「ハチ助」が見守った伝説のゲーム会社――ハドソンの雑学と裏話

ゲーム系
記事内に広告が含まれています。

ボンバーマン、桃太郎電鉄、高橋名人の16連射――どれも知っているのに、会社そのものの正体や開発の裏側は意外と知られていない「ハドソン」。

今はコナミに吸収されて姿を消していますが、ファミコン誕生の裏側からコロコロコミックとの関係、名作誕生の秘話まで、たっぷり紹介します。

①社名の由来は「蒸気機関車」

「ハドソン」という社名は、蒸気機関車の車軸配置パターンを表す「ハドソン型」から取られたもので、創業者が鉄道マニアだったことが理由だと言われています。

ゲーム会社なのに社名の由来が鉄道というのは、後に「桃太郎電鉄」という鉄道テーマの大ヒット作を生み出すことを考えると、なんとも運命的です。

②始まりはアマチュア無線ショップ、マスコットも「8」つながり

ハドソンの原点は1973年、札幌市豊平区で開いたアマチュア無線ショップ「CQハドソン」でした。実は当初は喫茶店を開業するつもりだったものの、同じ建物内で別の借り主が先に喫茶店を始めてしまったため、急遽無線ショップに変更したという裏話も残っています。

その後1979年からシャープのパソコン用ソフト販売を始め、自社開発ソフトが評判となって急成長しました。マスコットキャラクター「ハチ助」も、当時の北海道のアマチュア無線エリア番号が「8」だったことから「ハチ」つながりで蜂になったという説があり、無線ショップ時代の名残がキャラクターにまで残っていたわけです。

③任天堂と組むきっかけは「ファミリーベーシック」だった

ハドソンとファミコンをつないだのは、実はゲームソフトではありませんでした。1983年、任天堂と親しかったシャープのテレビ事業部が、BASIC言語に強かったハドソンにファミコン向けBASIC言語の開発を持ちかけたのがすべての始まりです。

当時の任天堂はファミコン本体の開発だけで手一杯で、周辺機器として計画していたプログラミング環境「ファミリーベーシック」まで手が回らなかったため、懇意のシャープを通じてハドソンに話が舞い込んだといいます。

こうして生まれたのが、ハドソン開発の「Hu-BASIC」をベースに任天堂・シャープ3社共同開発した「NS-Hu BASIC」で、1984年6月に発売されたファミリーベーシックに搭載されました。

④任天堂の許可を待たずに開発ツールを自作していた

ファミリーベーシックの仕事で信頼を得たハドソンでしたが、実はファミコンソフト参入の準備はそれ以前から独自に進めていました。ハードとソフト両面に精通した技術者を多く抱えていたハドソンは、なんと任天堂のサポートなしにファミコンを独自解析し、ソフト開発環境を自前で作り上げてしまったのです。

その上で1983年末に任天堂へ「ファミコンのソフトを作らせてほしい」と申し出て交渉に臨みました。当時はまだ「サードパーティー」という概念自体が存在しない時代で、この交渉でできた枠組みが、後の家庭用ゲーム業界におけるサードパーティー契約の原型になったとも言われています。ファミリーベーシックで築いた信頼関係もあって交渉はスムーズにまとまったそうです。

⑤初参入ソフトは「ナッツ&ミルク」と「ロードランナー」

1984年7月28日に『ナッツ&ミルク』、同31日に『ロードランナー』を発売し、ハドソンは史上初のファミコンサードパーティとなりました。

『ロードランナー』はアメリカのBrøderbund社が開発したパソコン用アクションパズルゲームの移植作で、子ども向けにキャラクターとステージを大きくし、横スクロール画面に作り替えるなどの工夫が凝らされ、100万本を超えるミリオンセラーになりました。

もっとも移植自体は容量圧縮との戦いだったそうで、パソコン用の大容量データをファミコンで動かせるサイズまで削り込む作業に開発者は苦労したといいます。

⑥「スターフォース」はテクモ(当時テーカン)からの移植だった

高橋名人伝説に大きく関わった『スターフォース』は、実はハドソンのオリジナル作品ではなく、1984年にテーカン(後のテクモ)が稼働したアーケード用シューティングの移植作です。

