江戸時代まで一日二食だった。寿司はファストフードだった。

地理・歴史系
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行灯が普及して三食になった?

現代社会では一日三食が当たり前のようになっていますが、これが定着したのが江戸時代の初期からと言われています。

それまでは朝に一仕事してから食べる、今でいうブランチと、夕方にもう一食というのが普通でした。

夕食後は暗くなって来たら早く寝て、朝は早起きし、涼しいうちから一仕事というわけです。

つまり、一日ニ食だったわけですが、これが三食になった一番大きな理由は、行灯(あんどん)の普及だと言われています。

行灯そのものはもう少し前の時代から存在していたわけですが、油が高価でなかなか庶民には手に入るものではありませんでした。

「美濃のまむし」と呼ばれる有名な戦国大名斎藤道三は、若い頃、石清水八幡宮近くにあった油屋の主人だったという説がありますが、戦国時代は寺社などが専売して荒稼ぎをしていて、値段が下がりませんでした。

江戸時代に入り、世の中が平和になって来たので、油を巡る争いが減ったのと、油の製法が進化し、値段が下がったことで庶民も買い求めやすくなりました。

結果、夜に家にいても明るいという環境がつくられ、作業などができるようになったので、もう一食となったのです。

肉体労働が増えて三食になった?

「火事と喧嘩は江戸の華」なんて言葉があるくらい、江戸では火事が多く、人々は悩まされていました。

1657年に明暦の大火と呼ばれるひどい火事がありました。

江戸城の天守が焼け、市街地の大半が消失。

死者は三万から十万とさえ言われる大惨事でした。

結果、大規模な都市計画が行われることになったわけですが、復興には当然人手がいるわけで、各地から多くの人がやって来ることになり、職人が増えました。

肉体労働者である彼らは一日ニ食では足りないので、もう一食増えることになりました。

職人が集まるようになり、食べ物を求める人が増えたため、職人を相手にした食べ物屋台などが増えることになりました。

外食産業が華やかになるきっかけにもなったわけです。

寿司はファストフードだった?

寿司は現在では高級な料理として扱われていますが、当時(江戸時代後期の1,800年頃)は銭湯の帰りにちょっと屋台でつまんでいくか、というお手軽な料理でした。

現在、高級化したのは職人の技術的進歩もありますが、環境汚染によって、江戸前で新鮮な魚が取れにくくなったからです。

寿司そのものの起源は東南アジアで魚を発酵させて保存したものが始まりと言われています。

日本には中国を経由して入ったものと推測されていますが、もともとは滋賀県の伝統料理鮒ずしに代表されるような魚を米で仕込んで発行させる「なれずし」というものでした。

これが江戸時代初期に「早ずし」と呼ばれる酢をかけて酸味を作り、箱などに詰めて形を整える寿司ができました。

現代に伝わる「握り寿司」の起源は江戸時代後期の1,800年初頭に作られたものです。

諸説ありますが、「華屋」の主人・小泉與兵衛が起源とする説が有力です。

それまでの「早ずし」を改良し、箱などで押すのではなく、握る方式にして素早く作れるようにしたのです。

当初はイカやハマグリなどを煮たものや、コハダ、アジなどの光り物が人気でした。

マグロは当初人気がなかったのですが、大量に取れるようになって主流となっていきました。

しかも初めから醤油をベースとしたタレに漬けてあるヅケマグロが主流でした。

タレに漬けてあるから腐りにくいわけです。

当時、シャリは今よりも多く、おにぎりくらいの大きさで握られていました。

現代において、寿司が2貫ずつ提供されるのはこの頃の大きさの名残と言われています。

この握り寿司が屋台で販売され、人気となりました。

仕込みこそ必要なものの、注文してからすぐに作られるため、せっかちな江戸っ子に人気となりました。

余談・明暦の大火について

江戸の街の大改造のきっかけとなった明暦の大火ですが、火元について、いくつか逸話があります。

振袖火事

恋患いで死んだ娘の振袖がありました。

良い品だったので、複数人に渡るのですが、皆謎の病死。

そのたびに本妙寺という寺に戻ります。

さすがに不吉ということで、燃やして供養することになったのですが、にわかに突風が吹き延焼。

結果、大火事となりました。

幕府放火説

結果的に江戸の街の大改造につながったため、幕府が放火したという説があります。

元々軍事的に作られていた街であるため、平和な時代には向いていませんでした。

建物が密集していることで衛生環境が悪く疫病が流行ることもありました。

治安も悪かったようです。

しかし、いくら幕府の権力は強くても、住民を立ち退きさせて移動させようとすると、手間や費用がかかります。

そこで一気に燃やしてしまえば……というところから生まれた説です。

江戸城も巻き込まれていることから信憑性は低いですが、結果的に幕府が得をしているのは事実ですね。

本妙寺が泥をかぶった説

火元が幕府の老中、阿部忠秋の屋敷だったという説があります。

しかし、幕府の老中が大惨事の火元というのは都合が悪いため、近くにあった本妙寺が火元役を引き受けたというのです。

そのため、振袖火事というような逸話も作ったと。

実際、これほどの火事を引き起こしたとなると、寺とはいえ取り壊しになっても不思議ではないわけですが、本妙寺は取り壊しどころか敷地が広くなり、さらに阿部家がスポンサーとなっています。

真相はいかに……

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