はじめに
俳優でもあり、武術家でもあった伝説のスター、ブルース・リー(李小龍)。
彼の映画を見た少年たちは映画館を出ると、みんなカンフーのポーズを真似したと言われています。
その短い生涯について、いくつか雑学を記します。
生い立ちなど
生まれはサンフランシスコ
1940年11月27日、旅芸人だった両親が当時巡業していたサンフランシスコのチャイナタウンで生まれます。
本名は李振藩。
後に香港へ帰国。
子役としていくつか映画に出演しています。
イップ・マンに指導を受けた?
数多くの武術を学んでいますが、近年、映画化もされて有名になったイップ・マン(葉問)からも詠春拳の指導を5年間受けてもいます。
不良少年?
求道者的なイメージが強いですが、少年時代は派手に遊び、喧嘩に明け暮れる不良少年だったとも。
この頃、香港のダンスの大会で優勝した経験もあり、テンポのいいステップやバランス感覚の良さは武術につながっているとも言われています。
アメリカで有名になるまで
ワシントン大学で哲学を学ぶ
将来を心配した父の命令で渡米。
サンフランシスコに当初は滞在しましたが、大学進学のためシアトルに在住し、ワシントン大学で哲学を学びます。
後にリーが考案したジークンドー(截拳道)には東洋・西洋双方の哲学思想が取り入れられていますが、このときの経験が大きいと言われています。
家族構成は?
同じ大学部の医学部に通っていたリンダ・エメリーと結婚。
リーが開いていた道場に、エメリーが指導を受けに来たのをきっかけに交際が始まったとか。
一男(ブランドン)一女(シャノン)をもうけます。
ジークンドーについて
リーはジークンドー(截拳道)と呼ばれる中国武術と各種哲学思想を融合した独自の武術、思想を生み出します。
リーは宮本武蔵の書なども読んでいたと言われています。
しかし、ジークンドーは古武術家たちから批判され、多くの道場破りと対戦することになります。
「考えるな、感じろ」という言葉は、リーが残した名言です。
動きが早すぎてカメラに映らなかった?
リーが空手選手権大会で行った詠春拳の演舞が、テレビプロデューサーの目に止まり、1966年、ドラマ「グリーン・ホーネット」で主人公の相棒、日系人のカトーを演じ、アメリカでも有名になります。
このときの出演から、アメリカでは今でもブルース・リーが日本人だと思っている人がいるとのこと。
リーのあまりの動きの早さにカメラワークが追いつかなかったという逸話があり、また、見栄えのいいアクションはないかと考案されたのがヌンチャクを使うことだったとか。
これをきっかけにハリウッドスターなどから武術指導の依頼をされるようになり、スティーブ・マックイーンやジェームズ・コバーンがリーから指導を受けています。
体格など
身長は?
身長については諸説あり、概ね165センチから175センチの間と言われています。
なお、パンチのスピードが落ちるからと、胸の筋肉を鍛えず、代わりに広背筋をよく鍛えていたとか。
当時の写真を見ると、異様に背中の筋肉が発達していて、逆三角形の形となっているのがよくわかります。
弟子のひとりは「彼が上半身だけを使っての押し合いゲームをして負けるのを見たことがない」と語っています。
大怪我の経験あり
1970年トレーニング中に腰の仙骨を痛め、再起不能、歩くことさえ難しいと言われましたが、驚異的な回復力で復帰しています。
ワンインチパンチ
中国武術では「寸勁」とも「発勁」とも呼ばれる技ですが、至近距離からわずかなモーションで放つパンチで、相手を5mほど吹っ飛ばしたこともあるとか。
オープンフィンガーグローブの発明者?
現在も総合格闘技の試合などで使用されているオープンフィンガーグローブは、ブルース・リーが練習用に開発したものが始まりとされています。
また、キックミットやキックシールドなどの練習器具もブルース・リーの発明と言われています。
指の力が強かった?
