ドリフメンバーのプロフィールに関する雑学あれこれ

芸能系
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かつて日本中を楽しませてくれたお笑いグループ「ザ・ドリフターズ」。

数多くの逸話がありますが、まずはメンバーのプロフィールを中心とした雑学を記します。

メンバーの本名、逸話など

メンバーの芸名は、とあるパーティーの席で酔っ払ったクレイジーキャッツのハナ肇さんが勢いで名付けたものです。

芸能界は水商売だから、水にちなんだ文字が入っている芸名がいいと勧められたとか。

いかりや長介

本名は碇屋長一(いかりやちょういち)。
1931年11月1日東京生まれ、2004年3月20日没。

よくできた芸名に思えますが、実際は本名に近いです。
長一より長介の方が呼びやすくていいと言われ、変更することになりました。

「碇」という字は水にちなんでいるからいかりやはそのままでいいとのこと。

碇屋家のルーツは新潟にあり、祖父の代に上京。
業平橋付近、今の東京スカイツリー近くに居を構え、長屋住まいをしていました。

父親は魚河岸で働いており、柔道三段の腕前。
気が荒くて喧嘩っ早く、口は悪いが心根はやさしいという典型的な江戸っ子だったとか。

時々、父親と一緒に浅草に喜劇を見に行くことがあり、父親から伸びる芸人の見方を教えてもらっていたとのこと。

コント出来を父親に講評してもらっていたというエピソードを著書に書いています。

いかりやさんがドリフメンバーにとって怖い存在だったのは、この父親の影響もありました。

事実、いかりやさんはドリフにおける父親役でありました。

戦争中、静岡に疎開。
その後もしばらく静岡に住んでいました。

中学卒業後、工場で働きながらギターを練習。
やがてハワイアンバンドを結成し、キャバレーなどに出演。
専属バンド契約を結び、プロの道へと進みます。

1959年に東京での仕事が入り帰京。
その後はあちこちのバンドに移籍しながら、ジャズ喫茶などで演奏を続けます。

妻ふたりを先に亡くしており、三回結婚していることはあまり知られていません。

メンバーには厳しいリーダーでしたが、子供には優しく、孫に関しては溺愛していたそうです。

アフリカ旅行が隠れた趣味でした。

※この本の内容については以下の記事で紹介しています。

書評:「親父の遺言」いかりや長介氏の長男が語る父の実像 | あの日の記憶を探して
2004年3月20日に亡くなられたザ・ドリフターズのリーダーいかりや長介氏。 今回紹介するこの「親父の遺言」は、いかりや長介氏の長男、いかりや浩一氏が息子から見た父親について書かれた本です。 2006年発売の書籍なので、長介氏の死から2年後

高木ブー

本名は高木友之助。
1933年3月8日東京巣鴨生まれの千葉育ち。
6人兄弟の末っ子。
中央大学経済学部卒。

父はガスメーターの会社勤め。
軍人の兄もいたとか。

空襲で家が焼かれため、母の実家がある千葉県の柏市に避難しました。

三番目の兄がハワイアン好きで、ウクレレをプレゼントされたのがきっかけで音楽活動に目覚めます。

芸名の由来は見た目のままです。
元々、「ブーたん」を呼ばれていたのを「「たん」はいらないから「ブー」にしろ」と変えられました。
豚小屋は水を使ってよく洗うから水にちなんでいるとのこと。

父のコネで東京ガスへの就職が決まっていましたが、音楽の道を選択。
高木智之の芸名でバンド活動を始めます。

米軍キャンプなどを中心に活躍しますが、進駐軍が撤退したこともあり、ハワイアンだけでは食べていけなくなりました。

その後、ジェリー藤尾さん率いる「バップ・コーンズ」に参加。
このバンドには後に仲本工事さんも参加します。

エレキブームがやってきたので、仲本さんらと「シャドゥズ」を結成。
そのステージを見たいかりやさんにスカウトされます。

ドリフ加入の際は子どもが生まれた直後だったため、ミルク代として給料を5000円分釣り上げたというエピソードがあります。
初期のドリフでは女形を演じていたなんて逸話も。

