江戸時代に関する雑学あれこれ 江戸時代までは1日2食だった?

地理・歴史系
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はじめに

およそ260年ほど続いた江戸時代。
一般的に平和な時代だったとされていますが、当然、血なまぐさい事件もありました。
いくつか雑学を記します。

浅野内匠頭は一度役目を無事に果たしている。

『忠臣蔵』という物語で有名な赤穂事件。
江戸城松の廊下で、浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかり、その後切腹となる事件ですが、なぜ斬りかかったのかは、はっきりとわかってはいません。
「この前の恨み!」と浅野が斬りかかっていることから、何か恨みはあったのかもしれません。
しかし、時代劇であるような、浅野が作法を知らず、間違ったことを教えられて恥をかかされるという話は作り話です。
なぜなら、浅野は同じ役目を以前にこなしているからです。
そこで無作法をしたという記録はありません。
そのときに吉良にいびられた可能性はありますが、そもそも間違ったことを教えて相手(勅使)に失礼なことをした場合、責任を取らされるのは吉良ですから、わざわざ間違った作法を教えて恥をかかせるようなことをする必要はありません。
理由がわからないから怨恨説が作られたのかもしれません。
本能寺の変、怨恨説と同じ根拠ですね。
忠臣蔵という物語が面白すぎて史実のようになっている好例です。
ちなみに赤穂浪士たちが吉良を討ち果たしたのは、主君への忠義より、即日切腹、お家取り潰しという沙汰が前例のないものであり、家臣たちが露頭に迷うことになったことに対する反発と、義士として再就職できる道を求めたとか、将軍に対する当てつけだったという説があります。
当時はまだ主君への忠義より、主家への忠義が重視される時代だったと言われています。

徳川家重は脳性麻痺だった?

徳川家重は有名な徳川吉宗の息子で江戸幕府9代目の将軍です。
しかし、生まれつき言語が不明瞭だったと言われ、側近(大岡忠光)のみが言葉を理解し、指示を出していたと言われています。
言語不明瞭なことと、遊興にふけったことから、将軍の後継者にはふさわしくないと見られ、廃嫡の動きもありました。
また、頻尿だったらしく、「小便公方」とも呼ばれていたとか。
遺骨の調査から、歯ぎしりをかなりしていたとされ、これは脳性麻痺の患者によく見られる歯の摩耗だということです。
一方で女性だったという説もあります。
声を聞かれたくないため、わざと側近を通じてしか指示を出さなかったのだと。
そのため、側近により、コントロールされていたとも言われています。
田沼意次を重用したことが、家重に対する後世の評価を落としている原因でもありますが、田沼の重商主義政策を肯定する立場の人たちからは名君と評価されてもいます。

江戸時代から1日3食が定着した?

今では1日3食が当たり前のようになっていますが、これが定着したのが江戸時代の中頃からと言われています。
それまでは朝に一仕事してから1食食べ、夕方にもう1食というのが普通でした。
つまり1日2食だったわけですが、これが3食になった理由は行灯の普及だと言われています。
油の製法が進化し、値段が下がったことで庶民も買い求めやすくなり、夜でも作業などができるようになったので、もう1食となったのです。
また、明暦の大火があって、江戸の街を復興するために職人が増えましたが、肉体労働者である彼らは1日2食では足りないので、もう1食増えたという説もあります。
これによって、職人を相手にした食べ物屋台などが増え、外食産業が始まったとも言われています。
寿司は、今では環境汚染によって高級化しましたが、当時は銭湯の帰りにでも、ちょっとつまんでいくかという程度の屋台で出される料理でした。

二代将軍秀忠の正室、お江は毒殺された?

二代将軍、徳川秀忠の正室、江姫。
お江とも江与とも呼ばれる人物で、大河ドラマの主人公にもなった人物ですが、毒殺されたという説があります。
根拠は、当時の貴人としては例がない火葬にされていたからです。
江が死んだとき、秀忠、家光らは上洛中で、江戸城はライバルとも言える春日局が仕切っていました。
この際に毒殺されたというわけですね。
毒を飲まされたから、検視などをされないために、証拠隠滅で火葬にされたのです。
逆に側室を秀忠に持たせないなど、嫌われ者だったから、火葬にされたという説もあります。

旧家はなぜ玄関の間口が狭く、奥に長くできているのか?

旧東海道沿いなど、昔の幹線道路沿いにある旧家は、玄関の間口が狭く、奥に長く広くできています。
いわゆるうなぎの寝床と呼ばれる作りです。
京の町家などが有名ですが、なぜかこういう作りになっているかというと、江戸時代の固定資産税は、道路に面した面積で計算されていたからです。
つまり、節税のためにそういう作りになっているのです。

遠山の金さんの刺青は桜吹雪ではなかった?

時代劇のヒーロー、ご存じ「遠山の金さん」。
見せ場で披露する桜吹雪の刺青がトレードマークですが、実際の刺青の絵柄は女の生首であったとされています。
ただし、実際に刺青をしていたという確定的な資料はありません。
若かりし頃、任侠の徒と関わりがあったのは事実で、若気の至りで彫った可能性は高いらしいですが。
実在の金さん、遠山金四郎景元はお裁きの際、しきりに袖を気にする素振りがあったらしく、それは刺青を見えないようにしていたからと推測されています。
遠山金四郎景元が「遠山の金さん」として、庶民の人気を得たのは、当時倹約を町民にも徹底しようとしていた幕府に対し、「庶民の楽しみを奪うな」と、遊郭や歌舞伎の廃止を阻止したからだと言われています。

江戸の歓楽街吉原について

江戸の歓楽街吉原。
元々は日本橋人形町あたりにあったとされ、そこは元吉原と呼ばれています。
江戸の町ができた頃、このあたりは葦が生い茂る地であったため、葦原という地名がつきました。
葦は「アシ」と本来読みますが、「アシ」だと「悪し」と音が通じるため、縁起のいい読み方に変えられ、「ヨシ」と呼ばれるようになりました。
また、京都の歓楽街だった島原の名前を参考にしたという説もあります。
家康が江戸に入り、都市計画を進めて行くうちに多くの人夫が集まりました。
男性がたくさん集まるところには、自然に性欲処理施設が必要となるわけで、開発されたのがはじまりだということです。
その後、明暦の大火で移転することになり、有名な浅草寺近くの吉原ができました。
江戸時代に隆盛した吉原はこちらです。
今の住所でいうと、台東区千束四丁目付近となります。
しかし、明治に入り、吉原は急速に衰えました。
江戸幕府と武士から世話になっていた吉原の花魁たちは、彼らに義理を感じていたし、新たにやってきた薩摩や長州の田舎者になびこうとしなかったからです。
薩摩や長州の人間たちから見ても格式の高い吉原は立ち寄り難い場所であったようです。
歓楽街は新たに作られた芸者町に移っていきます。
その後は大戦のあと赤線地帯となり、現在はソープ街として、ひっそりどころか、にぎやかにその歴史を伝えています。

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