天才・漫才師横山やすしに関する雑学あれこれ その素顔は?

芸能系
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天才、破滅型、トラブルメーカー、実は寂しがり屋だった……いろいろなことを言われながら、今も語り継がれる伝説の芸人、横山やすし。

不世出の天才とも言われる、この方に関する雑学を集めてみました(文中・敬称略)

プロフィール

1944年3月18日、高知県宿毛市出身。

生まれたときは未熟児でした。

血液型はB型。

瀬戸内海の小さな島、沖ノ島の旅館で働いていた小川照子(輝子?)と旅回り一座の男性との間に生まれた私生児です。

生後すぐ木村庄吉という人物のもとに養子に出され、木村雄二と名付けられました。

大阪府堺市で育ちます。

生みの親と育ての親は違うと弟子に話していました。

ちなみに後の相方、西川きよしも高知県出身(高知市)です。

※別の文献によると、木村庄吉と小川照子が堺市にいた頃、親しくなり、後に妊娠。

照子は空襲を避けるため、一時、沖ノ島に戻ります。

そして、なぜか1月末にもう一度堺に戻り、3月に雄二(やすし)を出産。

しかし、産後の肥立ちが悪く、照子は子供を庄吉に預けたまま、沖ノ島に再び戻ります。

子供の面倒を見られる人がいないので、庄吉は友人の床屋、若林真吉の妻タキヨに頼んで面倒を見てもらいました。

ちなみにそのとき、床屋の旦那は出征中でした(後に戦死)。

数ヶ月して、沖ノ島からタキヨの元に実母、照子がやって来ますが、情が移ったタキヨ照子に子供(やすし)を返しませんでした。

結果、戸籍上ではタキヨが母になっています。

このタキヨはやすしの息子、木村一八の著書によると、後に遊郭の女将になったということです。

なお、実母照子とやすしは何度か会っていました。

後に照子は堺から追い出される形となり、四国に戻り水商売をしていました。

出生に関しては、非常に複雑な事情があるようで、やすし本人にも詳細はわからないということです。

しかし、やすしが実母の照子に聞いたという話では、小田耕一郎という人物が本当の父(旅回り一座の男性と同一人物かは不明)で、この人物も出征して戦死したとのことです。

天才少年漫才師誕生

中学生のとき、ラジオの素人参加番組で同級生と漫才を演じたところ評判となり、そのままプロの道に進みます。

当時は松竹芸能に所属し、「堺伸スケ・正スケ」と名乗り、芸能活動を始めます。

「堺伸スケ」が後の横山やすしです。

しかし、初めは「天才少年漫才師」と評判でしたが、いわゆる「子供にしてはうまい」というタイプの芸であったので徐々に飽きられて行き、2年ほどでコンビを解散。

この頃、人気があるうちはみんなチヤホヤしてくれましたが、なくなると冷たくなったので、悔しい思いをすることになりました。

そのため、ちゃんと師匠に付き、漫才の基礎を学びたいと考えました。

横山ノックに師事

コンビを解散して路頭に迷っていた頃、横山ノックに声をかけられ内弟子になります。

弟子としてはかなり師匠に尽くしました。

後に自分が弟子を取る立場になった際、厳しく接したのは、その頃の経験があるからです。

この頃、「横山やすし」の芸名をもらい、何人かとコンビを組みましたが長続きしませんでした。

「コンビ別れの名人」とさえ呼ばれます。

ちなみに「横山たかし」というと、後のやすしの弟子「横山たかし・ひろし」のたかしが思い浮かびますが、この頃やすしは「横山やすし・たかし」というコンビを二回組んでいます。

