木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか? 木村政彦とは何者か?

スポーツ系

はじめに

標記の物騒なタイトルの本の広告を新聞などはありませんか?
筋骨たくましい若い男が腕組みしている写真とともに掲載されていたはず。
※下の写真参照。ちなみにこれは18歳頃の写真で全盛期はもっと筋肉が発達していました。


この若い男は柔道史上最強と言われ、15年間不敗、13年連続日本一、天覧試合も制した木村政彦7段です。
その凄まじい強さから「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と言われた史上最強の柔道家です。
しかしながら、それほどの強さを誇りながら、その名前は一部の格闘技ファンや柔道ファンにしか知られていません。
ここまで物凄い実績のある木村政彦が、なぜ不遇な扱いを受けているのか?
この本は作家で柔道経験者でもある増田俊也氏が丹念に取材と資料精査をしてまとめ、木村政彦の事績をたどって、名誉回復に向けて書かれた名著です。
あとがきまで含めて700ページ近くあり、しかも二段組という分厚い書籍ですが、文体は読みやすく、なにより作者の熱意を感じるので一気に読ませてくれます。
ここではこの本の内容をたどる形で、木村政彦のことや、当時の柔道、格闘技に関する雑学を記します。

柔道の誕生

そもそも柔道というものは、明治維新によって武家の時代が終わり、各地に伝わる武術が忘れ去られようとしていたのを嘆いた嘉納治五郎(講道館柔道の創始者で灘中・灘高の創設者でもある)が保存に動いたのを始まりとしています。
当初は柔術とも呼ばれていました。
今は柔道といえば、講道館流一色ですが、当時は様々な流派が存在し、講道館もそのうちのひとつにすぎませんでした。
ちなみに、物語で有名な「姿三四郎」は、嘉納治五郎の弟子であった西郷四郎がモデルとされています。
当初は武術であったので、嘉納治五郎は立ち技での殴り合いなども柔道の一部に含めていましたが(今の総合格闘技に近い)、後にルールが整理され、殴り合いなどの当て身禁止、抑え込みは30秒すれば勝ちなどという形にされました。
近年はタックルまで禁止され、ポイント制にまでなっています。
しかし、それはあくまで講道館流柔道の話で、それ以外にも武徳会、旧帝大同士で行われていた高専(七帝)柔道などでは、相手が参ったと降参するまで続けるようなルールだったり、相手を寝技に引き込むため、自分が先に寝転んで相手が仕掛けてくるのを待ってもいいルールもありました。
そのため決着がつくまで30分かかるような試合もあったということです。
ちなみに「講道館」、「武徳会」、「高専柔道」が第二次世界大戦終了時まで残った3つの主流流派です。

若き日の木村政彦

木村政彦は1917年9月10日、現在の熊本市に当たる地域で生まれました。
貧しい家庭だったようで、幼い頃から父親とともに川の底から砂利をすくう仕事を手伝い、自然とそれによって足腰が鍛えられたそうです。
力が強かったので自然とガキ大将になりましたが、柔道の心得があった教師に軽くあしらわれたのを機に自分も柔道を習い始めます。
地力の強さもあり、メキメキと上達。
当時、激戦区の九州でもナンバーワンの強さを誇った鎮西中学からスカウトされ、さらにその強さを極めていきます。
その強さは本物で、中学にしてすでに四段という異例の昇段をしていました。
この頃、現在の柔道でも主流として使われている技である腕がらみ(相手の腕を捻った形で固め、力を入れたら骨折する技)を開発していました。
その後、木村の強さを知った牛島辰熊という当時の達人から拓殖大学にスカウトされ上京します。
鬼の牛島と呼ばれたこの師匠には、さすがの木村も当初はかなわず、簡単に投げ飛ばされていたということです。
しかし、そこから一日10時間にも及んだという猛練習で実力をさらに高め、日本では初と言われたウエイトトレーニングにも取り組み、圧倒的な力を手に入れました。
現在の科学では間違っていますが、寝ている間は練習をしていないと言って、睡眠時間まで削っていたそうです。
全盛期はベンチプレスで250キロを挙げ、握力を測ろうとしたら、握力計が壊れたと言われています。
障子の枠組みを左右から挟んで破壊したとか、タタミを団扇代わりにして師匠を扇いだなどという伝説もあります。
当時の武勇伝として、愚連隊と喧嘩し、それを止めに来た警察官共々、全員を叩きのめしたというエピソードもあります。

