今やレジェンド的存在となった「ザ・ドリフターズ」と、その出演番組「8時だョ!全員集合」(以下、全員集合と記載)。
この番組に関するエピソードをまとめました。
8時だョ!全員集合について基本事項
TBS系列にて1969年10月4日から1985年9月28日まで、土曜の夜8時に放送されていた伝説の番組です。
全803回の放送でした。
ただし、中断した時期や総集編などの特番もありました。
ちなみに「全員集合」というタイトルは、ドリフメンバーの芸名を酔っ払った勢いで付けたハナ肇さんの口癖から来ています。
生放送で行われる大仕掛けのコントや幕間のアイドルの歌、豪華ゲストとのコントや合唱コーナーなどが人気でした。
最高視聴率は50.5%で「お化け番組」とも呼ばれました。
30%に下がっただけでも落ち目と言われ、緊急会議が開かれたという逸話があります。
元はコント55号の番組に対抗して作られた
1969年当時はコント55号の人気絶頂期で、フジテレビ系列にて「コント55号の世界は笑う」が高視聴率を記録していました。
コント55号のスピード感あるコントに対抗するには、作り込まれたコントがいいと考えられ、クレージーキャッツの起用が検討されました。
しかし、当時のクレージーキャッツはソロ活動がメインになりつつあったので、同じ事務所(渡辺プロ)の後輩であり、ライブ活動などで観客を笑わせるのに長けていたドリフが抜擢されました。
後に同じフジテレビ系列の「オレたちひょうきん族」に視聴率で抜かれますが、そのあとTBSは「カトちゃんケンちゃんごきげんテレビ」にて返り討ちにしています。
最初はトークやクイズのコーナーもあった
番組開始直後は、コントだけでなく、トークコーナーやクイズコーナーがありました。
しかし、ドリフの面々はそれらを苦手としている節があったので打ち切り、コント中心に切り替えられたいきさつがあります。
加藤茶さんが最初の結婚をした際、披露宴の席で大橋巨泉さんが「司会をやらせてみたけど、本当に下手だった」とあいさつして笑いを取っています。
司会が苦手だったのは、事実だったかもしれません。
第1回目のゲストは坂本九さんや山本陽子さんでした。
なお、最初の1ヶ月ほどはスケジュールの都合で録画放送でした。
志村けんは当初、見習いとして扱われていた
1974年に荒井注さんがドリフを脱退し、志村けんさんに交代したのは有名な話ですが、当初は見習いとして扱われていました。
オープニングでも色付きの半纏を与えられず、エンディングロールでも「見習い」と表示されていました。
引継期間があり、6人で演じていたことも。
しばらくは人気が出ず、低迷していましたが「東村山音頭」の替え歌で大ブレイク。
以降、快進撃が続きます。
全員集合三大事件
三人ドリフ
1981年、仲本工事さんと志村けんさんが競馬のノミ行為で事情聴取を受け、書類送検されたことが発覚。
一ヶ月間、謹慎することになりました。
この間、ふたり不在でコントをすることに。
このとき、荒井注さんや小松政夫さん、井上順さんや前川清さんといった面々が出演を申し出たという逸話があります。
過去に交通事故でメンバーに迷惑をかけた加藤さんが奮起し、この間の視聴率は興味本位もあったとはいえ、40%台を記録しました。
コント中の火事
1977年、コントで使ったピストルの火花が小道具の塗料に引火。
会場の非常ベルが鳴り、コントは中止となりました。
セットに使われた塗料が十分乾いていなかったのが原因でした。
突然の停電
1984年、放送開始直前に会場の電源不備で照明が消えました。
約10分間、音声は生きていたものの、会場は暗いままで、懐中電灯を使ってゲストを紹介するなどして、いかりやさんが場をつなぎました。
懐中電灯で下から照らされるいかりやさんの顔が不気味だったとネタにされています。
復旧後、「8時9分半だョ!」の掛け声とともに番組は始まります。
最初のコントでも冒頭部のあいさつで「今、一番怖いのは停電だ」と、いかりやさんがネタにして笑いを取っています。
各地の公会堂などを収録会場にしていたわけですが、中には古い施設もあり、電源設備も老朽化していたことが原因とされています。
その他のトラブル
加藤茶の交通事故
1970年、加藤茶さんが交通事故を起こし入院。
一ヶ月の間謹慎することになります(途中、あいさつ程度に舞台に立ったという説あり)。
