本願寺が東と西に分かれた理由 石山合戦から東西分裂への100年【歴史解説】

地理・歴史系
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京都の烏丸通と堀川通を挟んで立つ東本願寺と西本願寺。見た目はそっくりな二つのお寺ですが、もともとは一つの宗派「浄土真宗」でした。それがなぜ二つに分かれてしまったのか。その理由には、織田信長の脅威、豊臣秀吉の判断、そして徳川家康の戦略が深く関わっています。

信長と本願寺が戦う

16世紀後半、日本で宗教と武力の戦いが起きました。それが「石山合戦」です。

舞台は大坂の石山本願寺。浄土真宗の大きな寺院でした。相手は日本統一を目指す織田信長です。この戦いは9年も続き、本願寺は石山を去る羽目になります。

信長が本願寺を敵とした理由は単純です。信長は宗教の教えまでは否定しませんでしたが、宗教が武力を持って政治に口を出すことが許せませんでした。本願寺はまさにその脅威だったのです。

一方、本願寺側は信長に反抗する勢力(信長包囲網)に参加して、織田家と戦う大きな力になりました。この対立が、やがて本願寺の内部を二つに分けることになります。

父と長男が対立する

本願寺の長・顕如(けんにょ)

石山本願寺を率いていた顕如は、信長との長い戦いに疲れ始めていました。

1580年、天皇の仲介で信長との和睦が提案されます。長く戦ってきた本願寺側も、もう仕方がないと講和を受け入れる方向に傾きました。

長男・教如(きょうにょ)の強い反対

しかし、顕如の長男・教如は絶対に和睦を受け入れません。

教如は信長がどんなことをする人か、よく知っていました。信長は過去に比叡山の寺を焼いて3,000人以上を殺しています。降伏した者まで殺してしまう。信長の約束なんて信じられない——教如の考えは間違っていませんでした。

最初は和睦に同意した教如ですが、すぐに気持ちを変えて徹底的に戦う」と主張し、本願寺に籠もって守ります。父は講和派、長男は戦う派——本願寺内部が二つに割れてしまいました。

父が子を見捨てる——親子決別

父の顕如は、教如の反抗に怒ります。そして、教如との親子の関係を絶つという決断をしました。

顕如は本願寺の大切なお像を持って、弟の准如と一緒に別の場所へ逃げます。一方、教如は籠城を続けます。

1580年8月、教如も本願寺を明け渡します。しかし、その直後に本願寺は火事で焼けてしまいました。教如の戦いは失敗に終わり、その後、各地をさまよう日々が始まります。

兄・教如と弟・准如が別れる

本願寺の分裂の原因は、兄と弟の考え方の違いにあります。

顕如の息子たちの中で、特に重要な二人がいます。

  • 長男・教如(1558-1605):父の顕如とともに石山合戦を戦った戦闘派。信長を絶対に信じず、武力でも対抗する強い気性の持ち主
  • 三男・准如(じゅんにょ、1523-1614):父の顕如とともに講和を選んだ穏健派。後に豊臣秀吉からも信頼される人物

石山合戦の中で、本願寺の信者たちも二つの派に分かれてしまいました。教如に従う人たち(戦う派)と、顕如・准如に従う人たち(和睦派)です。この分裂は、その後100年もの間、本願寺を引き裂き続けることになります。

秀吉の時代:本願寺が京都に戻る

信長の後は秀吉の時代へ

1582年、信長が自害すると、天下は豊臣秀吉へ移ります。秀吉は信長と違い、本願寺をうまく味方につけようとしました。

1591年、秀吉は本願寺に京都の土地(現在の西本願寺がある場所)を与え、本願寺が京都に戻ることを許します。

顕如が死ぬ——誰が後を継ぐのか

翌1592年、顕如が亡くなります。誰が本願寺を継ぐのかが大問題になりました。

最初、秀吉は長男の教如を選びます。でも、長く各地をさまよっていた教如は、本願寺内での力が弱かったのです。

母の影響——准如が選ばれる

ここで登場するのが、顕如の妻・如春尼(にょしゅんに)です。

如春尼は秀吉に言います。「長男ではなく、三男の准如に本願寺を継がせてください」と。秀吉はこの訴えを聞いて、教如に10年だけ任せて、その後は准如に譲るように命じました

