「ギャグ語辞典」という本を読みました。
主著者は高田文夫氏。
明治期から2020年までのギャグ、流行語などを収録し、その言葉にまつわる逸話が述べられています。
また、お笑いの歴史などにも触れられていて、大変興味深い本でした。
この本からいくつかのギャグを抜粋して紹介します。
最近のギャグは皆が知っていると思うので、昭和のギャグを中心に紹介します。
(文中:敬称略)
- 「アイーン」:志村けん
- 「アジャパー」:伴淳三郎
- 「あたり前田のクラッカー」:藤田まこと
- 「あんたはエライ!」:小松政夫
- 「オシャマンベ」:由利徹
- 「お呼びでない?」:植木等
- 「ガチョーン」:谷啓
- 「コマネチ」:ビートたけし
- 「欽ちゃん走り」:萩本欽一・コント55号
- 「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」:淀川長治
- 「シェー!」:イヤミ
- 「冗談じゃないよー」:ビートたけし
- 「だいたいやねー」:竹村健一
- 「だめだこりゃ」:いかりや長介
- 「ちょっとだけよ」:加藤茶
- 「田園調布に家が建つ」:星セント・ルイス
- 「どうもすいません」:初代・林家三平
- 「ナイスですねー」:村西とおる
- 「ナハッ、ナハッ」:せんだみつお
- 「なんだ馬鹿野郎」:荒井注
- 「ハラホロヒレハレ」:クレージーキャッツ
- 「プッツン」:片岡鶴太郎
- 「もみじまんじゅう」:B&B
- 「やめて、チョーダイ!」:財津一郎
- 「喜んでいただけましたでしょうか?」:稲川淳二
- 「わかっちゃいるけど、やめられない」:植木等
「アイーン」:志村けん
惜しくも新型コロナで世を去った志村けんの代表的ギャグ。
元はいかりや長介に対して「怒っちゃやーよ」と言っていた際の手の動きが由来。
この動きにナインティナインの岡村が「アイーン」という音を当てて、広めたと言われている。
後にふたりは飲み屋で出会い、意気投合したのを機に志村が多用するようになったとか。
「アジャパー」:伴淳三郎
戦後間もない時期に有名になった伴淳三郎のフレーズ。
元は出身地の山形弁で「あれまぁ」というような意味だったとか。
「あたり前田のクラッカー」:藤田まこと
昭和37年から放送され人気を博した「てなもんや三度笠」のオープニングで、主人公を演じた藤田まことが、スポンサーである前田製菓のクラッカーを宣伝していた際に使われていたフレーズ。
「俺がこんなに強いのは、あたり前田のクラッカー」というのが正式。
「あんたはエライ!」:小松政夫
車のセールスマンから植木等の弟子になった経歴を持つ小松政夫のギャグのひとつ。
最後の日本兵、小野田寛郎がフィリピンから日本に帰国した際、母親がかけた言葉がヒントになったとのこと。
「表彰状、あんたはエライ! 以下同文」という形でよく使われた。
「オシャマンベ」:由利徹
膝を曲げ、股を広げて、さらに両手を広げたポーズで発せられる由利徹のギャグ。
元は高倉健主演映画のロケで北海道長万部町を訪れた際、地元の人からもてなされたのに感謝して、お返しに町のアピールをしようと考えられたギャグだった。
しかし、股間が強調されて見えるポーズなのと、マンベという部分がなんとなく卑猥に聞こえるということで、NHKでは使えなかったという。
「お呼びでない?」:植木等
本来、登場すべきでないタイミングで現れ、「お呼びでない? これまた失礼しました〜」と去って行く、植木等の代表的ギャグ。
元は植木が出番を間違えたところ、大ウケしたのがきっかけで生まれた。
植木は弟子の小松政夫が出番の指示を間違えたと主張していたが、小松政夫は違うと反論している。
「ガチョーン」:谷啓
伝説の番組「シャボン玉ホリデー」内で多様されたギャグ。
麻雀好きだった谷啓が、振り込んでしまったときなどに「ガチョーン」と口にしていたのが由来。
手を突き出すとき、真空をつかむようにするのが極意だということである。
「コマネチ」:ビートたけし
説明不要の有名ギャグ。
手の動きは、ルーマニアの体操選手ナディア・コマネチのレオタードの角度を表している。
なお、「アンドリアノフ!」という対になるギャグが存在するが、こちらはあまり普及していない。
本来は「笠松!」「塚原!」などと体操選手の名前を連続して言うギャグだったが、コマネチの部分だけが独立。
由利徹の「オシャマンベ」の影響を受けているという説がある。
「欽ちゃん走り」:萩本欽一・コント55号
半身を客席に向けたまま走る萩本欽一独特の走り方。
萩本本人によると、元は東八郎が使っていた走り方を拝借したとか。
なお、「ウケる」「天然」という言葉も萩本欽一発祥の言葉である。
「天然」に関してはジミー大西を見た萩本が「あれを演技でやっているなら天才だ」と感じ、本人を面接したところ、「天然」だったため、残念に思ったことが広まったという。
「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」:淀川長治
日曜洋画劇場の最後に、映画評論家の淀川長治が発していたフレーズ。
小松政夫らが真似をしてギャグにした。