このときの「横山たかし」は、後の「横山プリン」と「レツゴー三匹」の正児です。

やす・きよ結成

芸人仲間から当時、吉本新喜劇にいた西川きよしを紹介され、やすしは何度も誘います(誰が紹介したかについては諸説あります)。

やすしの評判を聞いている周囲からは反対が多く、きよしは迷っていました。

しかし、新喜劇のスターだったヘレン杉本とすでに結婚していたきよしは、後がないという覚悟で漫才への転身を決意します。

やすしにとって、八人目の相方でした。

後がないきよしは何度も稽古することを望みましたが、練習嫌いで天才肌のやすしとは合わず、初めは喧嘩が絶えませんでした。

西川きよしは真面目で、横山やすしは気が荒いというイメージがありますが、当時はきよしの方が気が荒く、喧嘩っ早いところがありました。

この頃は漫才師として一日の長があるやすしがきよしをリード。

新喜劇出身だけに芝居がかった話し方や動きになってしまうきよしを見て、それならばその動きを活かそうとします。

「どつき漫才」や「メガネ、メガネ」のギャグで知られる動きを取り入れた漫才、さらにはボケとツッコミが激しく入れ替わる漫才を確立、数多くの賞を受賞していきます。

名古屋大須演芸場で当時全盛期だった「コント55号」と共演した際には、55号を食うほどウケたことがあり、萩本欽一は衝撃を受けたと著書で語っています。

ちなみに上岡龍太郎は、夢路いとし・喜味こいしとの対談本で「やす・きよの漫才は確かに面白いけれど、いとし・こいし師匠の漫才とはタイプが違う」と語っています。

しゃべくり漫才と動きのある漫才との対比によるものです。

家族構成など

私生活では、二度結婚しています。

最初の妻(澄子)との間には、長男で後に俳優となる長男(一八)と、長女(雅美)が生まれています。

最初の妻と長女は一般人として暮らしているため、メディアに登場することはほとんどありません。

妻はやすしの浮気に耐えきれず、静岡の実家へ息子と娘を連れて帰り、後に離婚。

再婚した男性との間にひとり子供(女性)がおり、木村一八自身は異父妹と異母妹がひとりずついる形になります。

二人目の妻がテレビにもよく登場していた啓子夫人で、二人の間には娘の光が生まれています。

結婚後、経済的に苦しかった前妻とその子たちの状況を見かねて、やすしが子供たちを引き取りました。

三人の子を育てていた形になりますが、末っ子の光に関しては、やすしは非常に優しかったとのことです。

光は宮川大助・花子の娘さゆみと「さゆみ・ひかり」というコンビを組み、漫才師として活動もしています。

ただし、生前やすしは娘に対して「漫才だけはするな」と語っていました。

その理由は、自分がどれだけ優れていても、相手の力量がないと生かされないし、相性の問題もあること、そして人気が出たとしても、手柄はふたりでひとつになるので損だという考えがあったからです。

トラブルの数々

1970年    タクシー運転手への暴行、無免許運転→謹慎処分
1973年    タクシー運転手へ「昔ならかごかき」と暴言→慰謝料の支払い
1982年~84年 テレビ番組内での暴言、放送中にトイレ、泥酔状態での出演、番組に間に合わず穴を開ける→無期限謹慎処分
1986年~88年 泥酔状態でテレビ番組内で大暴れ、出演キャンセルなど
1988年    息子、一八が未成年者ながら飲酒し、タクシー運転手に暴行を加え逮捕→自主的に謹慎
1989年    復帰してわずかだというのに飲酒運転で人身事故を起こす→ついに吉本から解雇
1992年    何者かから謎の暴行を受け、失語症にまでなる。

1970年の事件は「上方漫才大賞」を受賞してから数ヶ月後のことで、一番勢いのあったときに2年以上謹慎する形となりました。

一時はコンビ別れも考えられました。

しかし、西川きよしはコンビ決別を拒否し、やすしの復帰を待ちます。

この間、笑福亭仁鶴や桂三枝(現・桂文枝)らと共演したことで、きよしの技量が鍛えられ、やすしへのツッコミが鋭くなる結果となりました。

以降、ふたりの漫才はキレにキレ、ボケとツッコミの応酬は真剣勝負の場となります。

暴行を受け、失語症になって入院していた頃、息子に「愛人たちのことを頼む」と語っていたと、没後、一八が暴露しています。

このとき、一八は「一体何人の愛人がいたのか?」と、やすしに聞いたところ、「51人」とやすしが答えたのを聞いて、「意外と少ないな、俺のほうが多い」と思ったとのこと。