伝説では、指2本だけで片手腕立て伏せができたという逸話があります。
また、缶に指で穴を開けたこともあるとか(ただし、当時の缶は現在より粗悪な材料でした)。
怪鳥音について
いわゆる「アチョー」などという声のことを怪鳥音といい、ブルース・リーが広めたものですが、吹き替えが多く、本人のものは少ないとか。
当時の香港映画は北京語で作られていましたが、彼は広東語と英語しか話せなかったためです。
香港映画のスターに
レイモンド・チョウに抜擢される
後に香港映画の父と呼ばれ、マイケル・ホイやジャッキー・チェンもスターにしたゴールデンハーベスト社のレイモンド・チョウと契約。
「ドラゴン危機一発(一髪という表記は間違い。わざとこういう表記になっている)」に出演、大ヒットし一躍スターとなります。
一時的に拠点を香港に移し、「ドラゴン怒りの鉄拳」「ドラゴンへの道」も撮影。
いずれも大ヒットし、ゴールデンハーベスト社は香港一の映画製作会社となります。
ブルース・リー自身も武術指導や演出などを務めることがありました。
唯一のキスシーン
「ドラゴン怒りの鉄拳」でのノラ・ミャオとのキスシーンがブルース・リー映画における唯一のキスシーンです。
なお、ノラ・ミャオはブルース・リーの弟ロバート・リーの同級生であり、ブルース一家とも親交がありました。
ノラ・ミャオは独身を貫いているため、色々とブルース・リーとの仲を推測されたことがあったらしいですが、本人は「いいお兄さん」というふうに思っていたとか。
ノラ・ミャオの前でのブルース・リーは陽気で気さくな人だったとか。
死について
謎多き死
アメリカと香港の合作となった「燃えよドラゴン」。
アメリカ再進出を狙う彼にとって、意欲作となったわけですが、そのため極限まで彼の精神は張り詰めていたと言われています。
作品完成後、編集中に倒れ、一度、意識不明の重体となるが回復。
このときの精密検査では異常が発見されなかったとか。
ところが、再び頭痛を訴え、鎮静剤をもらって飲んで休んでいたところ、昏睡状態となりました。
最終的には病院に搬送されますが、時すでに遅く、意識が戻ることはありませんでした。
1973年7月20日死亡、32歳の若さでした。
司法解剖が行われた結果、死因は脳浮腫と判断されます。
通常より脳が膨らんでいたため、脳幹が圧迫されたことが原因だとか。
また、遺体からはわずかながら大麻の成分が検出されています。
突然の死であったため、9月に死因究明裁判まで開かれますが、脳浮腫に至った原因は今も不明です。
ブルース・リーは、古傷の腰のケガに対する痛み止めの薬を長年飲んでおり、その薬と頭痛薬との飲み合わせが悪かったのではないかという説が有力です。
大麻に関しては、極限まで疲れていた状態だったため、疲労回復のために使用したのではないかと言われています。
後の研究では癲癇(てんかん)による突然死も有力視されています。
しかし、急死であったことから、マフィアに消された説や、彼のジークンドーを快く思っていなかった中国古武術界からの刺客に殺された説など、様々な憶測を呼ぶことになりました。
「燃えよドラゴン」は彼の死後、世界中で大ヒットし、多くのフォロワーを生むことになりますが、なぜか地元香港では前作ほどのヒットはしなかったとか。
しかし、この作品がなければ、名作漫画「北斗の拳」も誕生しませんでした。
死後
遺作「死亡遊戯」
ブルース・リー最後の作品となった「死亡遊戯」ですが、撮影そのものは「燃えよドラゴン」より先に行われていました。
「燃えよドラゴン」の製作依頼が届いたため、一時中断していたのです。
しかし、リー自身が死亡したため、お蔵入りしかけていたのですが、ゴールデンハーベスト社がサモ・ハン・キンポーに完成させることを指示、ユン・ピョウなどがリーの代役を務めることで、苦心の末、完成させました。
ただし、日本ではヒットしましたが、世界的にはヒットしなかったそうです。
息子も謎の死を遂げている
彼の息子ブランドンも俳優となりましたが、映画「クロウ」撮影中の銃撃シーンで、なぜか拳銃に実弾が入っていたため死亡するという悲劇的な死を迎えています。
なぜ実弾が入っていたかは謎のままで、急死した父同様、陰謀説もあります。
その他
若き日のジャッキー・チェン、サモ・ハン・キンポー、ユン・ピョウなどは彼の映画でスタントや敵役などで出演しています。
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