第58代光孝天皇(830年生、887年崩御。在位は884年から887年)の時代、権力を持っていたのは藤原基経でした。
光孝天皇は基経が自身の甥に当たる貞保親王(陽成天皇の弟)を時期天皇に即位させると読み、すべての子を臣籍降下させて自分や子供たちを守りました。
しかしながら、貞保親王の母であり、基経の妹である藤原の高子と基経は仲が良くありませんでした。
また貞保親王の兄、陽成天皇は宮中で起きた殺人事件に関与した節があり、数え17歳で譲位した経緯がありました(建前上は病気による譲位)。
幼い頃から奇矯な振る舞いがあったとされています。
そんなこともあり、光孝天皇の読みは外れ、貞保親王が即位する流れにはならず、自身が病に倒れて危篤状態になったときには後継者がいませんでした。
そこで臣籍降下していた光孝天皇の子、源定省(さだみ)を急遽、皇族として復帰させ、立太子させました。
光孝天皇が崩御するのと同じ日のこととされていますが、藤原基経は天皇の意向が源定省にあると見ていたとされています。
また、源定省は基経と仲の良い異母妹の藤原淑子の猶子(相続を目的としない養子)という関係でもあり、基経としても抵抗が少なかったとされています。
淑子は後宮に強い影響力を持つ人物でもありました。
このとき即位した源定省が後に宇多天皇と諡される天皇です。
これが、一度臣籍降下した人物が天皇となった唯一の例です。
「大鏡」には譲位した陽成天皇が「今の天皇はかつての私の臣下ではないか」と語ったという逸話が残されています。
また、宇多天皇の息子である醍醐天皇は、宇多天皇が臣籍降下していた時代に生まれています。
当初は源維城(これざね)と言いました。
後に敦仁(あつひと)と改名されています。
父が臣籍降下していた時代に生まれていたということは、当初民間人だったわけで、こちらは民間人から天皇になった唯一の例ということになります。
宇多天皇は当初、藤原基経を頼りにしながらも、文書内にあった阿衡という言葉をめぐり対立します(阿衡事件、阿衡というのが名ばかりで政治的な力のない立場を表していたため)。
しかし、後には菅原道真を重用し、「寛平の治」と呼ばれる安定した時代を作りました。
仁和寺を建てたのも宇多天皇です。
その子である醍醐天皇は菅原道真、藤原時平のふたりを起用し、こちらは「延喜の治」と呼ばれる安定した時代を作り上げています。
後に「昌泰の変」と呼ばれる、時平の讒言から菅原道真を左遷する事件こそ起こしますが、これは醍醐天皇自身が、宇多上皇と菅原道真の影響力を抑えようという狙いがあったともされています。
民間人だった時代があったためか、民に優しかったとされ、旱魃などの際には税を減らすなどの方策を行ったとされています。
なお、940年に桓武天皇の五世である平将門が関東で乱を起こし、新皇と名乗っていますが、平将門も臣籍降下した者の子孫です。
醍醐天皇のような民間人が天皇になる前例があったから影響を受けた可能性は大いにあると思われます。
コメント