」というメモを残しています。
年始は東京のマンションで過ごしていましたが、1月3日午前1時半に緊急搬送された病院で死亡が確認されました。
享年64歳。
死後、わずか6人だけの参加で密葬が執り行われます。
大阪が好きで、大阪に愛された人物でしたが、大嫌いと言っていた東京でわずかな人数に見守られ荼毘に付されることになりました。
世間が正月気分のときに訃報を知らせたくないという個人の遺志もあり、事務所が死を発表したのは7日の夜遅くでした。
その後、元マネージャーたちが集まり、120人ほどの偲ぶ会が行われました。
さらに、その後、安倍首相や秋元康らが発起人となった500人ほどが参加した偲ぶ会も行われています。

たかじんに関する逸話・伝説

コンサートでは常にプレッシャーで緊張していた

コンサート前になると緊張のあまり、自立神経失調症のような症状が現れていたとか。
サングラスをかけるのは観客の顔をまともに見られないからで、ステージ狭しと動くのも精神が落ち着かないゆえでした。
ただし、サングラスに関しては緑内障の影響もあります。
なお、コンサート中は曲の合間に30分ほどのトークが入ることが多々あり、歌う時間より、トーク時間の方が長いのでも有名でした。

競走馬の名前

馬主でもあったたかじんですが、あまり活躍する馬は所持できませんでした。
ゲートを出なくてデビューできなかった馬もいたとか。
一番素質の高い馬が現れたら「ギオンシンチオー」と名付けようとしていましたが、ついにそんな馬は現れませんでした。

暴力バーでの逸話

「暴力バーがあるのか、面白い」と言って入店。
しかし、会計が5万円であったのに激怒し、「暴力バーやったらこれくらい取らんか!」と10万を置いていったという逸話があります。

男の子が生まれたら付けたいと思っていた名前

たかじんの子供は最初の妻との間に生まれた娘しかいませんが、男の子が生まれたら、父の権三郎から一字取り、権太(けんた)と名付けたいと語っていたとか。

上方お笑い大賞審査員特別賞を受賞

歌手でありながら、上方お笑い大賞の審査員特別賞を受賞しています。
しかも、本当は大賞だったのを「歌手である自分が受賞したら、芸人たちに対して申し訳ない」と特別賞にしてもらったとか。

的中率の高かった視聴率予想

たかじんは自宅にHDDレコーダーを10台ほど起き、全局の番組を録画していました。
録画した番組を見て、視聴率を予想し、番組で発表するのを恒例としていて、的中率の高さに定評がありました。

演技は下手だった?

「木枯し紋次郎」の主題歌を歌っていた縁で、番組に出演。
紋次郎に絡む町人の役を演じますが、これが素人目に見ても下手。
本人も最悪の出来を自覚していたらしく、自宅に帰ってから、恥ずかしさのあまり誰かにからかわれるのを恐れ、電話線を切ったとか。
また、映像も見たくないということで、アンテナ線も切ったそうです。

その素顔は?

参考文献にした本の帯には、「小心者で優しくて、気の弱いおじさん。あの人はやしきたかじんを演じていたと思う」と書かれています。


最後にマネージャーを務めた人物は、ふたりでいるときはいい人なのだけれど、誰か第三者が現れると、突然、こちらを叱り飛ばして来たりすると語っています。
コンサート前の極度の緊張ぶりや、繊細な歌声など、やはり本当は小心者で気の弱いおじさんだったのかと思われます。
横山やすしと同じで、最後までイメージを守り通そうとしたのではないでしょうか。

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