当時のテーカンはファミコンで任天堂からライセンスを受けられなかったため、ハドソンが移植を引き受けたという経緯がありました。

テーカン側の証言によると、ファミコン参入の処女作についてリスクを避けたい思いから許諾したそうで、開発自体にはノータッチだったといいます。

ところがこの移植版がべらぼうに売れたことで、テーカンにとってはファミコン版のロイヤリティ収入こそが同作最大の収益源になったとも言われています。

このゲーム、テーカン側からのプログラムソースを使わず、プログラマーが目コピで作ったという伝説があります。

⑦「スーパースターフォース」を巡るテクモとの一悶着

スターフォースの大ヒットに気を良くしたハドソンは、独自に続編『スーパースターフォース』の開発を進め、その情報を1986年2月号のコロコロコミックで発表してしまいます。

ところがこれはテクモに何の断りもない話で、当時のテクモ社長が「スターフォースはウチの商品だ、勝手に続編など許さん」と激怒。

結局テクモ自身が『スーパースターフォース』を開発することになり、ハドソン側は名前の使用を諦めざるを得なくなったという顛末が、当時ハドソン社内にいた関係者の証言として語られています。

⑧すべての始まりは「コロコロまんが祭り」での大反響

高橋名人誕生、そして後のハドソン全国キャラバンの原点は、1985年3月に東京・松坂屋銀座店の屋上で開かれた小学館「コロコロまんが祭り」でした。

当時ハドソン宣伝部の平社員だった高橋利幸が、難易度の高い『チャンピオンシップロードランナー』を約1000人の親子連れの前で実演したところ、300人近くの子どもがサインをねだる事態になったといいます。

実演中、屈指の難所であるステージ10を3回も失敗してしまったものの、その苦戦ぶりがかえって子どもたちの熱狂を呼んだというエピソードも残っています。

⑨「高橋、お前今日から名人な」――社長の鶴の一声で誕生

コロコロまんが祭りの成功を見たハドソン社長が「これを全国でやったら面白いんじゃないか」と全国キャラバンの企画を即決。ゲームの実演役に指名されたのが、宣伝部でファミコン担当を一人で任されていた高橋でした。

有名人を起用するよりコストがかからないという理由で社員自身を看板にすることが決まり、将棋や囲碁にならって「名人」という肩書がつけられたそうです。それまで本名でコロコロコミックに登場していた高橋は、この決定を受けて誌面での名義を「高橋名人」に変更しました。

⑩「16連射」は第1回全国キャラバンの公式ソフト・スターフォースで誕生

1985年夏、『スターフォース』を公式ソフトとした第1回全国キャラバンで、高橋名人は「名人である自分が絶対に失敗できない」と考え、発売の2ヶ月前からオープニングの冒頭2分間だけをひたすら練習したといいます。

そこで披露した1秒間に16回ボタンを押す技がコロコロコミックで取り上げられると、一躍子どもたちのヒーローとなりました。ちなみにこの第1回キャラバンは全国60会場で開催され、参加者2万4千人、動員数8万9千人を集める大成功を収め、以後ハドソンの定番イベントとして定着しました。

本人いわく瞬間的には17連射も可能だったものの、語呂の良さや16進数への親しみから「16連射」を名乗ったという裏話も。ハドソンはこれにあやかり連射速度測定玩具「シュウォッチ」まで発売し、名人の指には3億円の保険をかける話まで出たそうです。

高橋名人に関する雑学あれこれ 逮捕されたのは本当?
1980年代半ば、「ファミコンの名人」として、日本中の少年少女に大人気だった高橋名人。本名は高橋利幸氏。1959年5月23日、北海道琴似町(現:札幌市琴似町)生まれ。2023年現在、還暦を超えています。ハドソン宣伝部の社員だった人物ですが、...

⑪「毛利名人」はスカウトで生まれた即席の相棒だった

全国キャラバンは夏休み中に全国を回る必要があり、2チーム体制が必要になりました。つまり「名人がもう一人必要」という話になり、当時ハドソンのイベントによく顔を出していた大学生に高橋名人自ら声をかけ、その場でゲームの腕前を確認した上でアルバイトとして誘ったのが「毛利名人」誕生のきっかけだったといいます。

行き当たりばったりのスカウトから、もう一人の伝説の名人が生まれたわけです。キャラバン期間中は高橋名人が西日本方面の南キャラバン、毛利名人が東日本方面の北キャラバンのMCをそれぞれ担当していました。

⑫今度は完全オリジナル、「スターソルジャー」で第2回キャラバンへ

1986年6月13日発売の『スターソルジャー』は、スターフォースのファミコン移植版にインスピレーションを得てハドソンが独自に制作したシューティングゲームです。テクモとの一件を経て、今度は他社版権に頼らない完全オリジナル作品として、第2回全国キャラバンの公式ソフトに採用されました。

