【明石家さんまヒストリー】笑顔の裏の激動人生!「雑談を芸に高めた」お笑い怪獣の知られざる雑学まとめ

芸能系
記事内に広告が含まれています。

誰もが知る国民的スター・明石家さんま。しかし、彼がなぜこれほどまでに「目の前の人を笑わせることに執念を燃やすのか」、その理由を知る人は多くありません。

さんま研究家・エムカク氏の超大作評伝『明石家さんまヒストリー』(新潮社)の緻密な記録から、彼の知られざるプロフィール、挫折、そしてスターへと駆け上がるまでの「へぇー!」と驚く雑学をまとめました。
※この本に書かれている1985年までの雑学となります。


【基本プロフィール&学歴】実はスポーツ万能の優等生?

まずは、お笑い怪獣の基本的な歩みをおさらいしておきましょう。

  • 本名: 杉本 高文(すぎもと たかふみ)
  • 生年月日: 1955年7月1日
  • 出身地: 和歌山県東牟婁郡串本町生まれ、奈良県奈良市育ち
  • 学歴: 奈良市立飛鳥小学校 ⇒ 奈良市立春日中学校 ⇒ 奈良商業高校(現・奈良朱雀高校)卒業

さんまさんといえば「奈良商業高校のサッカー部」が有名ですが、実は中学時代は野球部のキャプテンを務め、足も抜群に速くスポーツ万能でした。さらに、学校では生徒会副会長を務めるなど、ただ目立つだけでなく、周囲を引っ張るリーダーシップとスマートさを当時から持ち合わせていたのです。


1. 笑いのDNAは祖父譲り!「庭に埋まる」ファンキーな生い立ち

のちに「お笑い怪獣」と呼ばれる杉本高文(さんま)のルーツは、とにかく笑いに貪欲な家族にありました。

特に祖父の音次郎さんは型破りな人物で、学校から帰ってくる孫の高文少年を笑わせるためだけに、「庭の土の中に首まで埋まって待っていた」という、嘘のような本当のコントを日常的に仕掛けていたそうです。

「お笑い怪獣」の原点となった切ないお喋り

また、3歳で実母を亡くしたさんまさんは、小学校高学年の頃に父親の再婚によって新しい母親を迎えます。その母親には、年の離れた連れ子の弟・正樹(まさき)さんがいました。

自分の子だけを贔屓にする新しい母親に「自分を好きになってほしい、認めてもらいたい」という一心から、高文少年は毎日学校で面白い話を仕入れては家で披露していました。彼の「目の前の人を何が何でも笑わせたい」という凄まじい執念の原点は、この切なくも温かい家族の歴史の中にあったのです。


2. 弟子入り志願での一言。数秒で決まった芸名「さんま」

高校卒業を控えた1974年2月、さんまさんは学校をサボって大阪へ向かい、天才落語家・笑福亭松之助に弟子入りを志願します。

師匠から「なんで俺のところに来たんや?」と問われた高文少年は、生意気にも師匠の目を真っ直ぐ見てこう言い放ちました。

「テレビを見ていて、あんたが一番おもしろかったからや」

普通の落語家なら怒ってもおかしくない不躾な言葉ですが、松之助師匠は「そうか、お前は見る目がある。おもろい顔もしとるし、学校卒業したら来い」と大喜びし、その場で入門を許可。この直感的な目利きと、さんまさんの物怖じしない度胸から伝説が始まりました。

芸名「さんま」の誕生

そして入門直後、師匠から「お前の実家は何をしてるんや?」と聞かれ、「さんま売ってます(実家が『杉本水産』という水産加工業だったため)」と答えたところ、「じゃあお前は今日から『さんま』や!」とわずか数秒で芸名が決まりました。当時は「これからは魚の時代やから売れる!」と師匠は大真面目だったといいます。


3. 実は「天才落語家」だった!入門わずか2ヶ月の衝撃

今でこそフリートークの達人ですが、落語家「笑福亭さんま」としてスタートした当時は、正統派の落語でもその才能を爆発させていました。

落語家の修行といえば、何年も雑用をこなしてようやく舞台に上がれるのが普通ですが、さんまさんはその圧倒的なセンスから、入門してわずか2ヶ月足らずで初高座(舞台)を踏むという、当時の落語界でも異例中の異例のスピード出世を果たしています。

師匠の松之助は「こいつに古典落語を型通りに教えるのはもったいない。喋りのスピードとセンスを潰してしまう」と見抜き、あえて型にハメない自由な育て方をしました。これが後のフリートークの土台となります。


4. すべてを捨てた「東京失踪・駆け落ち事件」

そんな天才若手が19歳(1974年)の時に起こした大事件が「失踪」です。当時、ある女性と大恋愛に落ちたさんまさんは、なんと芸名を捨て、師匠への挨拶もなしに、彼女と二人で夜逃げ同然で東京へ失踪してしまいます。

