ミスタープロ野球と呼ばれる長嶋茂雄氏。
その伝説は多くのところで語られているので、ここではあまり知られていないエピソードを紹介します。
長嶋茂雄氏に関する基礎知識
長嶋茂雄氏は1936年2月20日、千葉県佐倉市出身。
国民栄誉賞を受賞し、2000本安打、400本塁打、通算打率3割以上などの記録を残している説明不要の名選手です。
しかし、数字よりも数多くの逸話を残す、記憶に残る人物ではないでしょうか。
トリプルスリーを実は達成していた?
プロ野球界で、年間で打率3割30本塁打30盗塁を達成することをトリプルスリーと言います。
長打力だけでなく、脚も速くないといけないことから、かなり困難で達成者は少ないです。
実は長嶋氏はルーキーの年にこの記録を達成していました。
しかし、なぜか達成者に名前が載っていません。
実は、30本塁打を達成したのに、ベースを踏み忘れてアウトとなって、1本損しているのです。
ルーキーの年に達成していれば、空前絶後の記録であっただろうに、実に長嶋氏らしいエピソードです。
南海ホークスへの入団が内定していた?
後にミスター・ジャイアンツとも呼ばれる長嶋茂雄氏ですが、南海ホークスに入団直前というところまで話が進んでいました。
元日本ハム監督としても知られる故・大沢親分が、長嶋氏の立教大学時代の先輩で、当時は南海ホークスの選手でした。
まだドラフトなんてものがなく、縁故などで入団していた時代でした。
大沢氏は長嶋氏を入団させるために、前年、南海が獲得したという話までありました。
その大沢氏のルートで入団が決まりかけていたのですが、最後は金で揉めたそうです。
南海側は長嶋氏に入団を前提に早くから栄養費という名目で、毎月多額の小遣いを渡していたそうですが、南海はその分を契約金から差し引くと話したとか。
金額の多寡以前に、そのことで長嶋氏側に不信感ができたらしく、そのことを聞きつけた巨人に強奪されたとのこと。
詳細は野村克也氏の著書に何度か取り上げられています。
いわば、関西特有のドケチ根性が裏目に出たわけですが、このことがなければ、今よりずっと人気のなかった時代のパリーグだけに、ミスターと呼ばれる偉大な選手は生まれなかったかもしれません。
人生にはターニングポイントというものがにあるんだなということを教えてくれます。
デビューから引退するまで、すべての年でベストナインに選出されている。
記録よりも記憶に残る選手と言われていますが、空前絶後の記録をひとつ作っています。
デビューの年から引退する年まで17年間、すべての年でベストナインに選ばれているのです。
激戦区のサードで選ばれているのだから、いかに人気選手だったとはいえ、素晴らしいことです。
ちなみにオールスターゲームについても、17年連続ファン投票1位という大記録を作っていますが、負傷のため1964年シーズンだけ出場を辞退したので、こちらは皆勤とはいきませんでした。
天覧試合での打率、ホームラン数も1位です。
公式戦、オールスター、日本シリーズとすべてにおいて打率3割以上を達成しているのもただひとりです。
大舞台にいかに強かったかを物語る記録ですね。
誘拐されかけたことがある?
長嶋氏には誘拐されかけたという逸話があります。
犯人グループたちは長嶋氏の帰宅ルートを探り、車同士をぶつけ、出て来たところを誘拐しようと考えていました。
しかし、一回目は突如、長嶋氏が帰宅ルートを変えたことから失敗。
二回目は犯人グループのひとりが怖くなって自首したので未遂に終わります。
長嶋氏がなぜ帰宅ルートを突然変えたのかについては、「なんとなく角を曲がったほうがいいと思ったから……」と、この人らしい天性の勘が働いたとのことです。
なお、自身が誘拐されることはありませんでしたが、球場に息子を忘れたエピソードは有名です。
また、ビートたけしがよくテレビで話しているネタでは、長嶋氏がたけしをゴルフに誘ったが、当日ゴルフ場で出会ったら、「やあ、たけちゃん、今日は誰と回るの?」と言われたという話も有名です。
練習の鬼だった?
天才肌と言われる長嶋氏ですが、練習も人一倍していたと言われています。
野村克也氏は「王と長嶋が誰よりも練習するから、他の連中はサボれなかった。それが巨人の強さにつながった」と語っています。
「なぜ、そんなに辛い練習を続けるのか?」と野村克也氏が尋ねると、「大好きな野球を仕事にしているのに、辛いわけがない」と語ったとか。
また、「ファンは自分を見に来ているのだから、無様な姿は見せられない」とも語っていたとか。
何もかもが伝説になる。
まさにスーパースターと言える存在ですね。
コメント