発売前からコロコロコミックで大々的に宣伝され、大会には超人的な連射力を持つプレイヤーたちが「軍団」と呼ばれて次々に登場し、キャラバンの盛り上がりをさらに加速させました。

⑬桃太郎電鉄と「Team Kawada」の川田名人

桃太郎電鉄は、ハドソン初のRPGとして1987年に発売された『桃太郎伝説』のスピンオフとして1988年に登場しました。ゲーム監督はさくまあきら、キャラクターデザインは土居孝幸、音楽はサザンオールスターズの関口和之が担当しています。

実はキャラバンで活躍した「川田名人」こと川田忠之は、後にハドソンの開発チーム「Team Kawada」のリーダーとしてゲーム制作を手掛けるようになり、シリーズ10作目以降の桃太郎電鉄の制作指揮を長年担当しました。宣伝の顔だった名人が、後に看板タイトルの開発現場を率いるようになったのは興味深い流れです。

⑭ボンバーマンの生みの親、藤原茂樹

ハドソンのもう一つの看板タイトル「ボンバーマン」は、実はパソコンゲーム時代の「爆弾男」というソフトをリメイクしたのが始まりでした。ゲームデザイナーの藤原茂樹はボンバーマンシリーズのプロデューサーとして、ディレクターやスーパーバイザーの立場から長年シリーズに携わり続けた人物です。

また『迷宮組曲 ミロンの大冒険』を手掛けた笹川敏幸は、後にハドソンのサウンドプロデュースを担当するようになり、『天外魔境ZERO』や『天外魔境 第四の黙示録』で作曲も手掛けました。

⑮PCエンジンはハドソンとNECの共同開発

1987年、ハドソンは独自のLSIを含む「C62システム」を開発し、NECホームエレクトロニクスとゲーム機「PCエンジン」を共同開発しました。任天堂の下請けだけでなく自らハード開発にも乗り出していたのは、当時としては異例のことです。

PCエンジンでは実質ファーストパーティとして『カトちゃんケンちゃん』や『天外魔境』シリーズなど多くの名作を送り出しました。CD-ROM²向けの『天外魔境II 卍MARU』は坂本龍一や久石譲の音楽を使った超大作RPGとして、当時のハード保有者の多くが購入したキラーソフトになったと言われています。

⑯北海道拓殖銀行の破綻が転機に、そして桃鉄「封印事件」

1980年代には全国キャラバンやミリオンセラー連発で黄金期を迎えたハドソンですが、1990年代初頭のバブル崩壊、そして1998年にメインバンクの北海道拓殖銀行が破綻したことで資金繰りが急激に悪化しました。

2005年にコナミの子会社となって以降は社風が変化し、2011年5月31日には高橋名人が退社。同時期に桃太郎シリーズのゲーム監督さくまあきらもコナミとの確執を経て決別し、桃太郎シリーズは事実上打ち切りとなって著作権を他社に譲渡せず一旦「永久に封印する」という異例の事態になりました(後に和解し、2019年に新作が発表されています)。

⑰2012年、法人としてのハドソンは消滅――しかしブランドは今も

2012年3月1日、ハドソンはコナミデジタルエンタテインメント(KDE-J)に吸収合併され、会社として完全に消滅しました。マリオパーティシリーズを長く手掛けていたスタッフの多くもこの頃エヌディーキューブへと移籍しています。

会社は消えましたが、近年は「ボンバーマンR」や「ぱにっくボンバー」など旧ハドソンタイトルの復活が図られ、桃太郎電鉄シリーズも和解後にコナミから新作が発表されています。ハドソンという会社は消えても、その遺伝子は今もゲーム業界の中に息づいているのです。

ファミリーベーシックという「BASIC言語の仕事」がきっかけで生まれたファミコンとの縁、他社ゲームの移植から始まった伝説の連射、そしてテクモとの一悶着すら乗り越えて完全オリジナルの名作を生み出した執念――ハドソンの歴史は、日本のゲーム産業の草創期そのものを映し出しています。桃太郎電鉄やボンバーマンをプレイするとき、こうした裏側のドラマも思い出してみると、また違った面白さが感じられるかもしれません。

📚 この話題が気になる方は、Kindle Unlimitedなら関連書籍が読み放題対象になっていることも多いです。

▶ 30日間無料でKindle Unlimitedを試してみる

コメント

タイトルとURLをコピーしました