「徳川綱吉の雑学まとめ|身長124cm・生類憐れみの令・元禄文化・暗殺説まで徹底解説」

地理・歴史系
記事内に広告が含まれています。

江戸幕府五代将軍・徳川綱吉。

華やかな元禄時代を作り上げた名君と言われる一方、「生類憐れみの令」などの悪法を作った暗君とも言われています。

果たして、その実像はどんなものだったのでしょうか?身長124センチの真相から暗殺説まで、雑学を交えながら徹底解説します。

生まれと家族

1646年1月8日、江戸城生まれ。父は三代将軍・徳川家光、母は玉(のちの桂昌院)です。四代将軍・家綱は兄にあたります。

母の玉は家光の側室でしたが、その出自には謎が多いです。公家の娘という説もあれば、畳屋や八百屋の娘という説もあります。

母・桂昌院と「玉の輿」伝説

綱吉の母・桂昌院(本名:お玉)の出自で有力なのは、京都の八百屋の娘という説です(「八百屋お七」とは別人)。

もともとは公家・本庄宗資の家に仕える侍女でしたが、そこから三代将軍・徳川家光の側室となり、やがて五代将軍の母という地位にまで上り詰めました。

この立身出世が「玉の輿」という言葉の語源という説があります。「玉」はお玉の名前から、「輿」は将軍家の輿(乗り物)から来ているとされています。ただし語源には「黄金の輿」説など諸説あり、確定ではありません。

護国寺を建てさせた影響力

桂昌院の政治的影響力は絶大で、息子・綱吉に頼んで護国寺(東京・文京区)を建立させています(1681年)。現在も都内に残る立派な寺院です。

さらに桂昌院は朝廷から女性として最高位の官位「従一位」を賜ることを望み、綱吉は朝廷へ熱心に働きかけていました。

松の廊下事件(忠臣蔵のきっかけ)が起きたのはまさにその勅使を迎える日のことであり、綱吉が激怒した背景にはこの母親への強い思い入れがありました。

館林城主だったが、ほとんど江戸にいた?

将軍になる前は、上野国館林城主に任命され25万石の大名でした。

しかし、江戸にいて政務を執っていたため、生涯に一度しか館林には行っていないと言われています。

将軍に宣下される

兄・家綱に跡継ぎがいなかったため、兄の養子という形になり、家綱が40歳で亡くなったあと1680年に将軍となります。

この際、家綱の元で大老として権力を握っていた酒井忠清を廃し、側近の堀田正俊を重用しました。一説には酒井忠清は綱吉の資質に疑問を持ち、公家から将軍を迎えようとしていたとも言われています。

先代の家綱は老中たちが決めたことを承諾するだけの将軍でしたが、綱吉は将軍の権威を取り戻すことに尽力しました。老中に対抗するため側用人という将軍の諮問機関ともいうべき役職を新設し、有名な柳沢吉保がその代表的存在となります。

文治政治――前半は名君

まだ戦国の気風が残っていた時代を平和な時代に変えたのが綱吉だと言われています。

綱吉は学問が好きで、とりわけ儒学を愛好しました。湯島聖堂という学問所を作ったのも綱吉です。儒学を重んじたことで朝廷への扱いも厚く、文化的な土壌づくりに貢献しました。

いわゆる赤穂浪士の討ち入りは、この処分に抗議してのものという説もあります。いずれにせよ、治世の前半は名君と言って差し支えない時代でした。

綱吉の時代に花開いた「元禄文化」

徳川綱吉の治世(1680〜1709年)は、日本文化史上でも特筆すべき時代でした。いわゆる「元禄文化」と呼ばれる、上方(京都・大阪)を中心とした町人文化の黄金期です。

綱吉自身が学問・文化に造詣が深く、儒学を奨励し、能を好んだことが文化的土壌を作る一因になったとも言われています。

  • 松尾芭蕉(1644〜1694)
    俳諧を芸術の域に高めた俳人。「おくのほそ道」を書いたのもこの時代(1689年)。「古池や蛙飛びこむ水の音」はあまりにも有名。
  • 井原西鶴(1642〜1693)
    「好色一代男」など、庶民の生活をユーモラスに描いた浮世草子の先駆者。
  • 近松門左衛門(1653〜1725)
    人形浄瑠璃・歌舞伎の脚本家。「曽根崎心中」などで知られ、「日本のシェイクスピア」とも呼ばれます。
  • 尾形光琳(1658〜1716)
    「紅白梅図屏風」などで知られる画家。華やかな「琳派」の代表格。