芸能界クレー射撃部「芸能文化人ガンクラブ」の元会長でもあります。
実はいかりやさんが先に始めたらしいですが、忙しくて参加できないうちに他のメンバーの方が上達したので辞め、最年長だったブーさんが選ばれたとか。

ブーさんはセリフ覚えが悪く、「感嘆詞のブー(セリフを一文字しか覚えられない)」という異名がありました。
いかりやさんの著書では「ブーより演技が下手な奴は存在しない」とまで書かれています。

しかし、いかりやさんに一番歳が近いのがブーさんで、いかりやさんが唯一愚痴を言えるメンバーでもありました。

全員集合の舞台で怪我をした際は脱退も考えたそうですが、いかりやさんが頑として辞めることを許さなかったそうです。

ブーさんの存在があるから、加藤さんや志村さんがウケることをいかりやさんは認めていたのですね。

一方でいかりやさんは、ブーさんのことをウクレレの名手であり、歌もうまく、音楽性はドリフで一番高いと褒めてもいます。

ウクレレ普及に貢献したので、ハワイ政府からハワイアンネーム「ホア・コクア」をもらっています。

肥満からくる睡眠時無呼吸症候群で、スポンサーとの会議中に居眠りしてしまい、番組をひとつ打ち切りにしたというエピソードも。

仲本工事

本名は仲本興喜。
1941年7月5日東京生まれ。
兄弟姉妹はいません。
両親は沖縄出身。
父は靴職人で厳格な方だったとか。

工事という芸名は、体操のコントなどで派手なアクションをするのでケガが絶えず、工事中にちなんでいます。
工事にはよく水を使うから水にもちなんでいるとのこと。

メガネ姿がトレードマークですが、伊達メガネです。
顔を覚えてもらいやすくするため、特徴を作れと言われかけ始めたとか。
体操のコントなどでレンズが割れると危険だからという理由もあります。

大学時代、新宿のジャズ喫茶にてバンド(クレイジー・ウエスト)の演奏に飛び入りし、歌ったのがきっかけでバンドに加入。
そのバンドでドラムを叩いていたのが加藤茶さんでした。

本人は興喜という名前があまり好きではなかったそうで、仲本コージという芸名でバンド活動をしていました。

その後は「バップ・コーンズ」「シャドゥズ」といったグループに参加。

パップ・コーンズで一緒だったのが高木ブーさんで、その伝手でドリフ入りしました。

加入の際には芸能界入りに反対していた厳格な父をいかりやさんが説得しました。

いかりやさんは著書の中で、仲本さんの歌を下手と書いていますが、ブーさんは著書で上手いと褒めています。
事実、ビートルズの武道館公演で前座で演奏したとき、ボーカルを務めたのは仲本さんです。

ちなみに歌った曲は「のっぽのサリー」のワンフレーズです。
出演時間が公演の都合でどんどん削られて行き、ワンフレーズしか歌う時間がなかったとか。

ギターは独学で学んだそうですが、採譜などができる才能があり、ドリフの音楽面を陰で支える存在でもありました。
父親が蛇皮線を弾く人だったので、音楽的素養はあったのかと。

いかりやさんによると、学習院大を卒業しているのを自慢していたとのこと。
高校も青山高校という名門校を卒業しています。
学習院大に入ったときには弁護士かジャーナリストを目指していたとか。

体操については、東京都の大会で上位に入るほどの実力だったそうです。
まさに文武両道。
しかし、いかりやさんの著書には「せいぜい大車輪が一回できる程度」と書かれており、諸説あります。

最初の奥さんとは死別。
2人目の奥さんとは離婚。
3人目の奥さんは演歌歌手の三代純歌さんで、歳の差婚と話題になりましたが、籍は入れていない事実婚と言われています。

