湖水渡り伝説
明智左馬助(秀満とも光春ともいう)が、琵琶湖を馬で渡り切ったという伝説があります。
本能寺の変のあと、明智左馬助は別働隊を率いて、安土城を制圧しました。
しかし、光秀が山崎の戦いで敗れ、明智の三日天下が終わったので、安土城を捨て、坂本城へ向かうことにしました。
その際、琵琶湖の浅瀬を馬に乗ったまま渡ったとされています。
元々、安土城と坂本城は琵琶湖に面していて、水上交通でつながっていたとされており、馬ではなく、船で渡ったのだとも言われています。
ですが、安土にいるはずの左馬助が突然、坂本城に現れたので、敵は仰天したのではないでしょうか。
そこから生まれた伝説と推測します。
明智左馬助とはどういう人物か?
明智左馬助は光秀の重臣であったことは間違いない人物ですが、出自については光秀同様多数の説があります。
名前についても、秀満、光春、光俊、光遠、満春など多数伝わっています。
弥平次秀満という署名が残っていることから、秀満という名が正式ではないかと言われています。
初め、三宅弥平次と名乗っていたとされ、三宅氏の出身という説が有力ですが、この三宅氏についてもどの三宅氏なのかと諸説あります。
明智光秀の叔父が三宅氏を名乗っていた説、美濃の塗師の子という説もあります。
また、遠山氏系の明智氏の一族という説もあり、そちらに三宅氏を名乗った人物がいたことから、そちらが出自だという説もありあす。
『明智軍記』という書は、俗書としてあまり信頼されていない史料ですが、そこでは光秀の従兄弟とされています。
光秀の父は早くに亡くなり、叔父・光安が後見人になっていたという説がありますが、その息子が秀満ではないかとも言われています。
美濃明智城が落城した際、叔父の光安は戦死したとされていますが、光秀と秀満はともに脱出したという説もあります。
光秀の娘婿?
出自は不明な秀満ですが、光秀の長女を妻にしたとされ、娘婿になっているのは確実とされています。
光秀の長女は初め荒木村重の長男・村次の妻でしたが、村重親子が信長に反乱を起こしたため離縁され、秀満に嫁いだとされています。
このとき、三宅弥平次が明智弥平次秀満になったとも言われています。
生まれ年については1536年説と1557年説があります。
光秀の生年については、1516年説と1528年説が有力ですが、娘婿と考えるにはどちらが妥当なのでしょうか。
秀満の事績
光秀の重臣として、丹波攻めなどに貢献したとされ、丹波制圧時には福知山城主ともなっています。
本能寺の変の際には斎藤利三らとともに先鋒を務めていたとされています。
また、伝説では光秀が信長討ちを明かした5人の家老のうちのひとりと言われています。
あるいは、最初に打ち明けたのが秀満で、しかも反対したと言われています。
しかし、光秀が他の4人とも相談したと聞くと、そこまで話したのなら、実行しないと秘密が漏れる可能性があると、反対に勧めたという説もあります。
「本能寺の変」後は安土城を制圧しましたが、光秀が山崎の戦いに敗れたことを知ると、坂本城に戻り、堀秀政率いる軍と攻防の末、妻や光秀の息子らとともに自害して火を付けたとされています。
また、戦いの前に明智家に伝わる財宝などを堀秀政と直政に渡したという逸話があります。
光秀の脇差が目録にないと指摘されると、それはあの世にいる光秀に会った時に渡すと言ったとか。
天海僧正に転生?
俗説として、徳川家康のブレーンとして活躍した南光坊天海僧正は明智光秀と同一人物という説がありますが、実はこの秀満も候補者のひとりとされています。
テレビ番組の企画で光秀の真筆と天海の真筆を筆跡鑑定したところ、同一人物とは言えないが、縁者などの可能性があると指摘されています。
年齢的にも光秀だと高齢すぎますが、生年は明らかではないものの、秀満の年齢ならありえなくもありません。
また、坂本城攻防戦の際、城下から逃げる者が多かったと言われており、もしかすると、秀満が光秀の息子たちとともに、土佐の石谷氏(斎藤利三の縁者、長宗我部家の重臣)を頼って落ち延びている可能性はあります。
現に、坂本龍馬はこれまた俗説ですが、明智光秀の末裔という説があります。
安土城を焼いた?
安土城は謎の炎上をしていますが、秀満が坂本城に渡る際に焼いたという説があります。
しかし、実際、安土城が焼けたのは6月15日のこととされ、6月14日に戦死している秀満が火を付けるのは不可能です。
ルイス・フロイスが残した記録には、信長の息子、信雄が火を付けたとされています。
また、空城になったところに野盗の類がやってきて火を付けたという説もあります。
最後に
この湖水渡りといい、光秀が天海に転生した話といい、明智方には意外と好意的な伝説がたくさん残されています。
信長自身や信長の子らには好意的な伝説がまるでないのと対称的です。
それだけ民衆らが彼らに同情的な何かを感じていたということでしょうか……
それとも、怨霊を恐れたのでしょうか?
湖水渡りについて、気になったのでいろいろ調べていると、滋賀に残る昔話の中で、昔、琵琶湖は海と信じられていたという説を見つけました。
海の向こう(琵琶湖の西岸)には極楽浄土(つまりあの世)があるという言い伝えがあるそうです。
そのため、かつては琵琶湖に遺体を流したりしていたそうです。
なので、「左馬助はあの世に向かった」という解釈もできます。
もっと想像をたくましくすれば、「湖に沈んだ」のではなく、「向こう岸について姿を現している」ということから、「一旦は死んだ人が生まれ変わった」→「別人になった」という解釈もできないでしょうか。
明智秀満=天海僧正説もあながち無視出来ない説かもしれません。
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