日本最大級の怨霊、崇徳上皇(天皇)の生涯について

地理・歴史系
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日本国の三大怨霊

日本国の三大怨霊と呼ばれる人たちがいます。

讒言により左遷され、不遇のうちに死去した菅原道真。

新皇を名乗り、反乱を起こすも鎮圧された平将門。

そして、権力争いに敗れ、讃岐に流された崇徳上皇(天皇)です。

その中でも最大と言われているのが、これから紹介する崇徳上皇(天皇)です。

なぜ、最大かと言うと、他の二人は自ら怨霊となることを宣言してはいません。

ですが、この崇徳上皇は生前から自ら日本国を呪ってやると宣言しています。

崇徳上皇の生い立ち

崇徳上皇は1119年、鳥羽天皇と藤原(待賢門院)璋子との間に生まれたとされています。

諱名は顕仁(あきひと)。

ちなみに藤原璋子は鳥羽天皇の祖父である白河法皇の寵愛を受けていた女性です。

そのため、真相は不明なのですが、顕仁親王は鳥羽天皇の子ではなく、白河法皇の子ではないかという噂がつきまとうことになりました。

なお、璋子は白河法皇が鳥羽天皇方に送ったスパイだという説もあります。

いずれにせよ、鳥羽天皇は生まれたときから顕仁親王のことを嫌っていたようです。

噂が事実であれば、子でもあり、叔父にもなる不思議な存在となります。

実際、鳥羽天皇からは「叔父子」と呼ばれていました。

崇徳天皇即位

1123年、わずか4歳で顕仁親王が天皇として即位します。

即位には白河法皇の意向が強くあったとされています。

愛人と息子との間に生まれた孫を天皇とし、傀儡として院政をさらに強化しようとしたのです。

退位させられ、上皇になっていた鳥羽上皇は引き続き、白河法皇の支配が続くことに面白くなかったことでしょう。

白河法皇の死で立場逆転

1129年に白河法皇が亡くなります。

これにより、邪魔者が去った鳥羽上皇は院政を行える立場となりました。

崇徳天皇から見れば、後ろ盾を失った形となりました。

鳥羽上皇は藤原璋子を無視するようにもなります。

近衛天皇生まれる

1139年、鳥羽上皇は藤原得子との間に男子を授かります。

体仁(なりひと)親王、後の近衛天皇です。

この体仁親王は生まれてすぐ、崇徳天皇の養子となります。

これには鳥羽上皇の意向がありました。

狙いは体仁親王に天皇の位を譲らせ、自らが白河法皇のように院政を行おうとしたからです。

譲位が行われました

鳥羽上皇から崇徳天皇は体仁親王に譲位をし、院政を行ってはどうかと提案します。

実は罠だったわけですが、崇徳天皇はその提案に乗り、1142年に譲位します。

近衛天皇の即位です。

このとき、鳥羽上皇はひとつ細工をしました。

体仁天皇は崇徳天皇の養子になっていたので、皇太子として即位するところですが、母違いの弟でもあったので、皇太弟として即位させたのです。

院政は親子や孫の関係で後見人になって行う形が普通なので、この場合は行なえません。

崇徳天皇はだまされてしまったのですね。

以後、失意を感じながらも、和歌の世界に耽溺するようになりました。

近衛天皇の崩御

実権をすべて失った崇徳上皇ですが、1155年に近衛天皇が若くして崩御したため、再び表舞台に立つチャンスが巡って来ました。

崇徳上皇には重仁親王という皇子がいたからです。

しかし、このチャンスも鳥羽上皇によって打ち砕かれます。

後釜には崇徳上皇の弟でもあった雅仁親王が据えられました。

後に日本一の大天狗と呼ばれた後白河天皇です。

これにより、崇徳上皇は最後の望みを絶たれました。

保元の乱

1156年、鳥羽上皇が亡くなりました。

崩御した際には、遺体を崇徳上皇に見せるなとまで遺言したほど嫌っていたようです。

鳥羽上皇が亡くなったことで、崇徳上皇側が不穏な動きを見せているという噂が京の都に飛び交います。

後白河天皇側も信西らのブレーンとともに兵を集めます。

追い詰められた崇徳上皇は藤原頼長とともに兵を起こし動きますが、あっさりと鎮圧されてしまいます。

結果的に崇徳上皇は讃岐に配流されます。

天皇や上皇の流刑は、淡路廃帝とも呼ばれる淳仁天皇以来400年ぶりのことでした。

讃岐にて

配流先で崇徳上皇は仏教に深く傾倒し、写経などをしていました(一説には血で書いたとも)。

しかし、経典を京の寺に納めたいなどと申し出ましたが、朝廷側は呪詛が込められているのではないかと、これを拒否。

怒った崇徳上皇は以後、髪も爪も伸ばし放題となり、「日本国の大魔縁となり、民を王とし、王を民とする」などと宣言し、朝廷を呪詛し続けました。

死についても、暗殺説があります。

棺から血が流れ出したなんて逸話もあります。

その後、崇徳上皇の政敵が次々と死亡したり、政治が乱れたりしました。

そのため、これは崇徳上皇の祟りではないかと噂され、「讃岐院」と呼ばれていたものを「崇徳院」に改めるなど、名誉回復に努めました(「徳」の字が付く天皇は無念な生涯を送っていることが多いです→別記事

しかし、この後、武士による時代が続き、朝廷がないがしろにされたことから、それも崇徳上皇の祟りだと考えられたらしく、明治天皇は大政奉還の後、即位を前に讃岐に勅使を送り、謝罪したというエピソードがあります。

京都に白峯神宮を建設し、崇徳上皇を祀ったのもその現れです。

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