1980年代半ば、「ファミコンの名人」として、日本中の少年少女に大人気だった高橋名人。
本名は高橋利幸氏。
1959年5月23日、北海道琴似町(現:札幌市琴似町)生まれ。
2023年現在、還暦を超えています。
ハドソン宣伝部の社員だった人物ですが、代名詞とも言える16連射で敵を颯爽と倒していく姿に子どもたちは感動しました。
そんな高橋名人に関するエピソードをいくつか紹介します。
ハドソンへの採用は偶然?
元々、スーパーの青果売り場で働いていた高橋名人。
3年ほど勤めましたが退職。
ハドソンという会社が自宅近くにあるのを知っていたそうですが、一旦は別の会社に就職。
しかし、その会社にいた同僚がハドソンの採用試験を受けるというので一緒に受けてみました。
それ以前に、とあるイベントで高橋名人が大きな声で宣伝をしていたのをハドソンの社長が覚えていたそうで、こういう人間が営業にいたら面白いかもと考え、採用されたとのことです。
なお、一緒に試験を受けた同僚は採用されなかったそうです。
名人という称号の誕生
小学館に仕事で出入りしていた高橋名人。
銀座松坂屋で開かれた「コロコロまんがまつり」にて、1時間の時間をもらいましたが、やるネタは自分で考えろと上司に言われ、当時発売直前だった「チャンピオンシップロードランナー」のデモプレイを行いました。
その際、コロコロコミック側が「ファミコンの名人来たる」と宣伝したことが、名人と呼ばれるきっかけになりました。
このゲームは一度電源を切っても11面以降はパスワードを入力すると特定の面から遊べる仕組みとなっていました。
発売前のゲームだったことから、高橋名人はパスワードを見せたくないと考えました。
名人はパスワードを暗記していたことから、画面を隠し、後ろ手でパスワードを入力しました。
すると、子供たちから「画面もコントローラーも見ずにパスワードを打っていてすごい!」という声が上がります。
イベント終了後、「サインがほしい」と、子供200人くらいが集まったので、コロコロ側も手ごたえを感じ、売り出して行こうという話になったそうです。
このことが、後の全国キャラバンゲーム大会にも繋がっていきます。
逮捕された? 死亡した?
高橋名人が逮捕されたという噂が広まったことがありました。
一日警察署長を務めたのが、誤解されて広まったのが真相とされています。
ちなみに罪状は「詐欺罪」で、コントローラーにバネを入れて連射をして子供達をだましたということでした。
後に名人はバネを入れたら本当に楽になるか試しましたが、かえって疲れただけだったそうです。
心配した子どもたちからハドソンやコロコロコミック編集部に問い合わせの電話が殺到しました。
当時のコロコロコミック誌上では、わざと怒った顔の高橋名人の写真とコメントが掲載されました。
さらには死亡したという噂までありました。
理由は16連射をするのにクスリの力を使って痙攣させていたため、クスリの使いすぎで死亡したというものです。
有名でありすぎたがゆえにできた都市伝説かと思われます。
なお、ブームだった頃、ハドソンに三人ほどの女性が「私と結婚して」とやってきて、対応に困ったというエピソードがあります。
肩書きは名人?
現在はハドソンを退社していますが、在籍時に「名人」という役職が作られ、名刺にもそう書かれていました。
どれくらいの役職に相当したかは不明ですが、一時期、トレーディングカードを作る子会社に出向した際、営業部長として出向しているので、部長級以上かと思われます(追記:著書で確認したところ、部長級とのことです)。
現在はゲーム会社を設立し、代表取締役名人という地位に就いています。
なお、eスポーツ促進機構の代表理事も務めています。
実は17連射だった?
16連射で一世を風靡した名人ですが、当時は連射数を測定する機械やソフトがありませんでした。
そこで、「スターフォース」というゲームに登場する中ボス、ラリオスを利用して測定しました。
このラリオスという敵は、光を発してから8発の弾を撃ち込むと倒せますが、光る前に弾を撃ってしまった場合は、その分も撃たなくては倒せない仕組みとなっていました。
そこで、光る前に何発撃っても倒せるか試したところ、8発くらいまで行けたとのこと。
合わせて16発となり、プログラムでよく利用される16進数にちなんでいて、ちょうど良いということで「16連射」と名付けられました。
後に測定ソフトが開発され、正式に測定したところ17連射だったとか。
しかし、16連射の方が語感がいいということで16連射のままにしておいたとのことです。
現在も12、3連射くらいはできるとのこと。
なお、名人の連射はヒジを固定して、ヒジから先を震わせて連射する形のため、腱鞘炎になることはなかったとか。
高橋名人は歌がうまい
「Bugって、ハニー」というアニメの主題歌も歌っています。
このアニメはハドソンから発売されたゲームとリンクして売り出されたもので、今でいうメディアミックスの走りとも言える作品でした。
それ以外にも何枚かレコードを出しています。
レコードを出すきっかけは、カラオケで歌声を披露したところ、うまいのを見た同席者がレコード会社の知り合いに紹介し、発売が決まったということです。
学生時代フォークソング部に入っていたそうで、ギターも演奏できます。
ちなみに「Bugって、ハニー」のエンディング曲「愛はメリーゴーランド」をデュエットしていた女性は、当時、高橋名人の妹コンテストで優勝してデビューした「はるな友香」という方です。
当時は有名人の妹コンテストというのが流行していました。
現在は「うちやえゆか」という名義で歌手活動を続けていて、プリキュアの主題歌や引っ越しセンターのテーマソングを歌うなど活躍中です。
↓ こちらの方です。
#うたつなぎ
五條真由美 @utatane_maiko さんより
バトンを受け取りました。#ふたりはプリキュアスプラッシュスター より#まかせてスプラッシュスター
うちやえゆか with Splash Stars次は
高取ヒデアキさん @Taka_ZETKI_info
高取伸和さん @tktrnbkz繋がせていただきます。
お願いします☆ pic.twitter.com/IwNkURZwQ8— うちやえ ゆか (@yaedon) April 15, 2020
当時、名人がマネージャー的な役割をしていたそうで、現在も名人と時折ライブなどを行っています。
毛利名人と対決した映画がある?
