江戸幕府五代将軍・徳川綱吉。
華やかな元禄時代を作り上げた名君と言われる一方、生類憐れみの令などの悪法を作った暗君とも言われています。
果たして、その実像はどんなものだったのでしょうか?
生まれなどについて
1646年1月8日江戸城生まれ。
父は三代将軍・徳川家光、母は玉(のちの桂昌院)です。
四代将軍・家綱は兄にあたります。
母の玉は家光の側室だった人物ですが、出自には謎が多いです。
公家の娘という説もあれば、畳屋や八百屋の娘という説もあります。
「玉の輿」という言葉の語源となった人物という説もあります。
館林城主だったが、ほとんど江戸にいた?
将軍になる前は、上野国館林城主に任命され25万石の大名でした。
しかし、江戸にいて政務を執っていたため、生涯に一度しか館林には行っていないと言われています。
将軍に宣下される。
兄、家綱に跡継ぎがいなかったため、兄の養子という形になり、家綱が40歳で亡くなったあと将軍となります。
1680年のことです。
この際、家綱の元で大老として権力を握っていた酒井忠清を廃し、側近の堀田正俊を重用しました。
一説には酒井忠清は綱吉の資質に疑問を持っていて、公家から将軍を迎えようとしていたと言われています。
また、先代の家綱は老中たちが決めたことを承諾するだけの将軍でしたが、綱吉は将軍の権威を取り戻すことに尽力しました。
老中に対抗するため側用人という、将軍の諮問機関とでも言うべき、別の役職を作りました。
有名な柳沢吉保が側用人の代表的存在です。
文治政治
まだ戦国の気風が残っていた時代を平和な時代に変えたのが綱吉だと言われています。
綱吉は学問が好きで、儒学を特に好んだと言われています。
湯島聖堂という学問所を作ったのは綱吉です。
また、儒学を好んだため、朝廷の扱いも良かったと言われています。
ちなみに忠臣蔵で有名な松の廊下事件が起こったのは、朝廷からの勅使があいさつに来る日のことでした。
母親孝行だった綱吉は母に女性としては最高の官位を朝廷から授かろうと、朝廷にご機嫌伺いをしていたのです。
綱吉が怒って、浅野内匠頭を即日切腹させたのはそのためだったと言われています。
大名が即日粗末な場所で切腹し、お家取り壊しというのは前例に比べると厳しい処分でした。
いわゆる赤穂浪士の討ち入りというのは、この処分に抗議してのものだという説もあります。
いずれにせよ、治世の前半は名君と言って差し支えない時代でした。
後半は暗君?
治世の後半、飢饉や大火事、地震などが頻発したため、当時の人々は政治が悪いからだと考えました。
貨幣の改鋳に失敗し、粗悪な貨幣が流通することもありました。
また、大名を改易したり、処罰することも多かったようです。
そんな中、有名な「生類憐れみの令」という法律が作られたものですから、後半の評価は高くありません。
再評価する声も
「生類憐れみの令」については、当初は病人や子供を捨てるなという意味もありました。
また、むやみに動物を殺してはならないという意味もありました。
先述したとおり、綱吉の時代まではまだ戦国の気風が残っていたために、命を粗末に扱う者が多かったのです。
本来は命を大切にという意味合いで作られたものです。
この法律は100回以上、規定が変更されているのですが、そのたびに細かくなってしまい、本来の主旨と違う方向に変わったと言われています。
なお、「犬公方」と呼ばれたのは、綱吉が戌年の生まれだったため、特に犬を大事にしたからだと言われています。
側用人という制度についても、老中に実質的支配されていた政治を将軍のものに取り戻すという意味があったとされています。
老中たちに対抗する側用人を作ることで、政治のバランスを保ったのです。
悪役イメージがあるのはなぜ?
これは時代劇のイメージが大きいです。
『水戸黄門』で有名な徳川光圀は「生類憐れみの令」に反対だったとされており、綱吉に犬の毛皮を送りつけたと言われています。
そのため、光圀を主役とするドラマの中では綱吉は悪役で、その子分である柳沢吉保は小悪党のように描かれています。
また『忠臣蔵』でも、吉良上野介義央を処分しないのに、浅野内匠頭を処分したため、悪役のイメージがついてしまいました。
当時は江戸城内で刀を抜けば、喧嘩両成敗が通常でした。
しかし、吉良は処分されず、浅野内匠頭は先述したように前列よりも厳しい処分がされました。
現代でも人気がある2作品で悪役扱いを受けているため、暗君だったように扱われてしまうようです。
暗殺説がある?
徳川綱吉は1月10日にはしかで亡くなったとされていますが、正室である鷹司信子に刺し殺されたという説があります。
事件のあった部屋は大奥の「宇治の間」という部屋で、開かずの間として恐れられたといいます。
刺殺理由は、側近、柳沢吉保の側室だった女性との間に綱吉は子(柳沢吉里)をなしていたとされ、その子を時期将軍にしようとしたからだと言われています。
信子は綱吉を刺殺したあと、自らも自殺したとか。
綱吉は死の直前の1月8日に誕生日を迎えていますが、その祝賀に参加できるほど元気だったと言われています。
信子は、公式には綱吉が没した一ヶ月後(2月7日)に同じくはしかで亡くなっているとされています。
ちなみにはしかで弱っていたときに餅を食べて、喉を詰まらせて死亡したという説もあります。
その他の逸話
愛知県岡崎市に大樹寺という徳川家および松平家の菩提寺があります。
そこには歴代将軍の位牌があるのですが、位牌のサイズは歴代将軍の身長と同じだという説があります。
これは後世に芝の増上寺で歴代将軍の遺体が科学的に調査された際にほぼ証明されています。
綱吉の位牌は124センチで、低身長症だったのではないかと言われています。
能が好きで、絵心もあったと言われています。
先述したように儒教への造詣も深いものがありました。
文化人としての側面もあったようです。
最後に
名君か、暗君かは評価の分かれるところですが、少なくとも治世の前半は名君だったと言えると思われます。
また、何もしない飾りだけの将軍ではなく、自ら政治を主導したこと、主導する力を持っていたことは評価されてもいいと思います。
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