そうそうたる文化人が同じ時代に活躍していたことを考えると、綱吉の時代が日本文化の一つの頂点だったと言えるかもしれません。

📌 雑学:忠臣蔵(赤穂事件)もまた元禄時代の出来事(1701〜1703年)です。討ち入りした赤穂浪士のドラマは、近松門左衛門らによって早速、浄瑠璃や芝居の題材にされました。

後半は暗君?

治世の後半、飢饉や大火事、地震などが頻発したため、当時の人々は政治が悪いからだと考えました。

貨幣の改鋳に失敗し、粗悪な貨幣が流通することもありました。また、大名を改易したり処罰することも多くなっていきます。

そんな中、有名な「生類憐れみの令」という法律が作られたことで、後半の評価は著しく下がることになります。

生類憐れみの令の「珍規定」――犬だけじゃなかった

「生類憐れみの令」は1685年(貞享2年)から1709年(宝永6年)まで約25年間にわたって出され続け、改訂を重ねるうちにどんどん細かく・奇妙になっていきました。

当初は病人や子供を捨てるなという意味もあり、むやみに動物を殺してはならないという趣旨でした。戦国の気風が残り、命を粗末に扱う者が多かった時代において、本来は「命を大切に」という意味合いで作られたものです。

しかし100回以上の改訂を重ねるうちに本来の主旨と違う方向に変わっていき、以下のような珍規定が生まれていきました。

  • 犬を殺した者は死罪……繰り返し改訂される中で厳罰化が進みました。
  • 魚・貝・鳥の売買禁止……一時期は魚屋や鳥屋が商売できない状態に。食文化にも影響が出ました。
  • 川で魚を取ることの禁止……漁業にも影響し、庶民の生活を直撃しました。
  • 馬を荷物の重さで痛めることも違反……動物全般への配慮が求められました。
  • 蚊・蚤を殺してもNG(という説も)……これは誇張された逸話の可能性が高いですが、それだけ庶民の不満が大きかったことの証左です。

「犬屋敷」のスケールが異常だった

綱吉は野良犬の保護のため、現在の東京・中野に「犬屋敷」を設けました。最盛期にはその規模は約25万坪(東京ドーム約17個分)にも達し、収容された犬の数は最大で8万〜16万頭という説もあります。

その維持費は幕府財政を圧迫し、餌代だけで年間数万両(現代換算で数十億円規模)に達したという説もあります。「犬公方」という渾名はまさにここから来ており、庶民の不満は相当なものでした。

なお、「犬公方」と呼ばれたのは、綱吉が戌年の生まれだったため特に犬を大事にしたからだとも言われています。

📌 雑学:綱吉が死去した直後、「生類憐れみの令」は速やかに廃止されました。江戸市中では庶民が歓声を上げたという記録も残っています。

再評価する声も

近年の歴史研究では、綱吉を「暗君」と一方的に断罪する見方は見直されつつあります。

側用人という制度も、老中に実質的に支配されていた政治を将軍のものに取り戻すという意味があったとされています。老中たちに対抗する側用人を作ることで、政治のバランスを保ったのです。

生類憐れみの令についても、その本来の趣旨は「命を大切に」であり、戦国以来の暴力的な気風を改めるという観点では先進的な発想だったとも評価されています。

柳沢吉保――有能な側用人か、権力の亡者か

綱吉の側近として絶大な権力を握った柳沢吉保(やなぎさわよしやす)は、時代劇では小悪党として描かれることが多い人物です。しかし実際には非常に優秀な行政官だったとされています。

  • 側用人として老中をしのぐ権力を持ち、最終的には15万石の大名にまで取り立てられた
  • 現在の東京・文京区に名園「六義園(りくぎえん)」を造営(1702年完成)。現在も都立庭園として公開されており、桜と紅葉の名所として親しまれている
  • 綱吉の死後は速やかに権力から退き、甲府藩主として穏やかな余生を送った

一説には、吉保の側室との間に生まれた子(柳沢吉里)を綱吉が将軍の後継にしようとしたことが、正室・鷹司信子の怒りを買い、暗殺の動機になったという説があります。

📌 雑学:六義園はJR駒込駅から徒歩7分の場所にあり、春の枝垂れ桜は特に有名。吉保が設計に深く関わった「大名庭園の傑作」と称されています。

悪役イメージがあるのはなぜ?

