茶道を大成させた茶人、千利休。
元は田中与四郎という名前の堺の商人です。
実家は倉庫業と魚の取り扱いで儲けていました。
豊臣秀吉の側近としても有名な人物ですが、確かな記録として文献に現れるのは50歳以降のことで、実は前半生については不明な点が多い人物でもあります。
この千利休が本能寺の変の黒幕であるという説があります。
動機としては、堺の豪商出身である利休が、信長が自由社会である堺の町を支配することを恐れて、光秀をそそのかしたということになります。
本能寺の変の直前、光秀と愛宕で連歌をした里村紹巴は利休とも親しい人物です。
確かに彼を通じて光秀に何かを吹き込むことや、近づくことは十分可能だったでしょう。
信長が少人数で京都本能寺にやってきたのは、名物茶器を持つ博多の商人、島井宗室が京都に来ていたからという説があります。
この名物茶器をエサに信長を呼び出したというわけですね。
なお、徳川家康も本能寺の変当日は堺の町にいました。
このあたりも何か匂うものがあります。
一方で、堺の商人と博多の商人は信長に贔屓してもらうために争っていたという説もありますので、念のためお伝えしておきます。
利休は秀吉に急に重用されますが、結局、切腹させられます。
切腹の原因は今も不明とされています。
切腹は命じられておらず、追放されただけで、その後九州で目撃されたという記録もあります。
しかし、切腹の理由が本能寺の変に関わっていたからと考えれば、納得がいきます。
利休は秀吉の最側近として「内向きのことは利休へ」とまで言われた人物です。
豊後の大名大友宗麟が大坂城を訪れた際、秀吉の代わりに茶道である利休が自分に話しかけるのを驚いたと記録を残しています。
秘密を知りすぎていたから危険人物と見なされたのですかね。
※利休切腹の理由には、いわゆる明攻め、唐入りに反対したからだという説もあります。
利休はキリシタンであったという説があります。
「千利休」という名前には十字架が3つ隠れていますね。
キリシタンで堺の町出身となれば、イエズス会などと接触していた可能性は十分あるでしょう。
となると、また想像がいろいろと膨らんでしまいますね(キリシタンだから後に伴天連追放を命じた秀吉に反対して、切腹させられたという考え方もできてしまいますが……)。
トンデモ説扱いはもったいないくらい興味深い説です。
なお、細川忠興は利休七哲の一人に数えられる茶人でもありました。
細川親子といえば、本能寺の変の際、見ようによっては盟友、光秀を裏切ったとも言えなくもない存在です。
そのあたりにも何か謎が隠されているような気もします。
利休が切腹のため、船で堺に送られるとき、最後まで見送ったのが忠興と古田織部だとも言われています。
ところで、利休が実は明智光秀と同一人物だったという珍説もあります。
信長と取引をしていた堺の商人、田中与四郎と秀吉の側近となった千利休は別人物であると。
本能寺の変とその後の中国大返しのタイミングがあまりに良いため、秀吉と光秀は手を組んでいたという説は昔からあります。
光秀に悪役を演じてもらって裏では……という見方もできますし、実は光秀は生きていて、本能寺の変に関して秀吉の弱みを握ったという見方もできますかね。
信長に逆らって逃亡した荒木村重が信長の死後、秀吉の御伽衆になっている例もあります。
権力を握ってからの秀吉は光秀を一時的に許したのか、利用できると思って生かしておいたのかもしれません。
さすがに周りの人間が気付くと思うので、これは珍説だとは思いますが、面白い説だとは思います。
ちなみに利休が着用したという甲冑が残されていますが、かなり大きな甲冑で、当時の人間にしては珍しい180センチくらいの身長になります。
当時の記録にも長身と書かれているものがあります。
利休が元は武将だったとすれば、体格を活かして強そうですが……
光秀と同一人物なのですかねえ……
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