現在のスウェーデン王朝はナポレオンの部下と元恋人の子孫

地理・歴史系

スウェーデンの事情

19世紀初頭、スウェーデンで王家の血筋が絶えそうになりました。
そのため、スウェーデン議会で議論がされ、ナポレオンの部下だったベルナドット元帥を迎えてはどうかという話になりました。
王家と議会は、彼がプロテスタントへ改宗することを条件にこれを承認しました。
ベルナドットもプロテスタントに興味を持っていたと語り、改宗します。
なぜ、ベルナドットの名前が挙げられたかというと、以前、戦いの後、スウェーデン人の捕虜に対して寛大であったことが議会にも伝わっていたとのことです。
もちろん、政治的な思惑もあり、ロシアに奪われたフィンランドを取り戻すにあたり、ナポレオンの力を借りたいという側面もありました。

ベルナドットという人物について

ベルナドットはフルネームをジャン=バティスト・ジュール・ベルナドットといい、フランス南部のポーという町で法律家の家庭に生まれました。
修道院や法律事務所で学びますが、17歳のときに父親が死去したことで生活が苦しくなり、軍隊に入隊します。
軍隊では次々と功績を上げ昇進。
しかも、フランス革命が起こり、身分差別がなくなったことで、下士官から将校にまで昇格することができました。
ナポレオンとは不仲で、一時はライバルとみなされた存在でした。
しばしば左遷されそうになりますが、軍事的才能と政治的才能に恵まれていたことと、後述する理由から決定的に処断されることはありませんでした。
ナポレオンが皇帝になった際、帝国元帥に任命され、表面上は和解します。

妻はナポレオンの元婚約者

ナポレオンはスウェーデン議会からの申し出に対し、同国が味方になることに期待してこれを承諾します。
ナポレオンにとって、ベルナドットは危険な存在ではありました。
しかし、彼の妻がかつてナポレオンが一方的に捨てた元婚約者のデジレ・クラリーという女性だったことが負い目にもなっていました。
そのためか、決定的に処断することができませんでした。
クラリー家はナポレオン一家がコルシカ島での勢力争いに敗れ、命からがら逃げて来たときに面倒を見てくれたマルセイユの富豪です。
ナポレオンの兄ジョゼフはデジレの姉ジュリーと結婚しています。
ナポレオンは一時期、デジレに対し、パリに来てほしい旨を手紙で伝えていました。
しかし、当時の彼はまだ下級士官であり、生活苦が予想されたため、デジレは態度を保留していました。
ナポレオンが出世した頃には、もう彼はジョゼフィーヌに夢中で、デジレのことは忘れられていました。
ベルナドットはジョゼフと親交があり、デジレとの出会いはその伝手だったようです。

スウェーデン王へ

とにかく、ベルナドットはカール・ヨハンと名を改め、スウェーデン国王の養子(王太子)となり、しばらくは摂政となり政治と軍事を見ます。
ただし、感情的なしこりか、それとも冷静な政治的判断か、ナポレオンが期待したようにスウェーデンはフランスの味方にはなりませんでした。
後にベルナドットは「ライプチヒの戦い」で連合軍を率いてナポレオンを破り、退位に追い込むことになります。

ナポレオン没落後の1818年、前国王死亡後はカール14世ヨハンとして戴冠。
妻のデジレとともに現在も続くスウェーデン王朝(ベルナドッテ朝)の創始者となります。
統治者としてのベルナドットは経済政策や農業生産の改革、インフラ整備、教育の充実などを成功させました。
また、ノルウエーの王も兼ねました。
概ね、統治者としては成功したと言えます。

しかし、妻のデジレは生涯ナポレオンのことが忘れられなかったらしく、ナポレオンからの手紙を大事に保管していたとか。
デジレは晩年、認知症の傾向が見られたようですが、死後、枕元から、かつてナポレオンから届いた手紙が大量に発見されました。
現在スウェーデンに残る最古の写真は、デジレの遺体を撮影したものと言われています。
ベルナドットとデジレの間にはオスカルという男子が生まれ、後のスウェーデン国王となりますが、その妻はナポレオンの養子ウジェーヌの子ジョゼフィーヌです。
フランスやナポレオンのこともどこか忘れられなかったのでしょうか。

ナポレオンの影に隠れて目立ちませんが、平民から国王に成り上がり、統治にも成功した点において、ベルナドットもまたドラマチックな人生を送った人物と言えますね。
また、妻のデジレも数奇な運命を辿った女性と言って差し支えないでしょう。

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