親子揃ってタクシー運転手と何かと相性が悪いですが、時代背景として、当時は態度が悪い運転手が多く、やすしが殴られることも何度かあったそうです。

息子の暴行事件については、世間的には一方的にタクシー運転手に因縁をつけて暴行したという話になっていますが、とある有名俳優の息子がタクシー運転手とトラブルになり喧嘩になっていたのを助けたところ、やりすぎてしまったというのが真相です。

やりすぎたことに関しては反省していますが、その有名俳優の息子が何も謝罪してこないのは未だに納得がいかないと、木村一八は著書に書いています。

有名俳優の息子をかばった形になっていて、そのことを聞いたやすしは一八に対し「よくやった」と言ったとか。

やすしが涙を流して会見した姿は有名ですが、「息子に対する教育は間違っていない」と発言しているのはそのためです。

また、横山やすしといえば、酒好きのイメージが強いですが、実は、酒はあまり好きではなく、強くもなかったとのこと。

イメージを守るために飲んでいた面もあったとのこと。

天才少年漫才師と呼ばれた少年の頃、「酒も飲めない歳のガキが偉そうにするな」と先輩芸人たちから言われたのを悔しく思っていたという説もあります。

喧嘩にも決して強くなかったし、もちろん好きではなかったとのこと。

これも横山やすしというイメージを守るための演技だったのでしょう。

謎の暴行事件

1992年、暴行を受け、瀕死状態で発見された件について、今も誰からどういう理由で暴行を受けたのか謎とされています。

しかし、当時、息子一八が知り合いの組長たちに電話をかけまくったところ、二時間ほどで相手が何者か、事件の背景に何があるか、詳細がわかったということです。

やすし自身もわかっていたとのこと。

一八自身は仕返しを考えたということですが、「家族の安全のために仕返しはするな」とやすしに言われ、思いとどまったとか。

この件は、父やすしが公表しなかった以上、口外するつもりはないとのことです。

しかし、自分が二時間ほどでわかったことが、警察にわからないはずがなく、警察が犯人を捕まえず、時効になったことには不信感を抱いているとか。

横山やすしと競艇

やすしは一時期、漫才の相方がなかなか決まらず、別の仕事を探してみるかと考えたことがありました。

小柄で軽量(160センチ、47キロ程度)の自分にピッタリではないかと競艇選手に目をつけました。

しかし、試験を受けましたが、視力が悪かったため、不合格となりました。

ちなみに、このとき一緒に試験を受けた友人の野中和夫は合格し、後に競艇界を代表する選手となります。

モーターボート協会の笹川良一会長(当時)から、やすしはかわいがられていたそうで、映画を撮る際には資金提供も受けています。

後にこの笹川会長から特別にアマチュアライセンスをもらい、以後、アマチュアのレースに参戦、優勝したこともあります。

やすしの死後、西川きよしが語っていたことですが「仕事をサボって、レースに出て優勝。新聞に大きく掲載され、会社から怒られた」とのことです。

なお、娘の光も競艇選手を目指しましたが、同じく視力が悪かったため、不合格となりました。

また、やすしはマラソンも好きで、よく走っていましたが、ボートに乗るためには軽量でなければならなかったからでもあります。

晩年と最期

1992年の参議院選挙にきよしと同様、やすしも出馬しています。

ただし、きよしは選挙区(無所属)、やすしは比例代表(風の会)です。

きよしは当選しますが、やすしは残念ながら落選。

「国民がアホや」と言った発言は何度か取り上げられ、流行語ともなりました。

1996年1月21日、アルコール性肝硬変で死去。

酒をやめるよう散々忠告されていましたが、晩年までやめられませんでした。

死後、「やすしの遺族がきよしを恨んでいる」「きよしはいいところばかり持っていく」などと週刊誌に書かれましたが、一八が明確に否定しています。

やすしの行状を見て、きよしが将来を不安に思うのは当然であると理解していると著書に記しています。