映画「GAMEKING」にて、当時もうひとりの名人として人気のあった毛利名人と対戦しました。
ハドソンより発売されていて大人気だった「スターソルジャー」というゲームで五番勝負。
毛利名人が三勝して勝ちましたが、五試合しての総得点は高橋名人のほうが多かったということで、引き分けとされています。
実は、追い込まれた高橋名人が最後のボーナスポイントを奪って、劇的な逆転勝ちをするという「演出」が用意されていました。
しかし、緊張からか高橋名人が失敗してしまい、無理矢理総得点という要素を持ち出し、引き分けという玉虫色決着としました。
当時の映像を見ると、毛利名人が不自然でらしくないミスを4戦目あたりで露骨にしているのがわかります。
ちなみに、毛利名人は当時大学生で、ハドソンのバイト社員でした。
高橋名人に会いに来た際、ゲームに関する同人誌を見せたところ、その出来が良かったこともあり、高橋名人自らがスカウトしました。
ゲームをプレイさせてみたところうまかったので、バイトとして採用し、全国キャラバンを手伝うことになります。
本人は文章を書くのが好きだったということで、後に「ファミコン通信」の編集者となり活躍しています。
高橋名人があまりに忙しすぎて、全国キャラバン大会をひとりで回ることが難しくなったため、後にはサポート役として、桜田名人や川田名人、島田名人といった名人も登場しました。
当時、新入社員にゲームをさせて、うまければ名人の弟子として起用されていたとか。
名人ブームにより、ゲーム会社が次々と名人を誕生させ、全盛期には40人くらい名人がいたと言われています。
ちなみにバンダイには、当時、橋本名人という人物がいましたが、現在はスクウェア・エニックスの重役となっています。
橋本名人は誰もゲームをプレイしているところを見たところがない名人としても有名でした。
実はゲームが下手だった?
「しくじり先生」という番組に出演し、「ゲームが下手なのに名人と名乗っていました」と告白しています。
確かに作られた名人像があったと思われます。
先述した映画では、実質負けています。
しかし、チャンピオンシップロードランナーを日本で最初にクリアしたのは高橋名人ですし、16連射自体は事実です。
また、メディアのインタビューで、このような主旨のことを話しています。
「例えば、画面一杯に広がって来て、弾を撃って来る厄介な敵がいたとして、攻略法としては画面に出てきた瞬間に倒した方が楽だけれど、それではその敵が強敵だというゲームの魅力が伝えられない。メーカーの宣伝マンでもある自分は、画面一杯に広がらせてから倒すというプレイをしなければならなかった」
もし、高橋名人が勝負に徹したプレイをしていたらどうだったか……
ファミコンの名人としての終わり
現在もゲームの名人であることには間違いないですが、「ファミコンの名人」としての終わりは、87年10月にPCエンジンが発売され、ハドソンがそちらに力を入れ始めたことで終わります。
当時コロコロコミックには「高橋名人物語」という漫画が掲載されていましたが、「ファミコンの名人」から「PCエンジンの名人」という称号に変更したいという大人の事情から突然の終了を迎えています。
「ファミコンの名人」としては、85年3月の松坂屋でのイベントから始まり、約2年半ほどのブームだったことになります。
しかし、コロコロコミックとの付き合いは、後にコロコロがドッジボールブームを作った際に参加するなど続きました。
高橋名人は教育ママたちを黙らせた?
ファミコンに熱中して、外で遊ばない子や勉強をしない子が増え、一時ファミコンに対する目が厳しくなりつつありました。
しかし、高橋名人が「ゲームは1日1時間」という言葉を発したところ、親の小言などより、子供たちの心に響いたらしく、批判が収まりました。
また、高橋名人自体がいわゆる健康的な人物だったのも幸いしたと言われています。
「メガネをかけた不健康そうな人物が名人を名乗っていたら、ここまで人気にならなかったのではないか」と名人自身も分析しています。
いずれにせよ、日本にゲーム文化を根付かせた大功労者であることは間違いありません。