ザ・ドリフターズに関するエピソードあれこれ 紅白を一度辞退?

芸能系
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国民的お笑いグループ、ザ・ドリフターズ。

これまでメンバーのプロフィールや「8時だヨ!全員集合!」に関する雑学を紹介させていただきましたが、それ以外にも多くのエピソードがあるので、別記事として紹介させていただきます。

ただし、メンバー個々の記憶が曖昧だったり、エピソードをギャグとしている部分もあるので、すべてが事実かと言えば怪しいところもあります。

予めご了承ください。

ドリフメンバーのプロフィールに関する雑学あれこれ
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ドリフ結成の歴史・いかりやさんは三代目リーダー

ザ・ドリフターズのリーダーといえば、いかりや長介さんが真っ先に思い浮かびますが、実はいかりやさんは三代目のリーダーです。

ドリフ黎明期

初代リーダーは岸部清さんという人です。

いかりやさんの著書「だめだこりゃ」によると、ドリフを結成しましたが、すぐにプロデュース業へ転身。

芸能プロ、第一プロダクションの社長となりました(※2019年に死去されました)。

「ドリフターズとその時代」という本によると、「マウンテン・ボーイズ」と「東京ウェスタン・ボーイズ」が1956年頃に合併し、「サンズ・オブ・ドリフターズ」が誕生。

アメリカのバンド「ドリフターズ」が名前の由来だと一般的に言われていますが、「サンズ・オブ・ザ・パイオニアーズ」というカントリー&ウェスタンのバンドがモデルだという説もあります。

この頃はまだコミカルな要素はなく、一般的に知られるドリフのメンバーは誰もいませんでした。

1958年5月に「ドリフターズ」と改名。

一時「井上ひろしとドリフターズ」と名乗っていた説もあります。

この時期、有名な坂本九さんがバンドボーイ(付き人)を務めていました。

1959年に音楽性を巡ってメンバーが対立。

歌謡曲路線かロカビリー路線で揉めました。

このことでバンドは分裂。

「井上ひろしとファイブ・サンズ」と「桜井輝夫とドリフターズ」に分かれます。

桜井輝夫リーダーの時期

後のドリフにつながるのは、「桜井輝夫とドリフターズ」の方で、二代目のリーダーは桜井輝夫さんとなります。

桜井輝夫さんは当時「クレイジーキャッツ」が話題となっていたこともあり、音楽と笑いが融合されたコミカルな路線を模索します。

ボーイから昇格した小野ヤスシさんに白羽の矢が立ちますが、まだまだ物足りない状況でした。

そこで、桜井さんが目をつけたのが「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」でギャグ担当をしている碇屋長一、後のいかりや長介さんでした。