逗子海岸を走行中、わき見運転をしてセンターラインを越え、対向車と正面衝突。
加藤さんは比較的軽傷でしたが、同乗の女性と相手方の3名が重傷を負いました。
2日後の収録でいかりやさんが経緯を説明して謝罪。
加藤さん不在の間は他のメンバーが奮起します。
特に仲本さんは見事だったとのこと。
いかりやさんはこのときのことを引き合いに出し、著書の中で仲本さんに対し「やればできるのにしない、もったいない男」という主旨の一文を書いています。
加藤さんが復帰する際には罵声が飛ぶことが予想されましたが、会場では応援する声が多数でした。
加藤さんが被害者に対して真摯な対応をしたことも好印象だったようです。
細川たかしのケガ
1981年、ゲストの細川たかしさんが坂道を一気に駆け上がるコントでアキレス腱断裂の大怪我。
しばらく入院したため仕事が激減しました。
後にゲスト出演した番組「欽ちゃんのどこまでやるの!?」にて、この件で仕事がないことをネタにしました。
すると、萩本欽一さんから「じゃあ、毎週おいでよ」と声をかけられ、以後レギュラー出演することになります。
番組内で歌っていた「北酒場」が大ヒットして紅白歌合戦にも出場と、数奇な運命をたどることになります。
高木ブーの一時離脱
1984年、高木ブーさんがリハーサル中にアキレス腱断裂。
4ヶ月ほど活動休止となり、一時は音声だけで出演しました。
ブーさんはドリフ脱退を口にしたそうですが、いかりやさんが「バカなことを言うな」と笑い飛ばしました。
その他、生放送だけにタイムスケジュールが狂うなどのトラブルは多々あったということです。
半年間の中断
大人気だった全員集合ですが、1971年に半年間中断しています。
理由は所属事務所社長の意向でした。
同じ事務所のクレイジーキャッツをもう一度復活させたいと考えていた社長が同枠をクレイジーに与えて交代させたのでした。
また、ドリフはブレイク前に日本テレビに育ててもらったという恩義があり、日本テレビの番組にいつか出演するという密約があったという説もあります。
日本テレビでは「日曜日だヨ ドリフターズ!!」という番組が始まり、TBSでは「8時だヨ 出発進行」というクレイジーの番組が始まります。
両者ともそれなりの数字を叩き出しますが、期待したレベルではありませんでした。
そのため、ドリフは再びTBSへと戻ります。
しかし、テレビ局や事務所の思惑だけで自分たちが翻弄されることにいかりやさんは危機感を持つようになります。
この頃からスタッフやメンバーに対するいかりやさんの態度が厳しくなったと言われています。
抗議が殺到したギロチン人形事件
コントの中で、志村さんそっくりの人形の首をギロチンで切るという内容を行ったところ、内容が残酷すぎると抗議が殺到。
ニュースに取り上げられるほどの騒ぎとなります。
このネタについては、フランスで死刑制度が廃止されたというニュースを見たいかりやさんが、死刑制度廃止に対して一石を投じたかったという裏話が伝わっています。
ギロチンといえば、フランスで開発されたものですからね。
しかし、全員集合自体は下ネタを連発したり、食べ物を投げたり、相手を叩くなどというような内容から、「PTAが子供に見せたくない番組」で1位に選ばれていました。
影響力がありすぎたゆえの抗議は、元々多かったということです。
エンディングの加藤茶のセリフについて
エンディングテーマが流れる中、加藤茶さんが「お風呂入れよ」「歯を磨けよ」などと語りかけるシーンは有名です。
子供たちに呼びかけている面ももちろんありますが、実はスポンサーが「ライオン」だったことに対する大人の事情という面もあります。
最終回は高視聴率だった
番組後期はひょうきん族に視聴率競争で敗れるなど苦戦しましたが、1985年の最終回の視聴率は34%の高視聴率を記録し、有終の美を飾っています。
ドリフの全員集合をもう一度見たい方はU-NEXTから見ることができます。
かなりの話数が収録されています。
31日間の無料期間もあります。
無料期間中に全話見ることも可能かも……
お試しください。
<参考文献>
「だめだこりゃ」のレビューについては以下の記事を参照してください。
※参考文献以外にも、ネット上の多数のサイトから情報を参照し作成しました。
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