こうして、現在の西本願寺(浄土真宗本願寺派)が始まります。

教如の苦しい時代

秀吉に家に閉じ込められる

教如の側の人たちが、准如を選んだ秀吉に反発します。秀吉はこれに怒り、教如を本願寺の中に閉じ込めてしまいました

つまり、本願寺の建物には居られるが、外に出たり活動したりは許されない状態です。

こっそり続ける布教活動

でも教如は諦めません。閉じ込められながらも、こっそり全国の信者に手紙や教えを送り続けました

昔、流浪していた時代に作った関係を使い、北陸や関東の信者たちが教如を支え続けます。これが後に「東本願寺」の基盤になるのです。

秀吉が死んで家康が現れる

江戸での家康との出会い

1598年、秀吉が亡くなります。その後、天下争いが始まりました。

1600年頃、教如は大胆な行動に出ます。江戸に行って、力を増した徳川家康に会ったのです

この時、教如は家康に重要な情報を教えたとも言われています。家康はこの時の教如の行動と、その人柄に感心しました。そして「秀吉とは違い、お前を応援しよう」と考え始めるのです。

危機一髪の逃亡

でも帰り道は大変でした。秀吉側の武将・石田三成が、教如を殺そうと手勢を送ります。

教如は寺の中に隠れたり、信者たちに守ってもらったりしながら、何とか逃げ切りました。

東本願寺ができて本願寺が二つに

家康が教如に土地を与える

関ヶ原で勝った家康は、教如と何度も会って話し合いました。

そして、1604年、家康は教如に京都の土地を与えました。ここに教如は本願寺を建立します。これが現在の東本願寺(正式名称は「真宗本廟」)です。

本願寺が東と西に分かれる

こうして、もともと一つだった本願寺は、准如が継いだ西本願寺と、教如が建立した東本願寺に分かれてしまいました

西本願寺は京都の西側に、東本願寺は京都の東側に建てられたので、「東」と「西」という呼び方がついたのです。

門徒数と影響力の違い

現在(2025年)の統計によると、西本願寺(浄土真宗本願寺派)は約771万人の信者、東本願寺(真宗大谷派)も同規模の信者数を有しており、合わせると日本の宗教教団の中で最大級です。寺院数も西が約1万寺、東が約8,700寺と、両者ともに膨大な規模を持っています。

なぜ本願寺は分かれたのか

昔からの説:家康が意図的に分けた

昔から言われてきたのは、家康が本願寺の力を弱くするために、わざと東と西に分けたというものです。

理由は、昔、家康が三河(愛知県)で本願寺の勢力に困っていたから。本願寺の全員がまとまると怖い——そう考えた家康が、意図的に分けたというわけです。

最近の説:すでに分かれていたのを認めただけ

でも、最近の研究では別の見方が出てきました。それは秀吉の時代からすでに本願寺は実質的に分かれていて、家康はそれを公式に認めただけではないかというものです。

実際、教如はすでに独自の活動をしていたし、教如を支援する信者たちと、准如を支援する信者たちが完全に分かれていました。

つまり、家康はすでに存在していた分裂を、公式に認めたのであり、家康が最初から分けたわけではないという見方もあるのです。

今の東西本願寺について

面白いことに、東本願寺と西本願寺は、宗教の教えの上ではほとんど違いがありません。両者とも親鸞聖人を創設者として、同じ経典を大切にしています。

分裂した原因は、昔、信長と戦うかどうかで親子の考えが違ったこと、秀吉が人事で決めたこと、母・如春尼が子どもたちを応援したこと——つまり政治的な理由と家族の事情だったのです。

その後400年、東本願寺と西本願寺は別々の教団として、それぞれの伝統を守りながら活動を続けてきました。

おわりに

信長との戦いの中で、父・顕如と長男・教如が意見が違ったこと。そこから秀吉、家康の時代が来て、二人の兄弟が別々の本願寺の長になったこと。母・如春尼がどの子を応援するかも影響したこと——こうした複雑な人間関係と政治的な判断が絡み合って、日本で最も大きな宗教の一つが、東と西に分かれてしまいました。

今、京都駅の近くで、二つの大きなお寺が向かい合って立っています。教えの中身は同じなのに、政治の力で分かれてしまった本願寺。その物語は、戦国から江戸への時代が変わる中で、権力がどう移っていったのかを示す、興味深い歴史の転換点なのです。

余談・本願とは何?

本願寺の名前の由来となっている「本願」とは阿弥陀如来が菩薩だった時代にかけた願いがもととなっています。

この偉い如来(仏)は世のため人のために多くの願いを立てたのですが、一番の願いは「すべての人々を救いたい」という願いでした。

これを「本願」と言います。
浄土宗や浄土真宗では「南無阿弥陀仏」とお経を唱えますが、あれは「阿弥陀如来様にすべてをおまかせします」という意味です。

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