惜しくも2022年10月19日交通事故により、この世を去られました。

加藤茶

本名は加藤英文。
1943年3月1日東京生まれの福島育ち。
本名の読み方については「ひでふみ」「ひでゆき」「たかふみ」という説があり、はっきりしていません。

芸名の加藤茶は元々「加トちゃん」と呼ばれていたからですが、「茶」という字が当てられたのは水にちなんでいるからです。

父親は平八郎という音楽通なら知っているギタリスト。
母は寿磨子さん、妹は蔵子さんという方で、加藤は母方の姓です。

父母が離婚したため母子家庭で育ちました。
母は福島市内で小さなバーを経営。
しかし、生活は苦しく、叔母の家に預けられるようなこともありました。

貧しい中、幼い兄妹は支え合って暮らし、塞ぎがちな妹を笑わせようとしたのが加藤さんのギャグ原点です。
小学生の頃から加藤さんは妹の弁当を作るような生活をしていました。

中学時代は新聞配達のアルバイトで家計を支えていたとか。
忙しい母を助けるため、家事などをこなしていました。
そのため、炊事、裁縫、洗濯など家事が特技だと有名になってからインタビューで答えています。

高校は工業高校に学費を稼ぎながら通い、合間に映画館でチャップリンやバスター・キートンの喜劇を見るのが楽しみだったとか。

17歳のときに叔母を訪ねて上京。
すぐに帰る予定でしたが、都会に刺激を受け、新聞の求人欄で「バンドボーイ求む」という募集を見て応募。
結局、高校を中退して「渡辺弘とスターダスターズ」のバンドボーイに。

先輩のドラマーが捨てたスティックを削って使い、練習しだしたのがドラマーとなったきっかけです。
その後、「クレイジーウエスト」などを経て、「桜井輝夫とドリフターズ」に参加。
後の快進撃へとつながります。

ドリフの中で一番最初に人気が出たのが加藤さんで、アイドル的な扱いでした。
一時は毎日、50通くらいのファンレターが届いたとか。

かつて猟銃免許を持っていましたが、車の運転でスピード違反を連発したり、事故を起こしたりしたので取り消されたそうです。

いかりやさんと同時期にドリフに加入しているので、一番いかりやさんと付き合いの長い関係でした。
そのためか、いかりやさんの葬儀では、代表して弔辞を読んでおられました。

親子ほど歳の離れた女性と結婚したことも話題になりました。

志村けん

本名は志村康徳。
1950年2月20日東京生まれ、2020年3月29日没。

三人兄弟の末っ子。
本名は徳川家康の名前から二文字が取られています。

芸名については、ハナ肇さんが酔っ払って名付けた時点では、まだメンバーではなかったので自分で付けたものです。
父親の憲司さんから名前を拝借したとか。

教員であり、柔道家でもある怖い存在であった父親がお笑い番組を見て笑っているのを見て、お笑いってすごいなと思ったのが芸人を目指す原点でした。
一方で、父が亡くなる際にはテレビの収録があり、立ち会えませんでした。
一時間だけ抜け出したそうですが、臨終には間に合わず、しかも、「死んだ親父の顔を見るとお笑いの舞台に立てない」と、すぐに仕事に戻ったとか。

高校卒業の一ヶ月前、いかりやさんに弟子入りを志願し、雪の降る寒い日に何時間もマンション前で待っていたエピソードは有名です。
卒業後に弟子生活を始めようと思っていたら、一週間後に急に来いと言われ、弟子入りとなりました。

コント55号かドリフのどちらに弟子入りするか迷っていましたが、ビートルズが好きでバンド活動をしていたこともあり、音楽性の高いドリフを選びました。

チャップリンやジェリー・ルイスのお笑いが好きで影響を受けています。
ドリフのボーヤ時代に同じ立場の井山淳氏と一緒に「マックボンボン」というコンビを組み、一時冠番組を持ったことも。
しかし、ネタのストックがなかったため、番組は長続きはしませんでした。