生涯唯一の完敗

無敵の強さを誇った木村ですが、若い頃には敗北も経験しています。
宮内省(当時)主催の若手五段を対象とする大会で、木村は二敗します。
そのうちひとつは技をミスしたところを返されての未熟ゆえの自滅でしたが、もうひとつは相手に子供扱いされた完敗でした。
木村に勝ったのは阿部謙四郎という人物で、柔道だけでなく、合気道の開祖、植芝盛平から合気道の教えも受けていた人物でした。
合気道に長けた阿部に、木村は力まかせの技を華麗に受け流され翻弄されます。
一本負けこそしなかったものの、完敗といっていい内容の判定負けでした。
この負けにショックを受けた木村は、荷物をまとめ、故郷に帰ろうとしたほどだったとか。
しかし、仲間から一喝されてとどまり、より精進を積んだ木村は、これより後、柔道で負けることがありませんでした。
阿部に対しても雪辱を果たしています。

決して品行方正な人物ではなかった

柔道に関してはストイックな木村でしたが、中学時代から女郎屋通いをしていたなど、決して品行方正な人物ではありません。
大酒飲みで喧嘩もよくしたと言われ、地元のヤクザとも付き合いがありました。
よその飼い犬を殺して肉を食べたとか、味噌代わりに糞を混ぜて同僚に食べさせたとか、悪質ないたずらもしています。
しかし、その反面、愛嬌もあり、女性にモテたともいいます。
戦時中は自分をいびった上官に対し、仕返しをしたなどというエピソードもあります。
なお、親交のあった人物として、合気道の達人・塩田剛三や「空手バカ一代」で知られる大山倍達がいます。
師匠の牛島は極右思想の持ち主で、木村を遣わして東条英機を暗殺させようとしたほどの人物でしたが、木村自身は政治や思想に興味はなかったそうです。

栄光……そして戦争、戦後

阿部に敗北した後は連戦連勝、全日本選手権、天覧試合を勝ち、数々の栄誉を手にします。
あまりの強さに、他校に出稽古した際は、練習相手がケガをするので、得意の大外刈りや腕がらみなど、いくつかの技を使用禁止にされました。
しかし、戦争の勃発とともに兵役に就くことになり、敗戦後は生活が苦しくなります。
戦後、生活費捻出のために闇屋の経営や、押し売りに近いようなこともしていたということです。
そんな中、練習不足であったのに、全日本選手権に出場し、圧倒的な強さで優勝するなど、桁外れの実力を見せつけています。

プロ柔道の世界へ

戦後、GHQによって、柔道は日本精神を伝える危険なものとみなされるようになりました。
その結果、武徳会と高専柔道は事実上、廃止、解体されます。
唯一、講道館のみがスポーツとしてアピールしたことで存続を許されました。
牛島や木村は講道館のスポーツ化した柔道から一番遠い位置にいて、批判をしていた人物です。
到底これは妥協できるものではありませんでした。
しかし、そうは言っても、戦後、柔道家たちは生活が苦しくなり、他の仕事をしないと家族を養えない状態となっていました。
そんな事情から、木村は師匠の牛島とともにプロ柔道を創設し、多くの柔道家を招きます。
ここでも木村は一度も負けることがありませんでした。
このプロ柔道は、当初は注目され、人気を博しましたが、地方巡業が盛り上がらず、スポンサー企業の経営難もあって、選手への給料も払えない状況となりました。
しかも、タイミングが悪いことに、木村の妻が肺病となり、金が必要となります。
そんなとき、興行師からハワイに来ないかと誘われ、高額の報酬欲しさに、牛島の元を去り、木村はハワイへと渡ります。
ハワイではプロレス的な興行を行っていたそうです。

ブラジルへ。グレイシー柔術との対決

日系人が多いブラジルから、柔道指導とプロレス興行のため招待されます。
当時、ブラジルでは柔道を独自に改良し、特に寝技を得意とするブラジリアン柔術が名を上げつつありました。
その使い手がエリオ・グレイシーという人物(有名なヒクソン・グレイシーの父)で、木村に同行していた柔道家を破るほどの実力でした。
エリオ・グレイシーと木村はついに対戦することになりました。
ブラジル遠征中、毎日酒を飲み、女を抱き、ろくに練習もせず、全盛期に比べて太っていた木村でしたが、エリオを得意の腕がらみで圧倒し、返り討ちにします。
エリオは実際に腕が折れていてもギブアップしないほど耐えていましたが、エリオの兄が負けを認めて試合を止めたため、木村の勝ちとなりました。
これ以降、グレイシー柔術の世界では、木村に対する尊敬の念を込めて、腕がらみのことを「キムラ」または「キムラロック」と名付けて、今に伝えています。