いかりやさんは、当時もっとギャグを全面に出す路線を進めようとしていたのですが、嫌がるメンバーと軋轢を抱えていました。

そのことを知った桜井さんはスカウトに成功するのでした。

後に「クレイジーウエスト」というバンドにいた加藤英文、後の加藤茶さんもスカウトすることに成功します。

桜井輝夫さんはあまりエピソードが伝わっていない謎の人物ですが、父は交通公社の部長で、母は大学教授であったそうです。

本人は立教大学を卒業しています。

大学時代にファッションショーの司会をしたことをきっかけにジャズ喫茶で司会やギターの演奏を始めました。

高木ブーさんの証言によると、歌がうまかったが、お笑いが大好きだったとのこと。

後にプロモーターに転身されたと言われています。

2001年に加藤さんの恩人としてテレビ番組に出演しましたが、その後の消息は不明です。

ジャズ喫茶で若き日の水木一郎さんと顔見知りになり、水木さんのプロデビューの手助けをしたなんてエピソードも。

当時はバンドの結成や解散というのが当たり前のようにあり、腕のいい演奏者はすぐに引き抜かれていた時代でした。

シンガーとして、現在は女優として活躍中の木の実ナナさんもドリフに所属していた時期があるとか。

三代目リーダーいかりや長介誕生

そして、三代目のリーダーがいかりや長介さんです。

この頃のメンバーは、いかりや長介さん、加藤茶さん、小野ヤスシさん、飯塚文雄さん、猪熊虎五郎さん、ジャイアント吉田さんの6人でした。

しかし、いかりやさんの路線に反発した加藤さん以外の四人が独立。

「ドンキーカルテット」というグループを結成しました。

加藤さんもどちらに着くか迷ったそうですが、結局ドリフに残りました。

「いかりやが怖い顔で脅迫するものだからさー」と、よくギャグにしていますが、事実はドンキーカルテット側から「加藤はドリフに残れ」と言われたらしいです。

「カルテット」だから、もうひとり加わるとおかしくなるという事情もありました。

加藤さん自身は小野ヤスシさんらと仲違いしたわけではなく、小野ヤスシさんが亡くなるまで親交がありました。

いかりやさんも晩年は小野ヤスシさんと共演することがありました。

とにかく2人ではバンドが組めないので、いかりやさんがスカウトした高木ブーさん、仲本工事さん、荒井注さん、綱木文夫さんを加入させ、6人編成に。

1年後に綱木文夫さんが脱退したので、以後は5人体制となりました(ただし、多くのサポートメンバーがいたようです)。

荒井注さんが脱退して、付き人のひとりだった志村けんさんが正式メンバーに昇格したのは有名な話です。

正式メンバーになる前に半年間ほど「見習い」時代があり、その期間は6人体制でした。

ビートルズの前座を務めた話

ビートルズが1966年に来日し、武道館で公演を行ったのは、もはや歴史の一部となっていますが、ドリフは前座を務めるグループのひとつでした。

加藤さんいわく、最初は10分くらいの演奏と言われていたそうですが、進行の都合で最終的には1分くらいになったそうです。

しかも、ステージへ移動するのに30秒ほどかかったそうで、実質30秒も演奏していないとのことです。

結果として、ビートルズもカバーしている「のっぽのサリー」という曲の出だしだけを仲本工事が歌いましたが、すぐに「逃げろ!」といかりやさんが叫んで大急ぎで舞台を降りることになりました。

加藤さんが「バカみたい」というひとことも残しています。

なぜ「逃げろ!」なのかというと、司会を務めていたE・H・エリックさん(岡田真澄の兄)が「さて、いよいよみなさんお待ちかねの、ザ……」という前振りをしたので、観客たちはビートルズが出てくると思って大騒ぎとなったわけですが、出てきたのがドリフだったのでズッコケたというわけです。

かといって、がっかりされたわけではなく、それなりにウケたようですが。

しかし、高木ブーさんは著書「アロハ、90歳の僕」の中で、「ギャグの間が悪い」と述べています。

なお、加藤さんはビートルズとは出会っていないと語っていますが、いかりやさんは著書で「メンバーとすれ違い、誰かの楽器とぶつかった」と書いています。

ドリフのメンバーといえども、緊張していてよく覚えていないのでしょうか。

ちなみに高木ブーさんはこっそり誰もいない一階席で演奏を聴いていたそうです。

紅白歌合戦出場を一度辞退している?

1970年に「ドリフのズンドコ節」が大ヒット。

数多くの賞を取り、紅白歌合戦への出場が内定していたそうですが、加藤さんが交通事故を起こして謹慎処分となったので辞退することになりました。

しかし、2001年、夏の紅白とも呼ばれる「思い出のメロディ」に出演したところ、これが好評となり、この年の紅白歌合戦に無事出場しました。

番組内では、全員集合の名物企画だった「少年少女合唱団」を再現するコーナーもありました。

ドリフのコントは外国人にも好評だった?

ドリフのコントは動きだけで何をしているのかわかるので、日本語のわからない外国人にも好評だったといかりやさんは著書で語っています。

一方、「下品だ」とか「食べ物を粗末にするな」とも言われ、PTAの「子供に見せたくない番組」には常に上位にランクインしていたとか。

それだけ影響力が強かった証拠ということでしょう。

ドリフの悲劇……奥さんが先に亡くなる

いかりやさんは3回結婚していますが、二人目の奥さんは病死されています。

最初の奥さんは精神を病まれたので離婚することになりました。

仲本工事さんも弟子の演歌歌手と3回目の結婚をして居酒屋を経営していますが、最初の奥さんを病気で亡くしています。

そして、愛妻家で知られた高木ブーさんも奥さんを先に亡くしています。

とあるワイドショー番組では、葬儀を報道する場で「高木ブーさん」と呼ぶのは不謹慎だと考えたのか、本名の高木友之助さんと呼んでいました。

奥さんが先に亡くなるのを一部週刊誌は「ドリフの悲劇」と報道していました。

ただし、みなさん艶福家のようで、加藤茶さんが45歳下の奥さんと再婚したのは有名ですが、仲本工事さんも現在の奥さんが27歳下、二人目の奥さんは25歳下でした。

元メンバーの荒井注さんも再々婚の相手は38歳下でした。

加藤茶さんは一晩で3000万円を飲み代に使った?