解説が始まったのは、放送の尺が余ったのがきっかけだったとか。
淀川長治が何回、サヨナラというかが賭けの対象になる事件があったとかで、途中から必ず3回になった。
「シェー!」:イヤミ
赤塚不二夫の漫画「おそ松くん」の登場人物イヤミが、独特のポーズを取りながら叫ぶギャグ。
1964年の週刊少年サンデー5月号が初出だという。
今上天皇もジョン・レノンも真似をしたという偉大なギャグである。
なお、イヤミのモデルはトニー谷だという説がある。
イヤミが長髪なのは、当時海外留学を自慢していた連中が、現地の床屋で髪型を指示できるほどの語学力を持っていなかったため、みんな長髪になって帰国して来るのを皮肉ったものだとか。
「冗談じゃないよー」:ビートたけし
ビートたけし扮する下町のオヤジ鬼瓦権蔵がカメラに向かって片手を出しながらつぶやく口癖。
なお、鬼瓦権蔵の名付け親は高田文夫だという。
ちなみにサッカー選手の中山雅史がゴンと呼ばれるのは、この鬼瓦権蔵に似ているからである。
「だいたいやねー」:竹村健一
パイプをくわえながら、政治や国際情勢を語っていた評論家の竹村健一の口癖。
これをタモリが真似をして、このセリフのあと高尚な話ではなく、冷やし中華やアンパンについて真面目に語るという形で笑いをとった。
「だめだこりゃ」:いかりや長介
いかりや長介がコントの最後に口にするセリフ。
「全員集合」ではなく、「ドリフ大爆笑」のもしものコーナーから誕生した。
当初は何気ないひとことだったが、後に決めゼリフとして定着した。
なお、「全員集合」というのはハナ肇の口癖で、後にいかりや長介の口癖にもなったものである。
「ちょっとだけよ」:加藤茶
「タブー」という曲が流れ出すと加藤茶が突如色っぽい目をして、魅惑的なポーズを取るおなじみのギャグ。
いかりや長介は自著の中で、ツッコむタイミングが難しかったと語っている。
「田園調布に家が建つ」:星セント・ルイス
一時期、ツービートのライバルとも言われた星セント・ルイスのギャグ。
他にも「俺たちに明日はない。キャッシュカードに残はない」「近づくな、火事と喧嘩と和田アキ子」というフレーズもある。
「どうもすいません」:初代・林家三平
昭和の爆笑王と呼ばれた先代・林家三平の口癖。
頭に手をやるポーズとともに有名。
元は父親(林家彦六)が使っていたフレーズだとか。
「ナイスですねー」:村西とおる
AVの帝王、村西とおるが多用するフレーズ。
元々、英会話教材のセールスマンとして優秀な成績を上げていた村西には「ゴージャスでございます」など、横文字を使ったものが多い。
片岡鶴太郎などが真似をしたことで世間に広まった。
「ナハッ、ナハッ」:せんだみつお
両手を顔の両側で前後に動かすせんだみつおのギャグ。
ビートたけしが真似をしたことで、人気になった側面もある。
なお、その際、せんだはたけしから使用料2万円をもらったという。
せんだみつおの芸名の由来は「千に三つしか本当のことを言わないから」という説がある。
「なんだ馬鹿野郎」:荒井注
「ディス・イズ・ア・ペン」と並ぶ、荒井注の代表的ギャグ。
元はNGを出した際に開き直ったひとことが発端。
荒井注は、実はいかりやより年上だったが、リーダーより年上なのは変だからと歳をごまかしていた。
自身の葬儀のとき、霊柩車が発車する際、ドリフのメンバーたちからこの言葉で送られた。
「ハラホロヒレハレ」:クレージーキャッツ
有名なフレーズだが、元はクレージーキャッツの面々が一斉にズッコケるときに使われていたフレーズ。
「プッツン」:片岡鶴太郎
奇妙な行動を取る女優を「プッツン女優」と呼んだりするが、片岡鶴太郎が作った造語だと言われている。
頭の線が一本切れているような状態を指す言葉である。
「もみじまんじゅう」:B&B
島田洋七が漫才の最中に何の脈絡もないところで入れてくるギャグ。
相方の洋八には「岡山名物もも」というフレーズがあったが、こちらは全く有名にならず。
このギャグのおかげで、もみじまんじゅうの製造会社にしき堂は大儲けをしたそうで、社長は大変島田洋七に大変感謝しているという。
「やめて、チョーダイ!」:財津一郎
「てなもんや三度笠」内で主人公たちにからむ浪人役を演じていた財津一郎のセリフ。
これが後に「ピアノ売ってチョーダイ!」に変化するわけである。
「喜んでいただけましたでしょうか?」:稲川淳二
番組内で悲惨な目にあわされた稲川淳二が、最後に視聴者に対して呼びかけるフレーズ。
稲川淳二はリアクション芸の元祖ではないかという説があり、ダチョウ倶楽部らに影響を与えたという。
「わかっちゃいるけど、やめられない」:植木等
青島幸男作詞で、植木等が歌った「スーダラ節」の一節。
根が真面目な人だった植木等は、この歌を歌うべきか僧侶である父に相談したところ、この一節は親鸞上人の教えにつながると言われ、歌うことを決意したという。
※世の中にはまだまだたくさんのギャグがありますが、ひとまず昭和の有名どころを集めました。
また追記するかもしれません。
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