プロレスラーに完全転身、そして力道山と対決するも……

日本帰国後は力道山と手を組み、プロレスの世界に身を投じます。
プロレスはショーとしての一面があるため、台本通りに何度か敗れています。
しかし、木村側も力道山の引き立て役ばかりとなることに不満を感じ、「真剣勝負なら負けない」という発言をしたことから、力道山と対決することになります。
「昭和の巌流島」と呼ばれたこの試合は、「NHK」と「日本テレビ」しかテレビ局がない時代に、両方の局で放映されたので、視聴率100%を記録し、テレビがない家庭の人間は街頭テレビに列をなして見るなど、世間の注目を集めました。
この試合で、木村は力道山に不可解な負けを喫します。
木村側の証言によると、初めから力道山との対決は1試合で終わらせるつもりはなく、勝負とは言ってもあくまでプロレスなので、初戦は引き分けとし、あとは順番で勝敗を繰り返して巡業しようという台本を作り、約束をしていたといいます(ただし、当時、プロレスに台本があると世間は思っていませんでした)。
実際、木村は前日も大酒を飲み、特に意識することなく、試合に挑んでいたそうです。
しかし、突如、力道山が台本にないやり方で攻めて来たため、戸惑っている間に右ストレート(反則)を喰らい、フラフラになったところを連続して技を受ける形となり、結果、無残なKO負けとなりました。
レフェリーが力道山側の用意した人物であったり、木村側は打撃技を禁止されているのに、力道山側は空手チョップのみ認める(実際は張り手やパンチなども使っていた)などルールに不公平なところがあったりと、結果的に木村はだまされて惨めな姿を晒すことになりました。
この約束破りに、このあと両者の後援者である裏社会の人間なども混じって大騒ぎになりました。
木村と親交のあった空手家の大山倍達は怒りのあまり、試合終了直後、その場で力道山への挑戦を申し込んだほどです。
木村は名誉挽回のため、力道山に再戦を要求しますが、以後、力道山は勝負を受けず、木村もプロレスの世界から身を引きます。
木村や大山は普段から刃物を持って、力道山に復讐する機会を狙っていたと言われています。
しかし、木村は妻の病気治療のため、金を必要としていたので、のちに後援者同士を交えて金銭が動き、手打ちが行われました。
大山は仕返しをしない木村に失望し、袂を分かつことになります。
プロレス側から見れば、「プロレスの将来のために負けるわけには行かなかった。約束を破ったのは仕方がなかった」「油断した木村が悪い」「プロレスをなめていたからこうなる」「プロレスが真剣勝負だと証明できた」「力道山の闘争本能がそうさせた」「これもプロレス」などと、勝った者だから言える理屈で、この試合を肯定的に捉えています。
結果的にこの試合によって、後のプロレスの隆盛につながっていったのは事実です。
手打ちはされたものの、後に力道山が刺されて死亡した際(医療ミス説もある)、「俺が念を送って奴を呪い殺した」という主旨の発言を木村はしています。
いつまでも心のしこりとなって残っていたようです。

晩年、そして後世の評価

その後、木村は騒動を避けるように世界周遊をし、途中、グレイシーの弟子と対決してこれを倒すなどしています。
帰国後は母校の拓殖大学に指導者として戻り、全国制覇を達成。
弟子のひとりは日本一になるなど、指導者としても結果を残しています。
しかし、この偉大なる柔道家は、講道館一色となった戦後の柔道界からは、プロ柔道に参加したこと、プロレス活動のこと、講道館を批判していたことなどがネックとなり、無視されたままとなっています。
7段のまま昇段もされず、柔道の殿堂にも入っていません。
長く名前さえ忘れられていましたが、アメリカで行われた総合格闘技の大会で、優勝したホイス・グレイシー(エリオの息子)が木村の名前を出したことで、日本でも再び知られることになりました。
そして、冒頭の書籍が話題になったことで、再評価が進んでいます。
木村政彦と対戦した人物や弟子によると、全盛期の木村の強さはとんでもないレベルで、近年最強と呼ばれる山下泰裕でさえ問題にならないだろうと語っています。
弟子のひとりは「世界選手権で戦った相手の誰よりも、50代の木村先生のほうが強かった」とまで話しています。
懐古主義者による過去の美化かと思うかもしれませんが、あながちそうとも言えません。
今の柔道はポイントを取り合うような柔道ですが、当時は一本を取るか、相手が参ったというまで試合を続けるような柔道であり、試合そのものの質が違います。
競技人口も今よりずっと多い時代でした。
その中で連戦連勝だったのだから格が違うというのもうなずけます。
これだけの実績を残した木村政彦ですが、1993年に75歳で亡くなったとき、力道山に負けた相手という程度にしか報道されませんでした。
時代が時代なら国民栄誉賞をもらっていても不思議ではない人物。
再評価が進むことに期待したいですね。

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