当時は封建的な師弟関係が多かった時代ですが、ドリフのメンバー、特に加藤さんとは歳が近かったこともあり、よく声をかけてもらったとも。
一方で、一時、社会勉強をしたいと1年間ドリフを抜けるのですが、連絡がうまくいかず、「逃げた」と誤解されたエピソードも。

荒井注さんがドリフを脱退し跡を継ぐわけですが、当初は正式なメンバーではなく、「見習い」という扱いでした。
実はこのとき志村さん以外に豊岡豊という人物が後釜候補になるわけですが、若返りをした方がいいという加藤さんの意見がとおり、志村さんが選ばれました。

当初はなかなか視聴者に受け入れられませんでしたが、東村山音頭をきっかけに大ブレイク。
後期の全員集合を引っ張る存在となり、全員集合が終了後もコントや舞台にこだわり、喜劇王とも呼ばれる存在になります。

いかりやさんとは一時不仲だったと言われていますが、古くからドリフを知る関係者は、「偉くなってからの志村は昔のいかりやにそっくりだ」と語っています。

2020年、惜しくも新型コロナウイルスが原因で亡くなられました。

荒井注

元メンバー、荒井注さんの本名は荒井安雄です。
1928年7月30日東京生まれ、2000年2月9日没。

立教大学中退後、二松学舎大学に入り直し、国語の教員免許を所持。
元は脚本家志望で太宰治や三島由紀夫を愛読していました。

芸能人は水商売だから、さんずいを付けた漢字を芸名をつけたらいいと、ハナ肇さんに言われたとか。
「注さんは要注意人物だからさ」と加藤さんはギャグにしています。

荒井注さんは、実はいかりやさんより年上でした。
しかし、リーダーより年上というのも変だなという話になり、しばらく、何歳か年下にサバを読んでいたそうです。

バンド活動を始めたきっかけは学費を稼ぐためでした。
別のバンドにいたとき、当初はギタリストだったそうですが、バンドの都合でピアニストにされたという経歴の持ち主です。

いかりやさんはピアニストということで荒井さんをスカウトしたのですが、ろくにピアノが弾けないのを見て驚き、「ピアニストなのにピアノが弾けない荒井注」と紹介することで、ギャグにしていたそうです。

体力の限界と私生活を大事にしたいという考えでドリフから脱退。

ドリフ脱退後はカラオケスナックを経営しようとしたところ、入口が狭かったので機材が入らなかったという笑い話が話題となりました。

持ちギャグの「なんだバカヤロー」はNGを出した際にカメラマンに逆ギレしたときに誕生したとか。

亡くなられた際は、メンバー達から持ちギャグの「なんだ、バカヤロー!」と叫ばれることで見送られました。

すわしんじ

ドリフ第六の男と呼ばれる人物のひとりです。
本名、諏訪園親治。
1952年11月14日生まれ。

加藤さんの運転手を主に務めていたそうです。
ブルース・リーのものまねを得意とし、サポートメンバーとして、舞台に出演していました。

志村さんと正規メンバーの座を争いましたが、残念ながら選ばれず、後に「ザ・ニュースペーパー」という社会風刺コントを得意とするグループを結成しました。

いかりやさんの著書によれば、ドリフというのは固定メンバーにこだわっていたわけではなく、メンバーの入れ替えや、あるいは二代目ドリフなんてグループを作ってもよい、という構想があったそうです。
ただ、その前に辞める者が多く、残念だったとのことです。

以上、いくつか述べさせていただきましたが、ドリフに関するエピソードは本人たちの記憶が怪しいのと、ギャグとして昇華されている部分があり、真相不明な部分もあります。

例えば、加藤さんは「ドリフと志村の出会いは、志村がビートルズの公演を観に来たとき」と語っていますが、志村さんは「俺が見に行ったのはドリフが出ていない日」と否定しています。



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