これは時代劇のイメージが大きいです。

『水戸黄門』で有名な徳川光圀は「生類憐れみの令」に反対だったとされており、綱吉に犬の毛皮を送りつけたと言われています。そのため、光圀を主役とするドラマの中では綱吉は悪役で、その子分である柳沢吉保は小悪党のように描かれています。

また『忠臣蔵』でも、吉良上野介義央を処分しないのに浅野内匠頭を処分したため、悪役のイメージがついてしまいました。当時は江戸城内で刀を抜けば喧嘩両成敗が通常でしたが、吉良は処分されず、浅野内匠頭は前列よりも厳しい処分がされました。

現代でも人気がある2作品で悪役扱いを受けているため、暗君だったように扱われてしまうようです。

暗殺説がある?

徳川綱吉は1709年1月10日にはしかで亡くなったとされていますが、正室である鷹司信子に刺し殺されたという説があります。

事件のあった部屋は大奥の「宇治の間」という部屋で、開かずの間として恐れられたといいます。

刺殺理由は、側近・柳沢吉保の側室との間に綱吉は子(柳沢吉里)をなしていたとされ、その子を次期将軍にしようとしたからだと言われています。信子は綱吉を刺殺したあと、自らも自殺したとか。

綱吉は死の直前の1月8日に誕生日を迎えていますが、その祝賀に参加できるほど元気だったと言われています。信子は公式には綱吉が没した一ヶ月後(2月7日)に同じくはしかで亡くなっているとされています。

なお、はしかで弱っていたときに餅を食べて喉を詰まらせて死亡したという説もあります。

身長124センチ――低身長の真相

この記事のタイトルにもなっている「124センチ」という身長について、詳しく見てみましょう。

愛知県岡崎市に大樹寺という徳川家および松平家の菩提寺があります。そこには歴代将軍の位牌があり、位牌のサイズは歴代将軍の身長と同じだという説があります。これは後世に芝の増上寺で歴代将軍の遺体が科学的に調査された際にほぼ証明されています。

綱吉の位牌は124センチで、低身長症だったのではないかと言われています。現代の感覚では小学1〜2年生ほどの身長です。

当時の日本人男性の平均身長(成人で155センチ前後と言われる)と比べても、かなり小柄だったことがわかります。一説には、この低身長がコンプレックスとなり、強権的な政治姿勢につながったとする見方もありますが、実際の綱吉は儒学や能など文化・学問に自信を持っていたと伝わっています。

📌 雑学:歴代将軍の中で最も身長が高かったのは徳川家斉(11代)で約156センチ、最も低かったのが綱吉と言われています。大樹寺の位牌は初代・家康から15代・慶喜まで全員分が揃っており、「歴代将軍の身長博物館」とも呼べる貴重な史跡です。

その他の逸話

能が好きで、絵心もあったと言われています。儒教への造詣も深く、文化人としての側面も持ち合わせていました。

将軍としては珍しく、自ら論語の講義を行い、大名や旗本を集めて儒学を講じることもあったと伝わっています。

最後に――名君か、暗君か

名君か、暗君かは評価の分かれるところですが、少なくとも治世の前半は名君だったと言えます。

また、何もしない飾りだけの将軍ではなく、自ら政治を主導したこと、主導する力を持っていたことは評価されてもいいと思います。

松尾芭蕉が「おくのほそ道」を書き、近松門左衛門が「曽根崎心中」を生み出し、赤穂浪士が討ち入りを果たした「元禄」という時代。その時代のど真ん中にいた人物が徳川綱吉でした。

時代劇の悪役イメージだけで判断するにはあまりにも惜しい、奥の深い将軍です。

コメント

タイトルとURLをコピーしました