南海ホークス時代の背番号
ノムさんこと、野村克也氏は何かとゲンをかつぐ人でもありましたが、背番号についても当然こだわっていました。
まず、南海にテスト生として入団したときの数字は60。
これは球団から指定された数字でどうしようもなかったそうです。
テスト生から入団した選手は全員60番台であったそうで、その中で一番若い番号だったので「まだ期待されたほうだったのだろうか?」と本人は述懐しています。
続いて、活躍が認められて、三年目から19を付けるようになりました。
以降、現役引退までこの数字を付けます。
この間、戦後初の三冠王に輝くなど、素晴らしい実績を残しています。
ちなみに戦前に史上初の三冠王となったのは中島治康選手です。
しかし、中島治康選手が三冠王になった1938年は、年間40試合しかなかった年なので、実質、史上初の三冠王と考えてもいいと思います。
監督時代
次にヤクルトの監督となった際には73を背番号にしました。
阪神の監督となった最初の二年間は82。
最下位が続いたので、縁起が悪いと思われたのか、最後の年となった三年目は73に変えています。
そして、楽天の監督になってからは、現役時代と同じ19を付けています。
「足して10になる数字がラッキーナンバーだよ」と占い師に言われたことがあるそうで、最初の60以外は足すと10になる数字となっています。
選手として26年、監督として24年、あしかけ50年間、プロ野球に関わった方です。
さらに解説者時代を加えると、ほぼ生涯を野球にかけていると言ってもいいでしょう。
「野村引く野球はゼロ」と本人は語っています。
背番号に関するぼやき
なお、背番号について「19が永久欠番にならないことについては納得がいかない」と著書の中でボヤいています。
南海については、円満退団でなかったから粗末に扱われたと考えているそうですが、翌年ドラフト3位で入った新人投手にあっさりと与えられたことにショックを受けたとか。
本人にも「よく付ける勇気があったな?」といつか言ってやろうと思っているらしいですが、未だ機会がないそうです。
楽天監督時代にも19を付けていますが、楽天監督時代はたいして活躍できていなかったと考えておられ、自身の退団後、某投手に与えられていることについては、特になんとも思ってはいないとか。
パ・リーグの永久欠番は?
なお、2019年現在、パリーグで永久欠番になっているのは稲尾和久投手の24だけです。
昔は鈴木啓示投手が付けていた1が永久欠番になっていましたが、近鉄バファローズが消滅して無効になりました。
その他、ノムさんに関する雑学については、以下の記事も見てください。
<参考文献>