全員集合の全盛期、金はあるけど遊ぶ時間がない加藤茶さんは銀座のクラブをハシゴして、行く先々で一般の客までを連れ回し、最終的に3000万ほどを一晩で使ったという伝説があります。

ただし、このエピソードを話すとき、微妙に金額が変わることがあるので、数字は正確でないかもしれません。

「お口の恋人」というフレーズは仲本工事さんの母が作った?

お菓子メーカー「ロッテ」のキャッチコピー「お口の恋人」は仲本工事さんの母が応募し、採用されたものだと言われています。

なお、仲本工事さんの母は息子とともに「居酒屋・名なし」という店を切り盛りしていました。

一時期、高木ブーさんの奥さんと一緒にメンバーに食事を差し入れしていた時期があったとか。

こぶ茶バンドについて

仲本工事さん、高木ブーさん、加藤茶さんの三人は、芸名から一文字取って合わせた「こぶ茶バンド」という名前のバンドを結成し、全国各地で演奏活動を行っています。

元々、この3人はドリフ加入前に「クレイジーウエスト」というバンドに一緒に在籍したことがあり仲が良いとか。

公演には6人目のドリフと呼ばれるすわしんじさんや、元メンバーの小野ヤスシさんが参加することもあったそうです。

筋肉少女帯の「元祖高木ブー伝説」について

大槻ケンヂさん率いるバンド、筋肉少女帯が「元祖高木ブー伝説」という曲を発売する際、ドリフの事務所側から抗議がされましたが、高木ブーさん本人が「許してやろうよ」と言ったので、発表することができました。

ネット上では「若いやつが馬鹿やってがんばろうとしているのだから許してやろうよ」とブーさんが語ったことになっていますが、ブーさん本人はそんなセリフを言った覚えはないとのこと。

またこの騒動によってか、曲も話題となりヒットしたので、大槻ケンヂさんは高木ブーさんの人柄を絶賛し、以降、ブーさん経営の店でライブ活動をするなど親交を深めているそうです。

なお、この曲の歌詞は「彼女が去っていくのに何もできない僕は、まるで土曜の晩の高木ブーのように無力だ」という内容です。

ちなみに筋肉少女帯にはもう1曲「ドリフター」というドリフを題材にした曲があり、そちらの歌詞の方が内容的には不適切です。

そちらをドリフの面々が知っているのかは不明です。

「ばか兄弟」はタイトルを変えられている。

「ばか兄弟」というコントは、いかりやさんと仲本さんが少し知能の低い感じの兄弟を演じる人気のコントです。

しかし、一部からクレームがあったのか、近年放送される際には「ゆかいな兄弟」とタイトルを変えて放送されるようになっています。

志村けんさんは一時期独立している

志村けんさんは、一時期、同じくドリフの付き人をしていた人物と「マックボンボン」というコンビを作り、独立しています。

身体を張ったギャグが話題を呼び、一時は冠番組を持つほどでしたが、ワンパターンが飽きられて打ち切りとなり、ドリフの付き人に戻ることになりました。

なお、志村けんさんは、一度、社会勉強をすると言って付き人から離れて働いていたそうですが、そのとき話がうまく伝わらず、失踪したと騒ぎになったことがあります。

ドリフが起源とされるもの

じゃんけんをする際、「最初はグー」と言ってタイミングをはかるのは、ドリフのコントがはじまりと言われています。

ベースを演奏する際に「チョッパー」という技法があるのですが、日本で最初に始めたのはいかりやさんだという説があります。

各家庭から面白い動画を送ってもらい、テレビで紹介するのは、志村けんが「カトちゃんケンちゃんごきげんテレビ」で始めた「おもしろビデオコーナー」が最初とされており、それがアメリカに伝わり、後のYou Tubeに影響を与えたとさえ言われています。

<参考文献>

これらの本に関するレビューは以下の記事を参照してください。

高木ブー:著「アロハ 90歳の僕」ドリフ第5の男が語る回想録
高木ブーさんといえば、ザ・ドリフターズのメンバーとして、日本で知らない人はいないのではないかというレベルの有名人です。「この本には僕の90年のすべてが詰まっている」と最初の一行目に書かれているように、この本では自身の歴史、ドリフの歴史、当時
書評:いかりや長介著「だめだこりゃ」いかりやさん唯一の自伝です。 | あの日の記憶を探して
遺書代わりの書 2004年、惜しくも世を去ったザ・ドリフターズのリーダーいかりや長介さん。 「だめだこりゃ」は2001年にそれまで多くを語らなかったいかりやさんが、「遺書代わりに書いた」という自伝です。 「音楽は四流、笑いは素人、でもそれが

※自分の記憶を確認する形で、ネット上の多くのサイトを参考にしました。
他にも面白いエピソードが見つかれば、随時追加していきます。

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