ただ、やすしの酒量が増えたのは、きよしが国会議員になってからのことで、やすしが破滅するきっかけになったのは事実かもしれません。

事実、きよしが出馬することに関して、捨てられたような気分になったやすしは不貞腐れ、当初は選挙の応援に行くかどうかでさえ、揉めていたとのこと。

マネージャーたちがとりなして、最終的に応援に駆けつける形になっていました。

晩年は「キー坊ともう一度漫才をしたい」と口癖のように語っていました。

他の芸人との関わり

ビートたけしは死に際してのコメントで「やすしさんには芸も色気もかなわない。雲の上にいるような人だった」と絶賛。

たけしは若い頃、急に「飲みに行くぞ」とやすしから連絡が入り、島田洋七とともに千葉の大衆食堂のようなところに連れて行かれましたが、金を払わず置いていかれた経験があります。

結局、自分たちが払う羽目になったので、帰りの電車賃がなくなってしまい、ふたりで東京まで歩いて帰ったというエピソードを語っています。

また、近年、テレビ番組などで「あのやすしさんとまともに漫才ができたのはきよしさんだけなんだから、もっときよしさんも評価されていい」と、ことあるごとに話しています。

若い頃のダウンタウンが、番組内でやすしに酷評されたエピソードは有名ですが「晩年のやすし師匠はごっつええ人やった」と松本人志は語っています。

番組内では編集されていますが、実際は一時間半ほど怒られていたのが真相です。

その他の証言によると、不思議とやすしに怒られた人ほどよく売れているという現象があり、見る目があったのかなかったのかわかりにくい人だとも言われています。

自分が弟子として苦労しているだけに、いわゆる師匠を持たない若手に対して、反感を持っていたという説もあります。

なお、若き日の明石家さんまと島田紳助に関しては、将来有望と見ていたとか。

弟子について

弟子は大勢いましたが、指導が厳しかったのでほとんどが辞めていき、最終的に大成したのはホラ吹き漫才で人気だった「横山たかし・ひろし」のふたりくらいです。

横山たかし(大金持ちキャラの方)は、「(師匠から)一万発くらい殴られた」「二階から投げ落とされた」「高速道路で降ろされて、置いていかれた」などの逸話があります。

やすし死後の追悼番組で「最後まであのキャラクターは演技やったのか、本当やったのかわからんかった」と涙ながらに語っています。

なお、最後の弟子とされる「横山ひとし」は一時期、ビートたけしに引き取られ、オフィス北野に所属していたことがあります。

現在は「たかし・ひろし」の弟子たち(やすしから見て孫弟子)が、今も上方演芸の名門、横山姓を継いでいます。

横山やすし、その素顔は?

追悼番組で、長男一八と次女の光が語っていたところによると「素顔の木村雄二さんは心配性で、寂しがり屋な人だった」とのこと。

修学旅行に行った際、心配したやすしが旅行先まで仕事のふりをして追いかけて来て、偶然に出会ったようなふりをするので、驚いたことがあるとか。

横山(木村)家の家訓のひとつに「嘘を付くことは殺人より悪い」というのがありました。

殺人は場合によってやむを得ない場合があるが、嘘はほとんどが自己防衛のために付くもので必要性がないという理屈でした。

また、やすしは個人事務所などを作っていませんが、愛国者であるやすしにとっては、節税さえ脱税という考えがあったからです。

もし、節税をしていれば、晩年、借金を背負うことはなかったかもしれず、ある意味、不器用な人物と言えるかもしれません。

ちなみに麻雀で得意とする役は「七対子」だったそうで、しかも牌を2個ずつ分けて並べるので、何を狙っているのか丸わかりだったとか。

漫才内では「チョンボのヤス」と呼ばれていました。

<以下、参考文献>
記憶が曖昧なところはネット上の情報などで補完しました。




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