虞美人は司馬遷の創作?虞はもしかして項羽の子?

地理・歴史系
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四面楚歌

司馬遷の「史記」、司馬遼太郎の「項羽と劉邦」などでよく知られている秦の始皇帝没後から始まる漢楚攻防戦。
その中でも特に有名な場面が、形勢不利となって城にこもっていた項羽のもとに四方から故郷である楚の歌が聴こえてくる場面です。
このとき、項羽は歌を聴いて、自分の兵士たちはまだ士気が高いと喜びますが、部下から「あれは敵の兵士たちが歌っているのです」と教えられて、もはや自国の兵士さえ敵軍に加わっているのかと嘆きます。
「四面楚歌」という言葉の語源となった出来事ですね。

項羽の舞

このとき項羽は有名な詩を作り、舞を踊ります。

力は山を抜き、気は世を蓋う(おおう)
時、利あらず
騅(すい、馬の名前)行かず、騅行かずはいかんせん
虞や虞や汝をいかんせん

<意訳>
私の力は山を引き抜くほどであり、気力は世を覆うほどであるのに、時は私に味方しなかった。
愛馬の騅も進まなくなった。
騅が進まなくなったことはどうすべきか?
虞よ、虞よ、そなたをどうすべきか?

虞美人の登場はここだけ?

ここに登場する虞というのが、有名な虞美人のことで、常に項羽の元にいた愛妾とされています。
しかし、実は登場するのはこの場面しかありません。
また、虞美人の実在性を証明する資料はひとつも見つかっていません。
あっても、後世の創作だけです。
墓からひなげしの花が咲き、ひなげしが「虞美人草」という別名で呼ばれるようになったのも後世の創作です。
美人というのも容貌を表現してのものなのか、当時の女性の役職名なのかもわかっていません。
このことから、作家の田中芳樹氏は「虞美人というのは司馬遷の創作した女性ではないか?」と推論を述べておられます。
つまり、この有名な詩だけが司馬遷の時代まで伝わっていたものの、虞というのが誰なのかわからない……
もしかしたら、子供の名前なのかもしれないけれど、ここは物語を盛り上げるために女性にしておこう……と、考えたのではないかという説です。

実はみんな項羽が好き?

司馬遷が項羽に対し、同情的なのは、昔からよく言われていることです。
本来なら、自分の仕える王朝の創始者と戦った人物なのですから、もっと悪辣に書いても良いはずですが、最後、わずかな兵士数となっても大軍の囲みを突破したなど、実に華々しい活躍をさせています。
むしろ、劉邦の方が、約束を破ったり、逃げる際に子供を馬車から投げ落とすなど、ひどいことをした人物のように描かれています。
それだけの強敵を我らの先祖は倒したのだ……という演出という見方もできますが、一方で司馬遷は友人であった将軍李陵をかばったため、皇帝(漢の武帝)の怒りを買い、宮刑(去勢され、宦官にされる刑)に処せられていることから、漢王朝に対して恨みを持っていたとも考えられています。

作家の海音寺潮五郎氏は、項羽が先述した詩と舞を披露したあと、虞美人や配下の将軍たちが共に涙を流したという一文を見て、司馬遷は項羽に同情的であると断定しています。
項羽は31歳の若さで死亡しましたが、今から2000年以上前という時代背景から考えて、子供が何人かいてもおかしくはないと思います。
権力者ゆえ、後継者の存在は必要だったはず。
愛妾も何人かいたと考えるのが普通でしょう。
事実関係はわからないですが、虞美人が司馬遷の創作だったとすれば、わずかな表記でここから派生した多くの物語の基本となったわけで、司馬遷はやはり偉大な歴史家であり、作家であると言えますね。


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