新喜劇の重鎮、元は漫才師
吉本新喜劇の重鎮、桑原和男は、昔、原アチ郎・コチ郎というコンビ名で漫才をしていました。
本名は九原一三(くはら・かずみ)。
北九州小倉の出身で、親は漁師だったとか。
本人も漁が好きで幼い頃から親について漁に出ていたそうで、将来は漁師になるかなと思っていたらしいです。
しかし、船酔いをする体質だったらしく、断念したというオチがついています。
いとし・こいしに弟子入り
その後、小学校教師を目指しますが、こちらも断念。
漫才師に興味を持ち、「漫才の教科書」とまで呼ばれた名コンビ、夢路いとし・喜味こいしのふたりに弟子入りします。
いとし・こいしのふたりは「弟子が師匠と同じ漫才をしても意味がない」と、弟子を取らない主義でした。
しかし、中学卒業時に弟子入り志願してきた桑原少年に、「高校出たらまたおいで」と言ってしまいました。
「まさか来ないだろう」と思っていたら、三年後、本当に来てしまったため、断れなくなって弟子にしたというエピソードが伝わっています。
新喜劇で活躍
漫才では賞を取るようなところまで行きませんでしたが、その後、吉本新喜劇の前身である吉本ヴァラエティに入団。
芝居の才能に目覚めることとなり、新喜劇の大御所と呼ばれるほどの存在となりました。
特に小柄だったことから女性役を演じるようになり、「和子のおばちゃん」はハマリ役となります。
なお、時折、他の劇団員と漫才コンビを組み、地方公演などで演じることがあったそうです。
しかし、超一流漫才師唯一の弟子であるというのに、漫才で活躍できなかったことを申し訳なく思っていると語ってもおられます。
恩返しを提案
のちにいとし・こいしの芸が、大阪市無形文化財となった際、「授賞式に着ていく服を恩返しにあつらえさせてほしい」と提案したものの、「弟子が余計な心配せんでええ」と断られたとか。
しかし、その気持ちはうれしかったと喜味こいしは本に書いています。
最後は本名で終えたい
いとし・こいし師匠も鬼籍に入られ、桑原和男自身も高齢となりましたが、人生を終了するときは「桑原和男」という芸人としてではなく、本名の「九原一三」というひとりの一般人として終えたいという考えを持っているということです。
余談
ちなみに同じ吉本新喜劇で活躍中の池野めだかも、元々は漫才師で、海原かける・めぐるというコンビを組んでいました。
月亭八方は未だに池野めだかのことを「めぐるくん」と呼んでいます。
なお、このときの相方、海原かけるは海原やすよ・ともこの父です。

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