鎌倉時代初期、源頼朝の妻として、夫の死後、絶大な権力を握った尼将軍、北条政子。
流人同然だった頼朝と周囲の反対を押し切って結婚するなど、運命的なエピソードの持ち主です。
この「北条政子」の読み方ですが、作家・八切止夫氏によると、当時は「ほうじょうまんこ」と読んだのではないかということです。
鎌倉幕府には政所(まんどころ)という機関があります。
時代は少し下りますが、戦国時代、豊臣秀吉の妻、北政所も「きたのまんどころ」と呼ばれていました。
ありえないことではないですね。
八切説によると、当時、絶大な権力を持っていた政子が女性の代表として扱われ、のちに女性自身(女性器)の読み方を表すようになったとか。
ただし、政子という名の「政」の字は、父「時政」から一字を取って作られたものです。
三代将軍実朝の時代に従二位の地位をもらうことになったので、朝廷風の名前が必要となったため作られたものです。
時子という名前は平清盛の正室の名前だったので使えず、政子となったと言われています。
なので、すでに亡くなっていた夫の頼朝は、彼女が政子と呼ばれたのを知らないことになります。
当時どう呼ばれたのか、実の名前については伝わっていません。
八切止夫氏は文献などの根拠を示さず、断定する作家さんでもありますので、全面的に信じるのは危険なのですが、あっと驚く発想の持ち主でもあります。
面白い説として楽しんでください。
ちなみに北条政子は自身のま○こが病気になったというエピソードがあります。
医者が呼ばれましたが、彼女のその部分を見ることも、直接触ることも許されなかったので、石と糸を組み合わせて道具を作り、間接的に触って治療したと伝わっています。
しかし、その病気は治らず、彼女は子供を産めなくなったのではないかと見られています。
事実であれば、頼朝の子である頼家と実朝は北条氏の陰謀で殺されたのが明白ですが、それを政子が見逃したのは、実の子ではなかったからではないかという推測もできます。
名前の読み方について記されている八切氏の著書
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頼家、実朝非実子説を提唱している高田崇史氏の著書
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なお、戦国武将の名前の読み方については、当時日本にやってきた宣教師たちの残した記録に基づいているものが多数あります。
有名な山内一豊でも、土佐では「やまうち」と呼ばれ、近江では「やまのうち」と呼ばれているなど、土地によって呼び名が違っていたりします。
当時は識字率が低く、標準語もなかった時代。
方言による発音の違いなどから、このような複数の呼び名が生まれたのではないでしょうか。
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