東京では正体を隠して熱帯魚店などでアルバイト生活を送っていましたが、約半年後、大阪に残してきた師匠や仲間の温かさに気づき、帰阪を決意します。

普通なら破門されてもおかしくない大不義理ですが、師匠の松之助は「戻ってきたいなら戻ればいい。それより東京の女はどうした?」と笑顔で許しました。この師匠の圧倒的な器の大きさがさんまさんに一生モノの覚悟を植え付け、これを機に「落語家」から「ウエンズデー(のちの明石家)さんま」としてタレント活動へ本格シフトしていくことになります。


5. 熱狂の大阪時代!ジャニーズ並みのアイドル人気

大阪に戻ったさんまさんは、猛烈な勢いでスターへの階段を駆け上がります。

21歳で深夜ラジオ『サタディ・バカボン』のパーソナリティに抜擢されると、そのマシンガントークが女子中高生の間で社会現象化。出待ちのファンが放送局を取り囲み、さんまさんが移動するだけでパニックになるという「ジャニーズ並みのアイドル人気」を獲得します。

さらに、当時の巨人の大エース・小林繁投手のピッチングフォームを真似した「形態模写(モノマネ)」が大ヒット。関西ローカルから一気に全国区の番組へ進出する足がかりを掴み、20代半ばにして関西の若手賞レースを総なめにしていきました。


6. 【最も愛した弟との別れ】悲劇を乗り越えた「生きてるだけで丸もうけ」

1983年、いよいよ全国区のスターへという最高潮の時期に、さんまさんを最大の悲劇が襲います。実家が火災に遭い、誰よりも愛していた19歳の弟・正樹さんを亡くしてしまったのです。

血の繋がらない弟でしたが、年の離れた兄であるさんまさんのことを「高文兄ちゃん」と呼び、実の兄以上に慕っていました。さんまさんも正樹さんを溺愛し、実家に帰るたびに一緒に遊んでいたといいます。火事の原因は明らかではないですが、状況から自殺ではないかと言われています。

仲間たちの不器用な優しさと復活

弟のあまりにも早すぎる死に、さんまさんはショックのあまり「人を笑わせる仕事なんか、もうできん」と本気で芸人を引退することを考えました。そんな絶望の淵にいた彼を救ったのは、ビートたけし氏やオール巨人氏ら、周囲の芸人仲間たちでした。

巨人は楽屋であえて「お前、実家燃えたんやって? ネタにすなよ!」と強烈なブラックジョークをぶつけ、たけしもテレビの生放送で「お前、実家から消火器送ってやろうか」と不謹慎極まりないイジりをしたのです。

これこそが「お笑い芸人なりの、最高の励ましと優しさ」であることをさんまさんは誰よりも理解していました。この時、さんまさんは楽屋で大号泣したあと、「不謹慎やろ!」とテレビでツッコミを入れ、見事に笑いに変えて舞台へ復帰したのです。

この壮絶な経験を経て、さんまさんの座右の銘であり、のちに娘(IMALUさん)の名前の由来にもなる「生きてるだけで丸もうけ」という絶対的な人生観が確立されることになります。


7. テレビの歴史を変えた「雑談」という芸

そして1981年、運命の番組『オレたちひょうきん族』がスタート。ここでビートたけし氏と出会ったことで、お笑い界の歴史が完全にひっくり返ります。

それまでのテレビは「台本通りにカチッと進める」のが常識でした。しかし、さんまさんとたけしさんは本番中にどれだけ予定調和を崩せるかというアドリブ合戦を敢行。日常の何気ないお喋りや、その場で起きるハプニング、楽屋裏の愚痴さえも極上のエンターテインメントに昇華させました。

彼らは、それまで芸とは見なされていなかった「雑談」を、誰も真似できない一級品の「芸」へと高めたのです。


【まとめ】激動の人生の果てに生まれた「お笑いの結晶」

「常に喋り続ける明るい男」の裏側には、スポーツ万能だった学生時代、家族を笑わせたかった少年時代、すべてを捨てた大恋愛、そして最愛の弟との別れがありました。

エムカク氏の『明石家さんまヒストリー』を読むと、彼がただの天才ではなく、激動の大阪時代と無数の人生の選択の果てに生まれた「お笑いの結晶」であることがよく分かります。気になった方はぜひ、本を手に取ってその圧倒的な熱量に触れてみてください。


📚 明石家さんまさんについてもっと知りたい方は、Kindle Unlimitedなら関連書籍が読み放題対象になっていることも多いです。

▶ 30日間無料でKindle Unlimitedを試してみる

コメント

タイトルとURLをコピーしました