1582年6月2日、本能寺にて倒れた織田信長。
戦国の風雲児と呼ばれた信長には最後の言葉とされるものが3種類伝わっています。
「是非に及ばず」
これは「信長公記」に書かれている有名な言葉です。
「是非もなし」と表記される場合もあります。
作者の太田牛一が本能寺から脱出した女たちから聞いたとされていて、信ぴょう性が高いとされています。
なお、「女どもはくるしからず。急ぎまかりいでよ」と女たちを逃がした言葉も記録されています。
太田牛一はこの落ち延びた女たちに取材したわけですね。
信長の周囲にいた女性だけに、身分がしっかりしているので、取材ができたと言われています。
言葉の意味ですが、一般的には「仕方がない」という意味に捉えられていいます。
ですが、この「仕方がない」は、何に対して「仕方がない」のかがわかりません。
光秀に背かれたのを「仕方がない」と言っているのか、あるいは光秀のような用意周到な男に包囲されたから、もう逃げ場がないと考えて「仕方がない。観念した」と言ったのか、解釈はわかれています。
学者によっては信長が「仕方がない」と言っているのだから、光秀が逆らうようなことを信長がしたのではないかと見る向きもあります。
一方、本能寺が攻められた段階では、もう現場は大混乱していたと思われます。
そのようなときに「四の五の言っても仕方がない。理由を考えている暇はない」という意味で放った言葉という解釈もあります。
「余は自ら死を招いたな」
これはスペイン人の商人、アビラ・ヒロンが記録している言葉です。
本能寺から脱出した、あるいは一旦捕まったものの、光秀に釈放されたとされる黒人奴隷の彌助がヒロンに伝えたとされています。
これについても解釈が別れています。
まず、光秀を怒らせた、あるいは謀反をさせるなんらかの行動を信長が取ったから「自ら死を招いた」と言ったとする説があります。
一方、光秀の末裔である明智憲三郎氏は、信長と光秀は手を組んで家康を殺すつもりだったが、そこを逆手に取られて「自ら死を招いた」と言っているのではないかという説を取られています。
明智憲三郎説では信長と光秀は共謀して家康を殺そうとしたが、実は光秀と家康こそが手を組んでいたとされています。
(理由については、明智憲三郎氏の著書を読んでください。)
信長が無防備な状態だったのは、家康に疑いを持たせないためだったからとされています。
しかし、それは光秀と家康の作戦だったと。
ただ、秀吉が想定外のスピードで反転してくるという計算外のことが起こりました。
結果、家康も長曾我部元親も光秀に加勢することができず、敗れてしまう形になってしまいました。
なぜ、秀吉が想定外のスピードで反転することができたのかは、別記事で推測しています。
よかったら、読んでみてください。
「城介が別心か」
これは大久保彦左衛門の著書「三河物語」に書かれている言葉です。
江戸時代の著作ですが、上級武士が残している著作です。
なので、江戸時代にはそのような説が広まっていたという解釈もできます。
「城介」というのは、信長の嫡男、信忠のことです。
「本能寺の変」当日は妙覚寺にいましたが、後に二条御所にこもって、明智勢と戦うことになります。
(ちなみに妙覚寺は信長が最も宿舎にした寺でした。本能寺には3回ほどしか宿泊していません。)
この言葉の解釈についても、明智憲三郎氏が面白い説を唱えられています。
信長が光秀と共謀した計画では、信忠は家康とともに5月29日時点では堺の町にいるはずでした。
しかし、なぜか信忠だけ単独で京に上洛しています。
これは信忠が何か危険なものを感じて、信長の身辺を守るために上洛したとも解釈できますが、信長から見れば計画と違う命令違反です。
これを信忠の謀反と信長が見ていて、騒ぎを聞いたとき、信忠を疑ったわけですね。
明智憲三郎氏は、この言葉を商人の茶屋四郎次郎が、京で信長が逃がした女達から聞いたのではないかと推測されています。
この説については漫画化もされていますので、読んでみてください。
興味深い考察を教えてくださる明智憲三郎氏のブログです。
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